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ベートーヴェンを語る場合に、ある意味、刺激的な



 20世紀も後半になり、いわゆる指揮者の最後の巨匠と呼ばれる人たち、ベームとかカラヤンとかバーンスタインとかが亡くなって久しい頃、CD販売の界隈では売れ筋の指揮者を探すような動きがあった。だいたいにおいてNHK交響楽団を筆頭に在京の楽団への客演で来日する爺ちゃん指揮者とか、あるいは欧米で在任期間が長い爺ちゃん常任指揮者なんだろうけど、そういった人たちを発掘するのだ。そのことを指摘したコラムがあったので、私だけがそう思っていたわけではない。まあ、老齢でどこかの常任指揮者を長く勤めたならならそれなりのベテランなので何かしら良いところがあるのはもちろんなのだが、そうでもしなきゃいけないほどの人材難なのだろう。
 一方でレコード会社がことさらに若手指揮者/演奏家を持ち上げるのも、20世紀後半から多くなってきたように感じる。レコード会社が若手を探すのは簡単だ。有名どころの楽団に何度も呼ばれる指揮者/演奏家に目をつければよいのだ。もちろん専属契約に持ち込めるかどうかはわからんがね。

 と、まあ、こんな状態なので、たとえばベートーヴェンの交響曲第5番の演奏はどれが名演奏でしょう。などという質問があっても、この半世紀以上の間、内容に幅はあるものの回答にさしたる変化が無いのが実際なのだ。LPレコード全盛期の巨匠による名演奏をいくつか示すのである。若い世代の指揮者が新録音をリリースすると、録音年に50年以上の開きがある過去の演奏が比較対象になるのだ。過去の巨匠と比較されては、若い世代にはたまったものではない。一歩アドバンテージがあるとするなら、生演奏を聴かせてあげられることくらいである。

■質問に配慮して答えを選ぶ

 ここで、いつも感じることがあって、たとえば
 質問「ベートーヴェンの交響曲第9番の名演奏は何でしょうか」
 と
 質問「ベートーヴェンの交響曲第9番では、どの演奏を聴くのが良いでしょうか」
 という、2つの問いに対して、どちらにも
 「フルトヴェングラーのバイロイト祝祭管弦楽団による演奏です」
 と答える人がいることで、これは変である。

 「フルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭管弦楽団による交響曲第9番の演奏は名演です」
という文章であれば、私は強く否定する気は無い。しかし、
 「お勧めはフルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭管弦楽団による交響曲第9番の演奏です」
という文章ならば私は「なんだお前は、質問が読めないのか、バカなのか、ベートーヴェンを知っているのか、フルトヴェングラー盲目礼賛なのか」と思うのである。質問を勘違いしただけならそれでいい。そうでないのなら、いささか困るのである。あ、私は困らないが、答えられた人が困るだけである。
 なんとあのフルトヴェングラー絶賛の某宇野評論家ですら、「(推薦するに)実は、これといったものが無い。…フルトヴェングラー指揮のバイロイトは…古い…物足りなさが残る」と書いているくらいなのである。録音が古いことについての配慮くらいできてあたりまえである。古いと何が悪いかといって、私も経験があるのだが、どうにも耳に悪いのである。その結果、演奏に良い印象を持てない。

 さて、いわゆる初心者に対して、最初に体験する演奏をどれにするか、もしあなたが答える場合には、ぜひとも注意してあげてほしい。ここではあえて録音の古さについては言及しない。比較的新しいほうが聴きやすいに決まっているからだ。推薦できる演奏を提示する前に、演奏は演奏家によって全く印象が変わってしまうこと、楽譜に書かれていないニュアンスを付け足してしまうことが当然のようにまかり通っていること、これが初心者にはわかっていないのである。わかっていないために、一つの交響曲には一枚のCDがあればよいのではないかと思ってしまい、個人の棚に何十枚も同じ曲のCDが並ぶのを頭が変と思うのである。

