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ベートーヴェン私的概論


これがベートーヴェン!なのかどうか

 「これはベートーヴェンだ!」というように代表的な曲は数多くあるが、「ベートーヴェンはこういうものだ!」ということが一発でわかる曲は、実際には無い。なぜなら、ある曲が出来上がったとき、ベートーヴェンはさらに良いものを生み出そうと努力を始めるからである。つまり、「ベートーヴェンはこういうものだ!」ということを知りたいのなら、全体を通して考えてみるしかない。
 簡単に言うと、「わしを知ろうとしても、一筋縄ではいきませんぜ」である。

■ピアノ独奏曲

・ピアノ・ソナタ
 最初はお決まりの3大ソナタ(名前付)で入門する曲種であるが、名前がある曲のほうが名前無しよりもより理解しやすい(*1)とか、より親しみ易い(*2)というわけでもない。
 名前無しの曲で私のお勧めとしては、詩情あふれる(*3)第30番、第31番という曲があるし、可愛らしい第10番や、深みがあってカッコよい最終楽章を持つ第1番も捨てがたい。
 幸いなことにバケモノじみた第29番(*4)以外は、どれも約20分で終わるのでとっかかりは易しそうである。
 ただ、ピアノ1台の音楽は慣れないうちはほんとつまらないと感じるだろう。テレビなどで聴く楽器数の多いきらびやかな音楽に慣れてしまうと、聴き劣りしてしまうのである。貧弱なスピーカーで聴くことも、聴き劣りする理由のひとつだ。クラシック音楽は一定以上の装置を必要とするのである。

 ピアノ・ソナタはベートーヴェンの3本柱のひとつで数も多く、全生涯にわたってちりばめられている。ということは、聴けば継続して進化していくベートーヴェンの姿をはっきり知ることができる。いろいろな実験的要素を含ませながら、様々な作品がそこに並んでいるのだ。そういうことでは、一部の変奏曲や小品も、この進化の流れに組み込んで聴いてみるほうがよい。
 選帝侯ソナタが3曲あるので、ソナタは実質35曲になるが、あのソナチネ(第19,20番)は、どうしたもんかのう。たしかに良い作品なのだが、一寸小さい。

 最初の頃はごく普通の古典派のソナタに見えたものが、次第に交響曲のような姿を示してくる。ここで、4楽章のソナタが多いことに注意しておこう。メヌエットやスケルツォを積極的に採用しているのだ。
 しばらくすると「ワルトシュタイン」「熱情」のような激しい内容を含めた曲も出てくるが、名前無しソナタを聴けばわかるように、いろいろな顔を持ったソナタが並んでいることがわかる。「激しい」からベートーヴェンなのではなく「いろいろな顔を見せてくれる」からベートーヴェンなのだ。
 ソナタも1820年あたりにはかなり変化してくる。それまでのソナタを定型詩のように見るなら、散文詩のような、もしかするとショパンか何かか、と思うようなソナタになってくる。彼はピアノをそこまで使い切っていたのである。

 最初に聴いてみる曲としては、慣れた人ではへきえきするかもしれないが、名前付きで有名な作品にしよう。わかり易さという点で適切な選択だろう。「悲愴」「月光」「テンペスト」「熱情」「ワルトシュタイン」「告別」が6傑で、どれも特別な何かを持ち合わせていて、しかもどれもベートーヴェンである。たとえ1曲であっても初心者にとっては手に余る存在であるが、仕方が無いので、手始めにこのうちいくつかを聴くしかない。注意をしておくなら、「名前の意味を知っても、聴くこととは何も関係無い」ということである。おっと、「手に余る」ということは、いつまでも楽しめるという意味でもある。

 進化しつつあるピアノフォルテを前にして作曲できたベートーヴェンは、幸いである。20世紀のピアノのように完成された楽器が既にあったとしたら、あのような作品群が出来上がったかどうかわからない。ピアノ製作者たちは競って新型のピアノをベートーヴェンに使ってもらおう(*5)として、それが作品の姿に反映し、また、作品がピアノ開発の向上に貢献してきたことを考えたら、そう思うしかない。

