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なんだか世間ではパクリを晒したりするのが流行らしいので


 音楽でも昔からパクりではないかというものがある。ベートーヴェンに関するものでそれに関係した話題というなら、最もよく知られた件は、ブラームスの第1交響曲の主題が第9の最終楽章の主題に似ているということだろう。次いで、「英雄」交響曲の冒頭の主題がモーツァルトの歌劇の曲に似ているというものだろうか。

 その前にいくつか書いておこう。
 何事にも始まりがあるが、著作権に関する考えはベートーヴェン存命当時は無かった。いや、やっとその兆しが見えてきたというところだろうか。
 「この曲は自分の作品である。勝手に使うな」と最初に法廷で争ったのは、私が知る限りではベートーヴェンが最初である。
 これは「ウェリントンの勝利」の所有権(たしかここでは自由に演奏する権利)でメルツェル(兄)との確執として有名である。誰が考えても作ったのがベートーヴェンならベートーヴェンに所有権があるだろうと思うが、メルツェル(兄)は「自分が作曲を提案したのだから、自分の所有であると力説した」。なおメトロノームを作ったメルツェル(兄)と、補聴器を作ったメルツェル(弟)と混同してはいけない。
 「提案した人」「作った人」というこの2人の関係は、最近どこかで聞いたことがあるよね。

 こういう争いにまで発展するのは非常に稀なことと思うが、どこからか拾ってきた旋律や、ちまたで有名な旋律を自分の作品に組み込んだりするのは、普通に行われていた。たとえば最近の曲では、ショスタコービチの交響曲第15番にロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲が引用されていた。子供の頃に聞いたことへの思い出として使ったということだ。
 ベートーヴェンでもピアノ三重奏「街の歌」の第3楽章は当時の流行歌であったというし、「田園」交響曲の冒頭主題は田舎で聞き取った旋律ではないかと言われている。聴覚に問題があったベートーヴェンなので、ふと聞こえて来たメロディを書き留めた、とは考えにくいが、そういうことになっている。どちらにせよ、拝借したのは旋律だけである。
 出所を明確にしている曲としては、ベートーヴェンに限らず「○○○○の主題による変奏曲」という曲がある。当時の有名な曲(歌劇のアリアなど)を最初にひととおり演奏し、続いて変奏をいくつか続けるという形式の作品だ。その歌劇を見て来た聴衆が記念にその楽譜を買うようなもので、つまり便乗商品である。
 まさか使用料を払っていたとは思えないが、持ちつ持たれつの関係であったのだろう。旋律を思い出してくれればまた歌劇を見に来てくれるだろう。新しい聴衆をつれてきてくれるかもしれない。

 ということで上の基礎知識をふまえる必要は無いがちょっとだけ考えてみる。

ブラームスの第1交響曲の主題

 この部分のみ取り出したときの旋律の印象は、やはり似ている。これは正直なところだろう。一部分を抜き出してみてもこの2、3小節はよく似ている(赤い線の部分)。また、旋律全体でも似たような雰囲気はある。これは音の動きを1オクターブの範囲に収めていることや、旋律自体の構造も、4x4=16小節で主音に終止すること(第9では後半を繰り返している)、弦楽器が落ち着いた雰囲気で演奏するところも同じである。


 もしこの曲がこの旋律のみで完結した作品(有節歌曲のような)だったらどうなっていたろうかと思う。似ているということで、それでおしまいだろう。発表すらされなかっただろう。しかし幸いなことにこの曲は交響曲であって、その前に3つの楽章があり、この旋律の前後にも楽章としての長い構造が横たわっているのだ。つまり旋律は単なる素材でしかない。
 クラシック音楽の一般的な曲は長いので、器に余裕がある。たとえ旋律が多少似ていてもオリジナリティにあふれた作品にできるのだ。このあたりが領域がほぼ確定しているデザイン画などと異なる点だろうか。

 さて、旋律の類似を云々した後で、もう1点、類似のことがあるのはお気づきだろうか。それは、この主題提示の部分の構造である。
 では並べてみる。
 第9
  低音弦で提示 → ビオラで提示 → バイオリンで提示 → 全楽器で提示 → 展開

 ブラームス
  バイオリンで提示 → 管楽器で提示 → 全楽器で提示と見せかけて実は展開
  しかも主題再現部では思いっきり構造が変化している。

 ブラームスの作戦勝ちである。慎重なブラームスは全てわかっていたのだ。同じ食材を使っても調理が違えば別の料理になるということを。


「英雄」交響曲の冒頭の主題

 言わずと知れたこの主題の特徴は、冒頭の変ホ長調の主和音打撃2個を構成する3音のみでできていることである。したがってこの主題が3小節めに出てきても、全く当然の流れなのだ。そして、赤で示したように新たな流れにつながっていく。

 皆さんは、もし(ハ長調でいうなら)ド・ミ・ソの音のみで旋律を作れと言い渡されたら、どんな旋律を作るだろうか。簡単そうなお題ではあるが、もちろん交響曲の主題として「使い物になる」旋律でなければだめだ。
 調性音楽が主体の古典派なので、変ホ長調の主和音(変ホ、ト、変ロ)を意識した主題なら、まず主音(変ホ)から始まるのがもっとも簡単だ。続く音は3度違い(ト)か5度違い(変ロ)が簡単なので、ベートーヴェンの場合は「ト」になった。続く音は「変ホ」続いて「変ロ」だ。このように主音から「上がって下がって」という簡単な話である。

 こうして考えると、どうやら似たような旋律がいくつもできてしまいそうだとわかる。モーツァルトは、こう書いた。
 モーツァルト 歌劇「バスティアンとバスティエンヌ」K.50

 こちらはト長調。最初の4小節は、やはり主和音を構成する音しか使っていない。よく見ると、4小節は同じ動きをしている。その次にどう動いていくかが勝負の分かれ目だろうか。「わしがこの主題の魅力を最大限に引き出したのだ」とベートーヴェンは言うだろう。
 それはともかく、この作品はモーツアルトが子供の頃の短い曲であり、しかも当時は出版業が発達していなかったので、これが出版され衆目に晒されるとは考えにくい。また、何度も劇場で上演されるような曲でもない。そもそも、マジメに上演したかどうかすら疑わしい。したがって、1768年に作曲したこの曲は、19世紀に出版されるまで埋もれたままになっていたと考えるべきである。モーツァルトの曲をパクったな、なんていう、つまらないことを言わないように。




(2015.9.13)



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