 したがって、質問をしてきた初心者が、演奏の個々の相違に必然性があることを知らないという点で本当の初心者であったなら、決して「フルトヴェングラーのバイロイト祝祭管弦楽団による演奏」を勧めてはいけない。主観的、客観的な演奏の違いを云々して紹介する前に、答えるほうは、なるべく客観的で標準的な演奏を、無論音の良いものを選んで紹介してあげるべきである。それが初心者に対する配慮というものと思う。
 フルトヴェングラーの演奏がなぜ初心者への紹介に不適切なのか、その理由をことさらあげつらうことは後にするが、簡単に書くならこの演奏は、ベートーヴェンの楽譜に記載されていることを無視したり、書かれていないニュアンスを付け足したりすることが多く、要は自分で勝手に作り変えている演奏だからである。これは良く言えば主観的であり、悪く言えば古い時代の残り香なのであり、某宇野氏が単に品質が悪いモノラル録音を避けようということとは別の意味なのだ。フルトヴェングラーの演奏は、演奏される曲を良く知っている人に対して勧めるべきものだ。いわゆる通の人、「違いがわかる人」のための演奏で、通人になってからの楽しみとして取っておくべきと私は思う。

 この部分の楽譜は実際にはこうなっているから本来はこう演奏しなければいけないが、この曲の全体の意味を考えたとき、どうしても私の魂がこのように演奏したいからこうなったのだ! という過程がわかることを、ここでは「違いがわかる」と称している。

 これを知らずにフルトヴェングラーのみを勧めてしまう場合「違いがわかったような実はわかっていない人」が「違いが何かすらわからない人」を迷わせる結果になるのではないかと私は考える。いろいろな演奏を聴くということは違いがわかるために必要だ。しかし、初心者はまず手許にあるひとつの演奏を、何度も丹念に聴くものである。
 ならば、本当の初心者の質問に対しては、質問者に適切な回答をよく吟味して与えるべきであり、自分の趣味を押し付けることは一歩立ち止まって考えたいものである。

■私はフルトヴェングラーを勧めない
 私が答えるなら、たとえばコンヴィチュニーのゲバントハウス管弦楽団による演奏をあげておこう。

 20世紀前半、ドイツではノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)が音楽の世界にも波及し、元に還る動きが明確になってきたが、私はそんな細かいことは知らない。こういった動きがあっても無くても知っても知らなくても、初心者には「良いスタートライン」を示してあげる必要がある。スタートは、言うまでもなく楽譜である。
 コンヴィチュニー(または他の多くの演奏家たち)は、スタートラインに近い演奏をする。おっと、間違えないでほしい。スタートラインに近いのはゴールから遠いというわけではない。もちろんスタートから遠ければ決してゴールに近いというわけでもない。

■フルトヴェングラー
 とまあ書いてきたので、ついでに書いておこう。最近フルトヴェングラーは聴かないなぁと気付いた。

 いきなりだが、フルトヴェングラーは何がダメだというと、「自分のやり方に合わない曲は演奏できない」という点に尽きる。したがって、いつまでも「英雄」「運命」「第9」である。これにせいぜい「第7」が加わる程度だ。故人に願っても仕方が無いが、私にとって特に第2,4交響曲がうまく演奏できないようでは、話にならない。