・ピアノ変奏曲や小品
 ソナタばかりが脚光をあびるピアノ曲において、変奏曲のほとんどは他の作曲家の旋律をもとにしたもので、知人へのプレゼントに供することもあった。
 「お嬢さん、あなたのために1曲作りました」
 さあ、うら若き女性の気を引くために変奏曲を書くのだ! そんな場合には、難しい技巧や複雑な構成を盛り込むことは御法度。すると、気楽に聴ける変奏曲が出来上がる。そのためか、ベートーヴェンの中で変奏曲は日陰モンだ。
 しかし、ほぼ唯一の例外「ディアベリ変奏曲」のように出来ることを全て注ぎ込んだようなスゴい作品は、ベートーヴェンの若い頃から作曲当時までのいろいろな技術や感性が詰め込まれたようなもので、まじめに聴くには荷が重い。
 バガテルは短い時間で完結するために、出来上がりの様子もいろいろである。単純なお遊びもあれば、ちょっといい話のようなものもあって、楽しい。

 ベートーヴェンのピアノ音楽は、大規模のソナタからバガテルまで、そこにおよそ考えられるあらゆるものが含まれている多彩な世界である。その全部を高いレベルで満足させるピアニストがいるとは思えない。全集にトライするのはよいが、全貌を把握するのが困難であるために安易に取り組むとボロを出してしまうだろう(*6)。自分の得意な曲、好みの曲で抑えておくことも方法のひとつとして大切な選択肢であるに違いない。
 おそらく、曲毎に自分の性格や曲に対するアプローチを易々と切り替えることができるようなぶっ飛んだ人物でないと、全曲(*7)をまとめてハイレベルで演奏することは大変困難なことであると思う。

*1 わかり易い旋律が多いとか、単純明快な雰囲気を持っていること。
*2 上(*1) が、好感が持てる内容だということ。
*3 このような説明は、大抵の場合、曲の全体ではなく冒頭数分間を示しがち。
*4 約45分かかるので、聴けば尻も痛くなろうというもの。
*5 新開発のピアノをタダで持ってくるというのだから、それだけでも巨匠の度合いがわかるだろう。
*6 2〜3割の曲で、つまらなく思ったり、物足りなさを感じるのだ。
*7 ピアノ・ソナタからバガテルまでこなすこと。

■管弦楽曲

 3管編成になる前にベートーヴェンが生きていたことは幸いである。1800年代から使われ始めたピッコロやコントラファゴット、トロンボーンに加え、1830年代の変態ベルリオーズを例にすればわかるように、コールアングレ(*8)やコルネット、チューバが、管弦楽に使われ始めた。これらのような特殊な楽器が加わると、曲作りはいきおい色彩感が豊かな方向へ進みがちである。
 しかし、偉大なる田舎、ウィーンゆえのことだったからだろうか。それとも落着いた貴族の趣味が主流だったからだろうか。抑制された音色の2管編成が丁度盛んな時期にベートーヴェンがそれを使って作曲し続けたことは、音色に頼るよりも旋律の内容や曲の構造/展開でできあがる交響曲などを作曲するに好都合だっただろう。

*8 ベートーヴェンには、コールアングレを使った室内楽作品がある。

・交響曲
 幸いだったことの第1は、18世紀が終わろうとする段階で、木管楽器は4グループ(*9)、金管楽器は2グループ(*10)が揃ったということである。幸いだったことの第2は、ハイドンやモーツァルトを代表として、あらゆる作曲家が交響曲を書きまくっていたことである。
 だから、全9曲が同じ基礎の上で、妙に仲間はずれな姿になりもせず、まとまった姿で出来上がったのだ。こうなると演奏家の側も聴く側も、腰をすえて彼の全9曲を第1番から始められるというものである。
 交響曲第1番で思うこと。たしかにクラリネットの出番は少ないけれど、ああ管楽器6種が全部揃っていて良かったなあ。第2番では、しっかり使ってもらっている(*11)し、第3番では他の楽器と対等の扱いだ。
 一部でトロンボーンやピッコロ、コントラファゴットを使っているが、その存在は強調されているわけではなく、節度を持って基本の2管編成の音色をくずさない。構造としても、いろいろな仕掛けは作ってあるが、やはり基本はピアノ・ソナタほどくずしていない。
 進歩の跡が実感できる点、規模、構想、堅牢な構成、質感、部分的なハチャメチャさ。古典的な様相であるのに、ロマン派の行き過ぎた考え方さえ取り込んでもなんとかなるような懐の深さ。しかしその数は、少なすぎもせず、多すぎもしない。これなら全曲演奏にも取り組み易い。全9曲は演奏家にも聴衆にも最高だね、と言いたい。

