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単発講座「交響曲第4番」


絶対スゴいこの曲

 普通に曲目紹介をすると、有名曲中心になる。そこは私はヘソ曲がりなので、皆さんがやりそうなことはやらない。で、このシリーズで最初に採り上げるのはこの曲になった。大好きな曲である。

 交響曲第4番といえば、よく引き合いに出される言葉が「二人の巨人にはさまれたギリシャの乙女」であるが、私は初めの頃、そんなに優雅なモノかいな。と思っていた。しかし、今はちょっと考えが違う。ギリシャの乙女というのは、結構たくましいのではないか、と思っているのだ。ほら、ギリシャ建築なんかの女性ってけっこう豊かな体つきをしていないか? どこの国でも女性は「たおやめ」が一番というわけでもなかろう。

交響曲第4番
 第1楽章
 カール・ベームやカルロス・クライバーが名演を生んだその第1楽章は、アレグロの醍醐味を満喫させてくれる、正統派ソナタ形式なのだ。私自身としては、古くはモントゥーやクリュイタンスが指揮したものなんかが落ち着いた雰囲気で好きである。
 この曲のどこが面白いかというと、まず、その序奏が持つ雰囲気が型破りな点。交響曲第2番でもそこそこ個性的で出来のいい序奏を書いたベートーヴェンであるが、この曲で一気に、のめり込んでしまったということだろうか。雰囲気的には、ピアノソナタ「テンペスト」の最初の小節が拡大されたような、と書くと納得してもらえるかもしれない。漠とした雰囲気が、いかにもこれから進んでいく先に何かがありそうでそれを隠している、という感じである。
 実際のところそれだけでも大変な特徴であるのだけど、アレグロ楽章の速度感や快活さの充実度は非常に満足できる。このあたりの理由の一端は別のページに書いた。第1主題の元気の良いこと、この駆け上がりは、切れ味が良い。4分音符ではない8分音符と8分休符が並んだこの動きも、この主題の快活さを物語っている。誰が演奏しようとしても必ず同じ印象を与えるように主題が強い個性をもっているのだ。
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 曲の構成は、第2主題が始まるまで一気呵成で止まらない。第2主題が始まったら、これまた展開部の途中までずっと高速走行である。やはりアレグロ楽章は、こうでないといけない。そのようになっているひとつの理由に、即興性があげられる。この曲のスケッチはほとんど残っていないのだ。これはつまり、かなり短期間に、また、推敲すること少なく作られたということ。この曲の序奏部はかなり綿密に作られたような印象を与えるが、アレグロになってからがすごい。その即興性は、楽譜を見るとよくわかる。一見、数小節〜十数小節のかたまりが連続しているように楽譜上の区切りが見えるのだ。もっとも第1楽章に限らず、即興性は感じられる。管弦楽法のこざっぱりしたところはそこにも理由がありそうだ。
 さて、高速走行を続ける第1楽章であるが、比較する材料の提示を忘れてしまった。速度がどうのと書いてきたが、いわゆる名曲の第1楽章は、どういうものだろうか。
交響曲第5番、ところどころにフェルマータがあり、速度感はイマいち。
「ジュピター」ところどころでオケ全体が休止するが、フェルマータが無いので速度感はかなりよい。
「未完成」ゆったりと流れる。速度感ナシ。
「悲愴」速度一定せず。問題外。
「新世界」一応アレグロ楽章っぽいが、第2主題で思いっきり速度押さえてしまう印象。
 速度感が明確で一貫しているのが、古典派の交響曲の特徴であろう。そうすると、そのあたりでも交響曲第5番は古典派を越えた存在なのだ。「田園」もそうだ。主題の提示でフェルマータがある。2ヶ所だけですが。おっと、第7番も主題の提示のところにフェルマータがあったな。そういえば、第8番の第1楽章は第2主題でフェルマータが…。第9はまた、別のところにある。なんだ、あちこちにあるねぇ。
 ともかく、第4番は面白い交響曲なのである。

