単発講座「交響曲の原典版」(または、くたばれジンマン)
ベートーヴェンの交響曲の原典版の出版がヘンレ社とベーレンライター社で絶賛販売中であるが、ベーレンライター版の録音が完成した(ARTE
NOVAによる、デビッド・ジンマン指揮のシリーズ)。という、触れ込みであったが、じつは嘘(後述)。
(私は、ジンマン盤が登場した頃、ベーレンライター原典版のスコアは購入していなかった)
原典版という言葉はいかにも「決定版」のように聞こえる。しかしこれは錯覚である。ベートーヴェン以外の人間が介した原典版は、どんなに注意してもベートーヴェンではない別人の意思が潜り込んでいるからだ。また、これが当時のある時点でのスコアの完全な再現であったとしても、決定版ではないのだ。もし決定版があるとしたら、それはベートーヴェンが最終的に良しとしたものでなければならないし、彼にここでの原典版を見せたら何か言うに決まっているのだ。「誰だ、こんなにした奴は」と。であるから、決定版とはいつまでも作曲者の頭の中にしか存在しないのである。たとえばブルックナーはよく改訂したそうであるが、彼に彼の交響曲の原典版と呼ばれるものを見せたら、「すみません、もう少し直させてください」と、きっと言うだろう。
まず注意していただきたいのは、原典版の信奉、絶対視は絶対にやめてほしいということである。いかに原典版と名前が付いていても、あくまでもある人物による参考意見でしかないのである。無論、今流布しているブライトコプフ版が「より正しい」などと言うつもりはない。
通常流布しているブライトコプフ版との比較では、編者は「スラー、タイ、スタッカート」や1小節単位での楽器の使い方や、特定の1音の修正などに注目をしてほしいようであるが、聴く人にとっては、いや、私には、そんな個所よりも、もっと気になるところがある(ここでは書かない)し、スタッカートの使い方の差よりも演奏家の解釈の差のほうが大きい場合がほとんどだ。
ともかく、楽譜の書き方などの詳しい解説などというのは音楽学者などに任せるとして、ここでは、とりあえずジンマンがベーレンライター版で「できた」と、ほざく(実際は違う。後述)ので、仕方ナシに聴いてわかるところの解説と感想を述べたい。
第1番
とりたてて通常版との変わりはない。
第2番
第1楽章
序奏でトリルの扱いに変化がみられたり、トリルが新たに追加されているが、うっかりすると聴き逃す。ホルンは、(古楽器でもないのに)バルブを使用しないで鳴らせている。
第2楽章
ここで、クラリネットに多量の装飾音がある。これ以前に発売された第4番第2楽章、第7番第2楽章にあるクラリネットと同じ内容の装飾音であるが、はっきり言って多すぎる。私は確信した。「ジンマンは、勝手にやっている」と。
第3番「英雄」
第2楽章
オーボエの旋律に各所で装飾音は、やりすぎ。
第4楽章
冒頭での主題提示が弦楽4重奏。
※装飾音というのは、ゆっくりとした楽章で付加しやすい。だから第2楽章で付加されている。聴いてみての印象では、それほど違和感が無い。第4楽章における弦楽4重奏の出現は少々驚かされるが、よく考えると「変奏曲」では「合唱幻想曲」作品80でも同様に4重奏が現れるので、「英雄」を知らない人には、あながち変というわけではない。弦楽器が多い近代オーケストラで、いきなり4重奏が少々面食らうくらいのことであるかも。
第4番
第2楽章
第2主題(クラリネット)の再現に、装飾音が多い。
※第1主題が再現部でもともと装飾を施されているので、第2主題でも装飾されていてもいいかな、という印象もある。しかし、誰が聴いても装飾のやりすぎと思える。
第5番
第1楽章
再現部のオーボエのカデンツァに余分な装飾。
第3楽章
A-B-A-B-Aの形式。
※第3楽章のこの形式は、ギュルケの研究もふまえると当然の帰結であるが、第1楽章のカデンツァも、変に作り変えることは実はそれほど驚かなかった。もともとカデンツァみたいなものなのだから。しかし、楽譜とおりではないのは、まずい。
第6番「田園」
第1楽章
第2主題の随所に装飾音。展開部前半でバイオリンの持続音にクレッシェンドが無い。