*9 フルート族、オーボエ族、クラリネット族、ファゴット族
*10 ホルン、トランペット
*11 第2楽章はクラリネットが主役である。

・序曲
 逸品、「レオノーレ」序曲第3番、「コリオラン」序曲、「エグモント」序曲

 短い時間でベートーヴェンの管弦楽を知るには、好都合な曲である。この雰囲気が大きくなったら交響曲になると考えてよい。内容が濃いのは上記3曲であるが、簡素にまとめた「フィデリオ」序曲や、単純明快な「プロメテウスの創造物」序曲も、捨て難い。
 推敲に推敲を重ねたところを知りたいと思う人もいるだろうが、たとえば「レオノーレ」序曲第2番が第3番の推敲前の状態と思えばよい。大きな構造から細かい部分の流れや楽器の使い方まで、コレを推敲するとアレになってしまうのかと驚くほどだ。ただし、その違いを深く楽しみ感心するにはベートーヴェンの語法にかなり慣れていただく必要がある。
 「レオノーレ」序曲第1番、「アテネの廃墟」「献堂式」「命名祝日」「シュテファン王」の各序曲も、構造や音楽的霊感はイマイチであるが響きはベートーヴェンそのものであるので、それなりに楽しめるものである。

・劇音楽
 ここでいう劇音楽はオペラではなくて、演劇に付け足す音楽だ。つまり、役者のセリフが歌になっているものではなく、演劇の間に演奏するような音楽である。中には合唱曲も含まれたりすることもある。音楽が主体というわけではないので、ほとんどの部分は凝った音楽になっていない。「アテネの廃墟」「シュテファン王」などがある。「エグモント」は、組曲の合間に朗読をはさんでいる。
 トルコ行進曲(モーツァルトにもあるが)は、この中(「アテネの廃墟」)に含まれている。

・バレエの伴奏音楽
 「プロメテウスの創造物」「騎士バレエ」の2組曲がある。舞台を想像するとき、チャイコフスキーの「白鳥の湖」などのプリマドンナの舞台を連想してしまうのはちょっと困る。「プロメテウスの創造物」の最終曲の主題は、交響曲第3番などに流用された有名なもの。

・その他
 管楽器主体の行進曲とか、舞曲集が残されている。お金儲けや知名度の確保を目的とするもので、それらを通して当時の様相を知ることができる。行進曲といってもスーザの作品ほど華やかではなく、舞曲集も、シュトラウスのワルツほど流麗ではない。貴族の時代ではあったが、それなりに素朴なのだ。

■協奏曲

・ピアノ協奏曲
 協奏曲が独奏者の技術を披露するのが目的のひとつである以上、ある程度の型にはまった内容になることは仕方が無い。一応スタートラインといえる第2番は、ごく普通の古典派という感じだ。第2番の「長調」を発展させると第1番になり、一方、短調として充実させると第3番になる。落着いた優雅な雰囲気をたたえた第4番、豪快に鳴りまくる第5番は、その目指す方向が全く違っているという意味で好一対であり、この2曲のセットをもってして、協奏曲の分野では最強だな、と思ってほくそ笑むのである。
 なお、ボン時代の習作として残っている変ホ長調や、第2番のオマケ的に残ったロンドは、その時代なりの姿をしている。
 モーツァルト没後、5曲という数字はかなり大きいほうであろうか。
 注意しておくべきことは、当時最も流行ったピアノ協奏曲、つまり、技巧をひけらかし、結局後世に残らないようなピアノ協奏曲がどんなものか、私も含めてよくわかっていない。しかし、すぐ後で述べるバイオリン協奏曲と同じような位置付けであるなら、ベートーヴェンの「皇帝」をもってしても、当時としては地味な部類だったのであろう。

・バイオリン協奏曲
 内容としては、当時のバイオリン協奏曲のエッセンスを取り込んでいるそうなので、細部で似たり寄ったりの他人の曲もいくつかあったのだろう。だからといって、この曲が劣っているということではなく、細部で当時の流行を追い、ほどよい旋律美に満たされながらも、全体の構成や管弦楽法はまぎれもないベートーヴェンであるという点で名作なのである。
 ただし、注意しておくべきことは、当時最も流行ったバイオリン協奏曲、つまり、技巧をひけらかし、結局後世に残らないようなバイオリン協奏曲は、たとえばパガニーニの協奏曲のようなもので、それに比べたらベートーヴェンの協奏曲は地味だなあ、ということだ。

・三重協奏曲
 モーツァルトにも協奏交響曲というのがあるが、やはり独奏者が何人もいると楽しいものである。そういう作品が一つでも残っているのは、ベートーヴェンの一風変わった面を知るということで大変ありがたい。
 このような作品は、とにかく目立ってほしい3人の独奏者がいる、という観点で聴くのが正しく、他の作品と比べるのは野暮というものである。別に質が悪いというわけではないので、安心してよい。

