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  5. 交響曲第8番

単発講座「交響曲第8番」


さりげなくスゴいこの曲

 ある著名な霊能者が、ベートーヴェンについて、こう語った。
 「ベートーヴェンは、交響曲第8番を書いているときに神上がり(かむあがり)した(神の域に達した)」
 このような意味だったと思う。たしかにその通りとうなずける。ここで注意しなければならないのは、ベートーヴェンは通常複数の曲を並行して作曲していたということである。ご存知の通り交響曲第7番を並行して書いている。ということなら「1812年頃に神の域に達した」と表現すればいい。にもかかわらず交響曲第8番を指定してこのように述べたわけだ。その神通力や驚嘆に値する。ベートーヴェンをよく知り、この交響曲をよく知る私には、まさに、なるほどというところである。曲の外見で判断してしまうと交響曲第5番、「第9」あるいは後期の弦楽四重奏曲を引き合いに出してしまうところだろう。
 誤解をしないでいただきたいのは「神の域に達した」とは、別に、ベートーヴェンが非常に見習うべき「紳士」になったとか「宗教を説いた」とかいうのではなく、「神様の世界とツーカーになって、インスピレーションがバッチリ受け取れた」ということである。その結果、この交響曲は構成の点でも管弦楽法の点でも非常にまとまりがよく、美しく調和がとれている。無論第7番も第9番もすばらしい曲であるが、妙なる世界にどちらが近いかといえば、第8番をあげたい。円熟した技法をもって無理なく書いた、というものである。
 第1楽章からすでに愉快さが感じられる。第4楽章は、性質的に第2交響曲の最終楽章と同じであるが、より雄大になっている。一般的に「小さい」といわれるが、それは時間的に短いことと、第1楽章が比較的おだやかであることが理由だろう。第4楽章のみを聴くと、とても「小さい」とは思えない。

交響曲第8番
 第1楽章
 アレグロ楽章というのは、古典派では2拍子4拍子が多いのではないだろうか。で、これは3拍子である。そういうことでは「英雄」も3拍子であるな。3拍子というのは、速度感がいまひとつになるので、そのぶん別のところでの工夫が目立つことになる。洗練された展開部は、序曲「レオノーレ」第3番との類似性が発見できる。さて、どこのことを言っているのでしょうか? 強弱の組み合わせで動いていくところ、「レオノーレ」でもこの楽章でも同じで、展開部に入ったところからである。
 つまらないことだが、この楽章でも途中で2拍子に一時的に変化するところがある(ヘミオラ)。また、末尾の部分は解説書によくあるように、最初のころはフォルテで終わる予定であったのが変更になったもの。第1主題の一部が主音で終わるので、それを利用して終結にしてしまったというのは「第9」第1楽章でも行なった手法。
 聴いて一番面白いのは、第2主題に入っていく過程から2拍子に変化していくあたりだろう。第2主題にリタルダンドを含むのも珍しいものである。

 第2楽章
 お茶目を地でいっている楽章。ロッシーニに似た諧謔性という解説も見受けられるが、ベートーヴェンの性格上、こういう解説を書いた人には罵声が飛ぶかもしれない。ベートーヴェン特有のジョークであると解説しておきたいものである。
 この楽章の特徴というか聴き所は、弦楽器と管楽器、高音楽器と低音楽器の間での旋律の受け渡しであるが、それとともに音楽が旋律線としては絶えることなく次に続いていく様も、しっかり聴いておきたい。

 第3楽章
 これを単純に、従来のメヌエットとして片付けていいものかどうかは大変に疑問である。もうここには、メヌエットという古典舞曲的な性格は無い。もっともベートーヴェンの交響曲では、メヌエットと呼べるものはもともとから無いのだ。スケルツォという諧謔性は、この交響曲では第2楽章が担っている。ということで、この楽章はどちらでもない性格を持たせようとした3拍子の音楽ではないだろうか。既成観念に縛られない世界である。もともとメヌエットというものはウィーン風のものであろうか。18世紀のウィーン風でない交響曲ではメヌエットが無い3楽章形式だったそうだ。第3楽章がメヌエットでなければならない理由はベートーヴェンには存在しないのである。
 第3楽章は、スケルツォというメヌエットとは正反対の性格を持つ楽章としてベートーヴェンは再生したのであるが、もう、そんな性格の違いのことなど、どうでもよい領域に達してしまったのだ。この曲をもってして、交響曲はグローバルな性格を完全に身につけたと言ってよい。

 第4楽章
 これも別ページに少し書いた。2つの展開部が重要な構成であり、また聴く上では、第2主題を導く部分から第2主題が終わるあたりまでの連続した場面の変化がポイントであろうか。この曲全体で言えることであるが、決して旋律の流れが途切れることがないというのが、すばらしいのである。無理なし破綻なしというところか。聴いていて思うのであるが、その流れを実現するためにティンパニがオクターブで調律されているのではないだろうか。ある解説で第8番第4楽章で初めて行なわれたティンパニのオクターブでの調律が、第9番の第2楽章でさらに徹底して活用され....と書いているが、そんな工夫を思いつきで盛り込んだわけではない。ベートーヴェンに言わせればおそらく「音楽がオクターブでの調律を要求したのだ」ということだろう。このティンパニの使い方を第8番で試みて第9番で花開いたわけではない。あくまでも管弦楽法は音楽を表現するための手段であって、目的ではないのだから。



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