※これらの変更は、非常に面食らった。
第2楽章
中間部のフルートとオーボエの戯れがスタッカートで。コーダのナイチンゲールに装飾音。
第3楽章
トリオの2拍子でフルートに装飾音。
※この修正は、全体の印象が変わってしまう、たいへん困った変化である。
第7番
第1楽章
再現部にオーボエのカデンツァ。
※妙なカデンツァということでは、第5よりこちらの方が面白い。スコアを見れば、いかにもそこにカデンツァがありそうにフェルマータをしているわけで、バロック音楽に通じている人であれば、カデンツァを入れたいなと思うのは当然のことだろう。しかし、「皇帝」でカデンツァが廃止されたように、この場合のベートーヴェンでカデンツァはご法度である。
第2楽章
中間部のクラリネットに装飾音。
※装飾音では、これが一番驚いた。なぜなら、中間部は完全なクラリネットの独壇場になってしまうのだ。中間部の冒頭は、通常版なら渾然一体となった管楽器の響きが面白いのであるが、クラリネットのみに装飾音が付くと、クラリネットのソロの曲になってしまうのである。
第8番
さらっと聴いたところでは、目立った違いはなかった。イントネーションはひどい。
第9番「合唱付き」
第1楽章
ところどころニュアンスが異なる(ディミヌエンドが入っている)。ベートーヴェンは、アレグロ楽章においては滅多なことではディミヌエンドを書きこまない人であった。
第2楽章、第3楽章
とりたてておかしなところはない。
第4楽章
前半のバリトンのソロで音の流れが変形している。さすがにアバド版が既に発売されていたからなのか、変なところは少ない。
どの曲にも、装飾音に大きな特徴がある。カデンツァも装飾音の一種である。ここまで多いと、装飾音が尋常ならざるほどに多いと言ってよい。ということは、その後の推敲の結果装飾音が少なくなってしまったと考えても何ら不思議はないだろう(考えたくはないが)。日本語版CDの解説では、これら原典版がどのような位置づけであるのかが明確に説明されていなかった。これは困る。初演時に近づけたのか、それとも、推敲に推敲を重ねた結果を再現しようとしたのか。私には、全体を通して、これらは「推敲前」の音楽のように思えるのである。この「原典版」という言葉を黙って提示されてしまうと、聴衆に与える印象の違いは、非常に大きいものがある。原典版をどのような位置づけとして皆に知らしめたいのか、ヘンレ社とベーレンライター社の原典版は通常流布版とどのような違いがあるのか、明確にしていただきたいものである。
(この頃、タワーレコードの担当は、第5のカデンツァの独自性を絶賛していた)
また、ヘンレ社の原典版は交響曲第1、2番を持っているが、楽譜としては装飾音などはとくに目立った変化は無かった。また、ベーレンライターの各種協奏曲原典版でも、目立った変化は無いようである。すると、装飾音がやたら耳につくのは、ベーレンライター版の交響曲だけなのだろうか。
(くれぐれも断っておくが、この部分を書いていた当時は、私はベーレンライター原典版のスコアを購入していなかった)
いや、違うぞ、じつは……
ここで、大きな疑問にぶちあたる。ジンマンは、楽譜に忠実に演奏しているのであろうか、という疑問である。たとえば、「田園」第1楽章展開部でのバイオリンのクレッシェンド。ジンマンの演奏を聴く限り、クレッシェンドどころか、ディミヌエンドしている。はたして、楽譜ではあの場面で、本当にディミヌエンドしていたのか。あるいは、第7第1楽章のカデンツァ。あのように楽譜に記載されていたのか。もしかすると、「アドリブで」としか書いていなかったのかもしれない。交響曲第5番第1楽章のカデンツァも同じである。こういう疑問が出てくるのは、じつはCDの解説に、「ここが原典版のポイント」としてあげられている部分がいくつかあるのだが、そのどれもが、ささいな表現や音の違いでしかないのである。うっかりすると聞き逃すようなものばかりである。監修のデル・マーは、それが原典版のポイントだと言っているのに、このジンマンの演奏の変わり様は、いかばかりであろうか。私には、これが「世界初録音」と謳っていいものであるかどうかすらも、はなはだ疑問なのである。「英雄」の弦楽4重奏についても同じである。たしかに協奏曲などでは、まれにチェロ1人で、という指示も出るので、ここで弦楽4人であってもおかしくはないのであるが、やはり妙である。いずれは楽譜との詳しい比較による解説が現れるに違いない。