・その他、協奏的な作品
 2曲のロマンスとか、バイオリン協奏曲の断片、ピアノ協奏曲の断片が残されている。2曲のロマンスはベートーヴェンのゆったりした音楽の代表例としてもっと聴かれてよい。

■室内楽

・バイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ
 およそ室内楽は人数が少ないために管弦楽と比べて地味になるので、普段から慣れていないと鑑賞は難しい。だからバイオリン・ソナタ第5番「春」のようにメロディがわかり易いとか、バイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」のように熱気ムンムンのほうが人気が出るのだ。チェロ・ソナタ第3番も、メロディは豊かでそこそこわかり易い曲である。そのような目立った特長が無い限り、地味なままあまり注目されないのがこういった曲種だろう。もったいない。

・ピアノが入った室内楽(上記以外)
 地味な室内楽の中で、さらに地味な分野。ベートーヴェン以前にも曲はあるにはあるし、ベートーヴェン以後ももちろんあるが、音楽としてほとんど話題にならない。ピアノ三重奏曲「大公」は有名であるが長い作品なので、わかり易いかといわれると正直どうかなと思う。ピアノ三重奏曲なら第3番ハ短調とか第5番「幽霊」のほうが、比較的短くわかり易いものであると思う。
 全然話題にならないが、ピアノ四重奏曲は素直な古典派として聴くに値する。

・管楽器を含む室内楽
 管楽器の室内楽(ハルモニー)は、本来、食事や歓談時に演奏するお気楽な音楽らしい。そこから一歩踏み出すにはそれに足る音を生み出す楽器編成が必要になるので、管弦楽か弦楽四重奏に目が向くのは当然だろう。その点、弦楽+管楽という構成にすれば、室内楽であっても音色的に内容も充実できるので、七重奏曲の人気が出るのも当然だろう。

・弦楽四重奏曲とその周辺
 親しいシュパンツィヒが第1バイオリンを勤める常設の弦楽四重奏団が存在したことは幸いである。本気で練習し本気で演奏する団体のための作品をベートーヴェンは書きたかったからだ。
 弦楽四重奏曲はベートーヴェンの3本柱のひとつであるが、全生涯にわたってちりばめられているわけではなく、固まって存在している。そのため、ベートーヴェンの進化がはっきりわかるようにまとめて観察することができる。
 しかし、いかんせん音色が地味なので、(おそらく日本では)わかり易さということで若干損をしている。この音色というハードルを越えたなら、初期の6曲は仕組み上基本に忠実なのでわかり易い曲だ。逆にかなりベートーヴェンらしさの詰まった有名な「ラズモフスキー」3曲のほうが内容が濃いので、聴く人に要求されるエネルギーも半端ではない。
 その点、第10番「ハープ」、第11番「セリオーソ」は、比較的わかり易い「ねらい目」だ。
 「難解さ」の代名詞のように言われる第12番以降は、その全体構成や個々の楽章の構造に気を留めさえしなければ、それほど難解ではない。特に第15番、第16番はかなりわかり易いと思う。しかしそれも、ありがたいことに現代の四重奏団が上手に演奏してくれるからだろう。
 弦楽五重奏曲、弦楽三重奏曲は、それなりにその時期のベートーヴェンを反映したものになっているが、四重奏曲でできないことにトライするという要素を持ち合わせているように感じられる。

■歌劇

 完成した唯一の歌劇が「フィデリオ」で、筋書き上はじつにつまらなさそうであるが、本当につまらない。ベートーヴェンの音楽があるからこそ、演奏頻度が高く、よく知られているのである。2時間半くらいで終わるという、丁度良い長さも重要なポイントだ。長すぎたら、度重なる改訂作業なんてやってられないね。
 ちなみに、なぜ1曲しか完成できなかったかというと、気に入ったネタ(台本)が無かったということに尽きる。そのかわり、もしもう1曲歌劇があったら、おそらく何曲か名曲が消えていたに違いない。

