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交響曲第5番を自分の趣味で聴く


 私もそうであるが、この曲を完璧と評価する声は少なくない。その完璧さは、音楽の構造なのか、プロポーションなのか、表現する内容なのか、はっきり説明するのは難しいかもしれないが、言いたいことはわかってもらえるものと思う。
 しかし、一方で完璧と呼ぶ声があっても、もう一方にはそう思っていない人たちもいるのだ。それも何故か、指揮者にけっこういるようなのだ。つまり、私が必要ないと思われる修正をしている指揮者はすなわちこの曲をハナっからこの曲を完璧と思っていないのである。だから、あれこれいじり回す。指揮者のプライドと言えなくもないが、そこまでしなくてもちゃんと演奏できるだろ、と私は思う。

 以降、私がやらなくてもよい/やってほしくない修正について書いてみる。皆さんの好きな演奏家をクサすことになるかもしれないので、ご容赦願いたい。

第1楽章展開部
 提示部で第2主題を導いたホルンのようにバイオリンが強く鳴るとすぐに管楽器も含めて弱くなってしまい、続く低音弦(赤矢印)などをよく聞こえるようにしてしまう。
 たしかに第2主題ではバイオリンの旋律を聴かせるためにホルンの音は弱くなってしまうが、展開部でこの有様では勢いが殺がれてしまう。
 私の知る限り、古くはクレンペラーが実施した方法である。彼より以前からあったやり方なのかもしれない。

 ※再現部の第2主題でファゴットをホルンに置き換えることはお咎め無し。

第2楽章
 主題がより細かい変奏になってビオラ→バイオリン→低音弦と続いた。このとき高音域ではfのはずが弱くなってしまう(赤矢印)。これも低音弦がよく聞こえるようにという配慮であるが、やはり勢いが殺がれてしまう。
 実際の演奏会場では、CDで聴くのと同じほど低音弦の音が強く響いてくるわけではない。演奏しているほうはそれがわかっているので、低音弦が主役の場合に音量の差をなんとかしたいという気持ちが出てくるのはわかるが、本来曲そのものが持っているはずのエネルギーが失われてしまう、ということには注意が届かないのだろうか。


第3楽章その1
 ホルンで強くなるこの主題の直後、ホルンがどこかに消えてしまう演奏(赤矢印)に出会ったことは無いか? 旋律がバイオリンに引き継がれるが、ホルンは遠慮する必要は無いと思う。


第3楽章その2
 末尾。ここまで、強弱に焦点をあててきたが、ここではテンポ・ルパートが気になる。
 この最後の部分について細かいことを書こう。
 自分に対する聞こえ方を基準に説明すると、ここ(@)から4(または2)小節単位。第1バイオリンが旋律の断片を扱いはじめてしばらくすると3小節単位(A)になり、最後では3小節(B)+4小節となって、第4楽章になだれ込む。(楽譜はピアノ版)

 最後が「3小節+4小節」になっているのはなぜなのか。「3小節+3小節」ではいけないのか。もっとも「3小節+5小節」では変な感じはするが。
 ベートーヴェンは、とにかく結論として「3小節+4小節」の長さの配分がちょうど良いと思ったのだ。

 しかし、この最後の小節を引き伸ばす演奏がある。大なり小なりそうしている演奏の割合はかなり多いだろう。このことについて「引き伸ばすことは自由であって全く問題が無い、思いっきり引き伸ばしてほしいものだ」と思っているなら、伸ばして演奏する前にここが「3小節+4小節」になっている理由をよく考えてみるべきだと思う。どう伸ばしてもよいのなら、フェルマータをいくつか書いておけば済むのだ。
 この曲を大好きなら、まず楽譜上の正しい曲の姿を知っておくべきだ。

第4楽章冒頭2小節
 この3つの音を伸ばし気味に演奏することがちらほらある。実はそれが気に入らない。第3楽章までこれは良い演奏だなぁと思っていたところ、3小節めで速度が変わる。ここでガクッとなる。
 この冒頭では、その指揮者が考える Allegro という速度をビシッと叩き込んでおくべきだろう。
 話が前後するが、第1楽章冒頭のみが妙にゆっくりな演奏も多いだろう。そこはフェルマータで区切られているため、それが若干の速度の違いも吸収してくれる。しかし、第4楽章冒頭は、そうはいかない。


第4楽章ホルン
 ホルンが主題を鳴らしたはいいが、これまた(オマケにトランペットもあるというのに)すぐに弱くなって弦楽器を目立たせる。ひどい演奏になると、バイオリンまでも弱くして低音弦の音を聴かせようとする。私に言わせれば、姑息である。

 ここも低音弦を目立たせるためにバイオリンが聞こえなくなる部分だ。


 さて、私がどんな演奏が好きかという点では、許容範囲は並であると思う。が、このように書いてきたとおり、いわゆる(本来の意味での)原理主義者だと言ってよいと思う。まず楽譜ありき。楽譜に準拠しないでどうする、という思いは強い。どのような演奏家でも当然楽譜が最初であると思うが、どうもそうではない人たちもいる感じがしてならない。

 もし「楽譜が第一ですよ」という指揮者がいたら、その演奏をよく聴いてみるべきだ。どれほど楽譜に書かれていないことをしでかしているか。
 昔、ショルティがシカゴ交響楽団と来日してベートーヴェンの交響曲を演奏したとき、「このように、楽譜の通りに演奏してます」と解説者が説明したラジオ番組があった。これは裏返すと「楽譜の通り演奏してない演奏が大変多いです。それらは夾雑物だらけです」と言っているようなものだ。え??、それって皆、今まで厚化粧な演奏だなあと思って了解の上で聴いていたってことなのだろうか。
 もちろんショルティの演奏は、ショルティの音符の扱い方があって、シカゴ交響楽団の音色があるから、いかに楽譜通りですよと演奏したところで、同じ姿勢の他の演奏家と間違える確率は小さいだろう。誰でも十分に経験を積んだのなら、姑息な表現のこねくり回しなんかせずとも立派な演奏をするものだと思うが、それではいけないのだろうか。
 楽譜には無い嫌なニュアンスを付ける演奏に出会うたびに、そんなことを思うのだ。

 誰のことだったか忘れたのだが、今まで何度も演奏をしてきた曲を改めて演奏会にかけるとき、新品の楽譜を用意して一から読み直すようにしている指揮者がいるのだそうだ。既に聴いたことがあるのかどうかわからないが、たぶん私の許容範囲内の演奏をするのだろうな、と思う。


(2015.02.01)


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