ここまで考えると、ベーレンライター版も、じつはヘンレ版と同じ、素直な原典版ではないか、ということに思い当たる。逆に、勝手に音を付け足すジンマンが、はたしてとんだ食わせ者であるかどうか、しばらくしたらわかるに違いない。装飾音の付けすぎも、彼の一存ではないだろうか。そうなると、ジンマン自身が、ベートーヴェンをどこまで知っているのか、そして、「原典版の録音」に期待していた購買者を裏切る、などという、基盤となる命題にまで突っ込んだ話題になってしまうのである。(この項1998年)
ということで、全曲を聴いたわけであるが、前に書いたように、こと装飾音に関しては、ジンマンは自分の勝手な解釈を採用した、と私は判断する。まあ、自分の解釈を披露するのが指揮者の仕事であるが、「ベーレンライター」と関係ない。やりすぎである。これでは、その他の変容のもろもろのことも、全く信用おけないことになる。資料としての価値が全く無いばかりか、演奏内容もそれほどうまいということでもない。このことは、楽譜を持っていない人にも、第1〜8番では、現在計画中のサイモン・ラトルによるベーレンライター原典版演奏で明らかになるであろう(この頃、マッケラスの録音があることを知らなかった)。また、第9については、すでに詳しく違いを記述した本がある(こだわり派のための名曲徹底分析 交響曲の名曲1 金子建志著)ので、読めば誰でも比較ができる。とすると、ラトル版発売後は「ジンマン版は全てゴミになる」ということなのだ。(この項1999年)
結局、ジンマンは、ベーレンライター原典版(ジョナサン・デル=マー校訂)を知ることなく、勝手にやっていたということだ。さすがに、最後の第9については、少しは研究報告を読んだらしい。こことこことここ、ここも参照。ここまで書いてきて、なんだよ、このオチは。
なぜ最後の「第9」に至ってベーレンライター原典版に従うことになったかというと、これは推測であるが、ベーレンライター原典版の第4楽章には誰にでも通常版と違うとわかる箇所があるからだ。それは途中のホルンの音型である(通常版ではホルン2名で、パパー、パパー、パパー、パパーと鳴る)。これは、絶対にベーレンライター版を本当に使わないと、これまでの悪行が白日の下にさらされてしまう。ジンマン、きさま、われわれを騙しておいて、ただで済むと思うな。
サギだ。金返せ。
しかしまあ、情けないのは、いまだに、2010年になっても、ジンマンの交響曲全集がベーレンライター版だと思っている人たちである。しかもそれが本になっていたり、雑誌に掲載されていたりする。それをまた信じる人が出る。君たち、ジンマンの交響曲全集は「第9」を除いて他はただのジンマシン感染版なのだよ。飯守も、マッケラスも、ラトルだってあんなことはしていない。
■以上、この項は、1998年〜2010年で、順次書き加えていったものである。ベーレンライター版は何種類か発売されているが、私が聴いたのは、飯守泰次郎盤、マッケラス盤(旧盤)で、どちらかというと、マッケラスを取る。
■ではなぜ、ジンマンがベーレンライター版を標榜していたかというと、発売会社が勝手に文言を付けたのだそうだ(2003年に知った)。そんなことをする会社そのものがどうかしているし、そうでありながら何もしなかったジンマンも、どうかしている。さらに、何も疑問を持たずにヨイショするのも、どうかしている。
■バイオリン協奏曲(ハーン独奏)でも、指揮のジンマンは妙なイントネーションを付けた演奏で、興ざめした(2006年)。ハーンが可哀相だ。若いから文句は言わないだろうと思って、好き放題したのか?
■もう、序曲全集なんて、買わないぞ。
■ということで、ジンマンの交響曲はハードオフに捨ててきました。
(2010.4.27 改訂)