■小規模声楽

・民謡の編曲集
 イギリスの出版社からの依頼で、イギリスやスコットランドの何十という民謡にピアノ・トリオの伴奏をつけている。当時はハイドンや他の作曲家も編曲をしたということである。
 なぜ編曲したのかというと報酬目当てが第一の目的であろうが、民謡の旋律に興味を持ったことももちろんあっただろう。あと、イギリスへのあこがれもかなりあったのではと思う。ヘンデルが移り住み、ハイドンが絶賛を勝ち取ったイギリスである。行きたいなあと思ったら、編曲くらいは頑張ってみる気にもなろうというものだ。
 当然のことであるが、民謡であってもほとんどは日本になじみの無いものばかりである。ただ、さすがに民謡だけあって聴けば親しみ易いものも多い。

・歌曲
 いくら考えられた構成の「遥かなる恋人に寄せて」を作曲しても、有名なゲーテの詩に伴奏を付けても、影が薄いのはいたしかたない。管弦楽の伴奏による単独の歌曲(アリア)がいくつかあるので、そちらのほうが面白いだろう。しかし、しょせんは歌曲なので傍流である。
 歌詞に使われている詩の作者については、ゲーテという名はよく知っているが、他の人は全く馴染みが無い。しかも、どの作品にも文学として親しんだわけではない。音楽は国境が無いというが、純粋な器楽と比べて言葉が関わる芸術は、やはりわずかでも国境ができてしまうものだなあと感じられる。
 一部の歌曲に、ギターを伴奏にするものがあるが、手持ちの資料が少なく詳細不明。

■大規模声楽

・ミサ
 ミサの人気が日本でイマイチなのは、それらのような大規模の合唱曲に不慣れだからなのだ、と自分で納得してみる。日曜に教会へ行かないから教会の賛美歌を聴かないし、ミサを体験することもない。そりゃ、うちは○○宗だからね。かといって仏壇を前にお経のひとつもあげたことがないのに、さあミサを聴こうと思ってかしこまってCDを手に持つのも、なんだか不思議だ。いや、ミサのCDを手にしたとき、それがキリスト教の教会音楽であるということを忘れている(*12)。
 ハ長調のミサは、地味な普通のミサなのである。そもそもミサというものはお決まりの歌詞(ミサ通常文)を使うが、そのままやるとすぐに終わってしまうほど短いので、結局何度も繰り返すことになる。かといってただ繰り返すと単調になるだけ。
 その点、ミサ・ソレムニスは、ハ長調ミサと比較すればわかるように巨大で先進的な内容であると同時に、かなりその単調さを救おうという工夫があちこちに感じられる。それはバイオリンのソロに端的に現れている。この工夫自体は別の合唱曲で試みたことの展開で、効果のほどは確認済み。ただ、それにしても歌詞は変わらない。おまけにハ長調ミサよりも長大である。いきおい、合唱の部分をもっと減らし器楽だけの聴かせ所をふんだんに盛り込むべきじゃないかと思ったりする。
 たとえば「第9」の最終楽章のように、歌の無い部分が全体の半分近くあれば、かなり器楽的にも面白い作品ができるような気がする。ミサという既成概念からは飛び出してしまったものになるが、まあ、そこはベートーヴェンじゃないか。飛び出してもかまわないだろう。もしもう少し長生きしてくれたら、そんな作品も期待してみたいところだ。
 しかし考えてみると、ヘンデルの「メサイア」があれほど有名なのに、結局「あの」一部分(*13)しか知らないのは、やはりお経すら読まない自分のせいなのか日本人の特質なのか。そんなところをわざわざ背景に持ってきて「ベートーヴェンは器楽の作曲家だから!」とのたまうのも良いが、実際にはキリスト教の匂いが100%なのでミサは人気が無い、というのが本音だろう。「第9」がこれほど日本で人気があるのは、別ページにも若干書いたが「キリスト教の匂い」が感じられない、つまり、神の概念がより普遍的なもので抑えられているからに違いない。シラーは宗教に関する詩を書いたのではなく、民衆の生きる道を書いたのだ。その裏返しが日本でのミサの人気が低いと私が思っている理由である。

・オラトリオ、カンタータなど
 オラトリオとしてはたとえば「かんらん山上のキリスト」がある。「かんらん山」と呼ぶより「オリーブ山」と呼んだほうが正しいらしいが、この曲は内容としては宗教的にキリスト教からちょっとズレているという評価がある。じつはそうなっているからこそ比較的面白く聴けるのである。
 他にも、機会音楽(*14)としてのカンタータや、10分程度で終わる合唱曲がいくつかある。これらは内容次第で気楽に聴けるものであるが、面白さは欠落している。

*12 「覚えていない」が正解だろう。
*13 「ハレルヤ」コーラス
*14 いろいろなイベントに彩りを添えるために作った音楽

(2019/11/21)



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