 ちょっと考えてみる。フルトヴェングラーの演奏が極端に平凡に聴こえる曲がある。それは私が知る限り、R.シュトラウスの交響詩だ。CDはもう売り払ってしまったが、たしか何のとりえも無く聴こえた。ある評論家は「普通の演奏だ」と言い切った。なるほど後期ロマン派であるR.シュトラウスの楽譜の何からナニまで緻密な表現が、フルトヴェングラーの手足を奪ってしまうのだ。ここが彼の大嫌いなカラヤンとの違いである。
 私は思う。フルトヴェングラーがカラヤンを徹底的に嫌ったというが、嫌いになるには理由がある。それはフルトヴェングラーにはできないことをカラヤンができるからである。カラヤンには勝てない。恐れたのだ。フルトヴェングラーは自分の限界がわかっていたのである。だいたいにおいて、相手をかなり格下と思ったら、力量が圧倒的な王者は恐れないものである。
 逆の例を書こう。フルトヴェングラーはショルティを「K(カラヤン)よりマシ」と評価したそうだ。その意味は簡単だ。「ショルティ、恐るるに足らず」。ショルティのことは自分よりかなり格下であると感じ、全く評価していなかったのである。だから「まァいいんじゃないの」という表現になるのだ。
 また別の話として、バイロイトの本番演奏を聴いたEMIのレッグに「良い演奏でしたが,期待したほどではありません」と言われて落胆してしまい、立ち直るのに2日かかった、とある。どっしりした演奏をするにもかかわらず心根はどっしりしていない。実は他人による評価がよほど気になるのである。聴衆の拍手よりレッグの言葉のほうが重いのだ。なぜなのか。はっきり書くと、小心者といってよい。
 さらに時代がノイエ・ザハリヒカイトだったということもある。その中でフルトヴェングラーが19世紀の残り香とし生きながらえていたのだ。そのような立場にある自分自身のことくらい、それなりによくわかっていたはずである。
 とまあ、このように書いてみれば印象は一変する。
 フルトヴェングラーはカラヤンを自分なりに高く評価していたのだ、と考えられる。名指揮者にはそれくらいのことはわかるのである。そう思わないかね?

■皆同じ
 フルトヴェングラーを例にすると、どうしてもやってほしくない解釈が3つある。
 1つめはフェルマータを付け足すこと。これは交響曲第5番第3楽章の最後に相当する。フェルマータを付け足したために、3小節単位から4小節単位に移行する構成が無駄になるのだ。譜例のBである(ピアノ版)。ちなみに、この譜例の2番から3番の手前までは数えにくい。聴いた印象で仮に付けてある。
 c

 これは終戦直後の演奏会録音(1944年)で顕著だ。

 2つめは、速度が変わる場面での漸次加速(Accelerando)だ。
  実例をあげると
  ・序曲「エグモント」コーダ開始部分


   これほどコーダ直前(上の1段め)で、溜めに溜めているのに、それでも満足できずにコーダをAllegro(2段め)で開始できないというのは、どこか偏執狂的なものを感じさせる。

 ・序曲「レオノーレ」第3番ソナタ形式主部第1主題開始部分

   このベートーヴェンにしては珍しいほどに颯爽としてなめらかで爽快な主題を鈍重に始めるというマヌケな演奏が、この名指揮者にして採用してしまうということが理解できない。

 これらは速度がAllegroに切り替わったにもかかわらず、直前の状態を引きずって遅めに始めるという方式である。
 ちなみに交響曲第5番第4楽章コーダ直前は、作曲者による加速(sempre piu allegro)が指定されているので、問題ない。こういうことの確認のために楽譜が必要なのだ。

 一方、Allegroに切り替わってから加速する手法が似合わない主題にはこうする。
  ・シューベルト交響曲第9番「ザ・グレート」第1楽章序奏末尾
 ここではコーダの末尾にあるクレッシェンドと同時に加速を開始するのだ。しかし、実際には加速する指示は無い。
 実は、速度の変化がどこにも指定されていない場合でも同様のことを行っている。
 速度変化の指定が無いのに漸次加速するのはここ
  ・交響曲第9番第4楽章歓喜の主題提示で全合奏になる直前
  ・ブラームス交響曲第1番第4楽章第1主題

 フルトヴェングラーが生涯で何度も演奏する上で、常にこうしているとは決して断定しないが、並べてみる限りワンパターンであることは確かだ。正直こんなことまでしなくても良い演奏ができるだろうにと思うし、こういうことを採り上げて、これが曲の本質をつかんだ名演奏なのだと持ち上げるのもバカみたいなのである。
 このような、書かれていない速度の変化をあえて与えることで、こうするのが正しいのだ、曲の本来の姿なのだ、こうすべきものだ、速度の若干の変化はもともと許されるものだし、皆そうしてきたのだ、という指摘がある。

 ならば、楽譜で明確に規定された速度変化は、どうするのがよいのだろうか。
 それがここで指摘する3つめである。
 規定された速度変化は、規定された通りにしろ、つまり a tempo は a tempo しろ、ということである。具体的には交響曲第9番第1楽章の例の箇所だ。