 第2楽章
 この楽章の特徴は旋律の息が長いということである。これは、ハイドンやモーツァルトの交響曲と比較していただければよくわかる。解説者の誰かが「考えるアダージョの始まりだ」と書いていたようだが、内容はともかく思いをめぐらせているような印象は確かにある。この楽章の旋律は長い。長くて、はっきりした終わりがない。そのまま次の要素に接続しているわけだ。口ずさんでみたら、どんどん先に進んでしまうだろう。そのまま第2主題までつながっている。このことについては第1楽章と同様で、思考に途切れることがなく続いていると考えてもらうと、ベートーヴェンの作曲技法の一端が明らかになるのではないだろうか。
 また、ベートーヴェンはここでクラリネットに大役を与えている。使われている管楽器で、音がなめらかでさわやか、とくればフルートとクラリネットの高音域なのだ。クラリネットがハイドンやモーツァルトでは大きく扱われていないだけに、ベートーヴェンは意識して使ったのだろうか。それとも、時代の流れだったのだろうか。

 第3楽章
 この楽章で聴いてわかる面白さは、上がり下りの流れに特徴のある旋律、というか旋律の断片である。それにあわせて拍子の微妙な変化があげられるだろう。スケルツォであるから当然3拍子である。速度が速いので、指揮する上では1拍子だ。しかし、内部は3拍子と2拍子なのである。
 冒頭は誰もが3拍子だろうという観念で聴いているわけなので、多少音型に特徴があっても3拍子として聴いてしまう。しかし、しばらくして、「たら、たら、たら、....」と下っていくところがある。sym4_3_1.jpg (33345 バイト)
ここを3拍子として聴けるだろうか。別に無理に3拍子だと思う必要はない。ここは突如出現した2拍子の世界なのだ(ヘミオラという)。合いの手を入れる管楽器も、2拍子だと言わんばかりの音型だ。ところが、すぐさまファゴット等が3拍子にしてしまう。「呆けているな。ここは3拍子だ」とでも言うかのようだ。こういった遊びというものができる、ということがすばらしいところである。このような意表を突いた展開は第2番まではなかった。と書いたところで、第3番「英雄」のスケルツォの途中で、急に3拍子が2拍子になったところを思い出していただけただろうか。あのノリがここにある。拍子変化の一発芸ということでは交響曲第7番のスケルツォにも類似の部分がある。別ページの解説があるので、ご覧ください。
 ともかく、交響曲の第3楽章といえば、それまではメヌエットのゆったりとした3拍子が普通であり、第3楽章は3拍子であるものだ、という先入観があるわけで、そこに工夫の余地があったということになる。
 一方、トリオでは(ベートーヴェンにしては)一見普通に始まる。ここはピアノソナタ第15番「田園」の第1楽章に似たところ。この楽章も「田園」につながるのどかさを確保している。たゆたうように弦が流れるところは、川のようでもある。

 第4楽章
 この楽章の特徴については別ページで少し触れた。「運動エネルギーの持続性」に主眼がおかれ、絶え間無い動きは「常動曲」と呼ばれることもある。この性質を最後の最後まで保とうとすると冒頭の第1主題にあるような同じ動きをいつまでも持続しなければならないように思われるが、それはかえって単調というもの。間に挿入する音型をうまく考慮して配置すれば、必ず緊張の途切れない、印象の統一された楽章となるのだ。たとえば、突然出てくるffによる4分音符(1小節の半分)と、第1主題の断片の組み合わせ。sym4_4_1.jpg (24195 バイト)
4小節1組で提示部には2回出現する。1小節毎に息を吐いて吸うというような印象を与える。これは非常に面白いものがある。音楽的には途切れているように見えるが、運動エネルギーは全く失われていない。見事な切り返しである。で、これと同じことを第2楽章の第1主題の後ろでやっていることに気づいただろうか。いたるところで、非常に面白い工夫がなされている。これは、この楽章のみならず曲全体で言えることなのだ。
 この交響曲を説明する上で「英雄」交響曲と比較して「形式的には古典派に戻った」と、よく解説文に書かれている。確かにその通りだろう。しかし、現代の聴衆は、どこまで形式を意識して聴いているだろうか。実態は聴いて面白いかどうか、だろう。そういう点ではこの曲は、絶対に飽きさせない工夫に満ちた面白い曲なのである。古典派を超えたところにある曲なのだ。



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