1. ベートーヴェン勝手解説大全集 >
  2.  
  3. メニュー >
  4.  
  5. フルトヴェングラーとか、カラヤンとか、トスカニーニとか

フルトヴェングラーとか、カラヤンとか、トスカニーニとか


 もしあなたがCDのブックレットの解説程度しか読んだことが無い場合、ヘタをすると、その解説の中ではCDの演奏家の絶賛に終始し、ひどい場合は他の演奏家を蔑んでいる場合もあるだろう。それはそれでひとつの意見であろうが、そのような意見があった場合には全く別の意見もあるはずだと思うべきであろう。音楽の世界に限らず、自分の見識を広めるという意味も含めて、いろいろな意見を謙虚に聞き、読みたいものだ。CDを聴いたり演奏会に詣でて鑑賞するだけではなく、ただのゴシップでもいいからさまざまな意見を取り込むようにしたい。

 さて、本の紹介になってしまうが、2011年発行の「指揮者の役割」(中野雄、新潮社)が、そんな裏話も含めて、見識を広めるのに役立つと思う。この本はウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団の3つについてのいろいろな話と考察が記載されている。決して堅苦しい話ではないので面白いし、こういう話が他のさまざまな演奏家や演奏団体にもあるはずだと思えば、いっそういろいろな演奏を色眼鏡を通さずに聴くことができると思う。

 さて、この本で面白い部分はいくつもあるが、たとえば…

 チャイコフスキーの《悲愴》を演奏しても「ドイツ観念論的解釈と表現」(作曲家・柴田南雄)と評されたほど、「精神的なもの」「哲学的思考」をステージの上に持ちこんだフルトヴェングラーの演奏手法は、死後五〇年を過ぎても世界中で崇拝者の列が絶えぬほど自己完結的で、完成度はいかなる後継者をもってしても越えられぬほどの超絶的な高みにまで達していた。バレンボイム、メータ、ポリーニなど現代の名人たちは、かつて私的な研究会まで催してこの巨人の足跡を追い、手法や理念の解明に努めたが、結果は「信仰の使徒」名簿に名前を連ねるにとどまる。後継者を名乗りうる人も、巷でそう噂される者も、遂に現れなかった。
 文化的偉業を達成した巨木の根本には、ぺんぺん草すら映える余地はない。フルトヴェングラーは、間違いなく「永遠の規範」と評するに値する存在であったが、後進のために進むべき未来を指し示す「導きの星」にはならなかった。終着点の向こう側に、未来は存在しないからである。

 フルトヴェングラーが大好きな人には、うれしくなるような文言かもしれない。まあ、よく読んでみると、実際のところバレンボイム、メータ、ポリーニなんて、ベートーヴェンの演奏でひとかどの実績すら残していないんじゃないかと思ったりするし、日本には後継者を名乗るというよりただ真似をしただけの演奏(聴いてないけど)でCDを売った誰かさんがいたような…と思ったりする。
 ここで「後進のために進むべき未来を指し示す「導きの星」にはならなかった。」というのは気にしておくべき言葉と思う。演奏がすばらしいのなら、なぜそれに続く人がいないのか? ちょっと考えておきたい。いやもう、ひとかどの芸術家なら猿真似なんかやらないであっさりあきらめてしまうところなのだろうが、バレンボイムによる中期のピアノソナタの演奏はどこかフルトヴェングラーを真似たいという欲望がちらりと見え隠れするような気がするし、また書くけど、日本の某氏に至っては(とにかく聴いていないが)猿真似をしているらしい。
 しかし、こういうフルトヴェングラーへの絶賛というのはどんな曲にであてはまるようなものではなくて、「英雄」、ハ短調、「第7」、「第9」の4曲に限っているんじゃないかと、そこが大変気になる。これはたとえばクナパーツブシュも似たような扱いを感じる。私は別にフルトヴェングラーがダメとは言わないが、第1も第2も第4も好きであるし、「田園」や第8や各種序曲その他だって聴きたいわけなので、そこであえてフルトヴェングラーを選ぶ気は無い。クリュイタンスとかコンヴィチュニーとかモントゥーとか、十分にすばらしい演奏はあるし、ベームだってイッセルシュテットだってウィーン・フィルで良い演奏を残しているし、録音は古いがワルターだってバカにできない。カラヤンも立派に演奏してくれているし、クライバー(子)の第4や第7に異論をはさむ人は少ないだろう。
 しかも、「英雄」、ハ短調、「第7」、「第9」であっても、フルトヴェングラーは後進のために進むべき未来を指し示す「導きの星」にはならなかったので、結局それらの曲でも後にすばらしい演奏が残されることになった。
 なんてことはない。「フルトヴェングラーを聴く」のならいざ知らず、「ベートーヴェンを聴く」にあたっては、フルトヴェングラーは単なる選択肢のひとつでしかない。録音が古いという弱点を持っただけの演奏である。ひいきにする理由は、どこにもないのだ。

 もうひとつこの本で面白いのは、ここ。

 ともあれ、アンチ・カラヤンの論陣を張った世の批評家や知識人は、結果として現実に手痛いしっぺ返しを受ける結果になった。「どうせ、生きているうちだけさ」などと嘯(うそぶ)く輩もいたが、死後《アダージョ・カラヤン》なるCDがミリオン・セラーを記録し、二〇〇八年には『生誕一〇〇年』を祝う《全集》まで発売されようという仕儀に相成ると、「売れれば勝ち」とまでは言わないが、「カラヤンという音楽家の芸術を、もしかしたらわれわれは、ほんの僅かしか理解できていなかったのではないか」という気持ちにさえなるのである。

 「アンチ・カラヤンの論陣を張った世の批評家や知識人」って、ひょっとして日本人だけではないのか、と思う。みなさんでもCDや雑誌の文章をよく読んでいれば何人か思い当たるに違いない。私は実際に「どうせ、生きているうちだけさ」などと嘯(うそぶ)いた文章に出くわしたこともある。面白いなあ。ヨーロッパに、同じような人はいるのだろうか。
 フルトヴェングラーはカラヤンを大変に嫌ったというが、その理由はどう考えても「自分に匹敵する才能があるので邪魔になった」からなのである。この本にも同様のことが書かれてある。もし「才能が足元にも及ばない」のなら、フルトヴェングラーは鼻にもかけないはずである。しかし「世の批評家や知識人」は、そんなフルトヴェングラーの「カラヤンへの正しい評価」を気にもかけず「フルトヴェングラーが敵対した」という事実を拠り所にしたのであろう、それで「アンチ・カラヤンの論陣を張った」のなら、なんておめでたい「お子ちゃま」たちなのだろう、と思う。ここでカラヤンをトスカニーニに変えても同じことであろう。

 たったひとりの演奏家を絶賛する書籍は面白いだろうが、反面、誤った考え方を仕込まれる可能性がある。私がお勧めする本は、複数人の演奏家について記された、裏方の人が書いた本である。裏方の人というのは、CDのブックレットとか雑誌に頻繁に名前を連ねる人ではない、ということだ。

(2012.2.7)



トップに戻る メニューに戻る