 これは、誰が何と言おうとも楽譜に従わなければならない。正直、フルトヴェングラーの芸術なんざ、ベートーヴェンの前ではどうでもいい存在なのである。


■ベートーヴェン、いや人間に対する固定観念

 根は同じだと思うが、ベートーヴェンといえば、どうしても「運命」「合唱付」「月光」「熱情」というイメージから離れられない人が多い。ベートーヴェン関係の書籍で、さまざまな人の書き物が集まったような本があるが、その中で音楽を生業としていない人の書き物ではまず十中八九、ベートーヴェン=「運命」「合唱付」「月光」「熱情」である。いや、これなら「月光」があるだけまだよい。明確に書かれているわけではないが、「運命」の印象そのものがベートーヴェンの作風とこじつけられているような人がかなり多いように見受けられる。たったそれだけで、「ベートーヴェンは、こうだ!」と主張する。レコードやCDが無かった時代なら仕方が無いことかもしれない。ゲーテとかはそうだろう。しかし、今は違う。代表作をひとつに限られては困る。それがベートーヴェンなのである。いや、他の誰だって普通はそうだろ。

 「運命」「合唱付」「月光」「熱情」はたしかにベートーヴェンにとって作曲人生におけるゴールではないし、スタートでもない。しかし、全体を俯瞰できない人には、これらがベートーヴェンの全てを示しているように見えてしまうのだ。スタートであり、ゴール、これさえ聴けばベートーヴェンは大丈夫! というたぐいの話である。実はそんな曲はひとつも無いのに。

 ステロタイプのように同じ意味の文面を読むにつれ、あなたはベートーヴェンが進化し続けたことを知らないのか、あるいは人間とはすべからく同じ作風のまま生まれ出でて死んで行くと思っているのか。実は「運命」交響曲か他数曲しか聴いたことはないのに違いない、室内楽などは存在すら気にしていないのだろうよと私は思ったりする。この人の体験は、名前付き交響曲止まりです。あ、こちらの方は、いわゆる中期の曲だけですね。という具合である。この人に、もっといろいろと聴く時間があったなら、こんな文章を書いたりすることも無かったろうに、もっと違った結論やもっと違った体験があっただろうに、と思ったりする。

 そう、これは私の自慢でもある。
 たたひとつで歴史に名を残せる曲が1曲どころか両手両足にも余るほどあるという類い稀な大作曲家であっても、人々の会話にのぼってこないような曲、埋もれたままの曲は多数ある。まさに、小さな氷山であっても水面下には巨大な氷が隠れているというわけだ。そのことに気付いた以上、それらを聴かないというのは大いなる怠慢といってもよい。これはどんな芸術家にもあてはまる。
 多数を占める名も無い曲が、実はその作曲家の作曲人生の基礎であり根幹であると考えてもよいのではないか。有名曲を30曲知ったところで、キミたちは上っ面をなでただけではないのか。つらつらとそのように考えていると、全てを聴いてみようという気にならないだろうか。たしかにつまらない曲は多いかもしれないが、それがなぜあるのか、他の曲との関係はどうなのか、などということをいつか考えてみようかと、ちょっとだけ思いながら聴くのだ。もちろん普段はそんなことは私だって考えないが、ベートーヴェンを聴くことの延長に、それがある。

 現代のように、全ての曲が手に届くところにあるという楽しみ。それは、その時代、その国、その文化を感じる楽しみである、なんてことは全く考えない。カッコつけるために書いてみただけだ。しかし、音楽を通して他の人の思考を感じるということは、自分の思考が広がったように感じることではある。もちろん自分は聴くだけでほとんど何も考えていないので新たなものは何も生み出せないが、私自身は満たされる。
 さらに、さまざまなことを知り聴くことで、この曲はこうなっているから面白い、この面白さは別にあるこの曲のここを知るまでわからない。だからといって他人には、その部分を指で示すだけではダメで曲全体を聴かせないと結局わからない、でも私は聴いているし、わかる。音楽は、だから面白い。

 (2016.1.11)



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