「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
普通ではないベートーヴェン入門
じゃ、何が普通なのかというと交響曲第5番、「田園」「月光」だったりする。25年以上前、私が中学生だった頃、音楽の教科書には副読本があって、そこには交響曲「田園」のピアノ版スコアの第1楽章の提示部がまるごと掲載してあった。他にも「はげ山の一夜」のフルスコアが冒頭2分ほど掲載してあったり、ヴィヴァルディの「春」第1楽章のフルスコアがまるごとあったりと、今思えばけっこう編集者はマニアックなところがあったなと思う。
そういうことで、普通にいうならば入門曲とは交響曲第5番、「田園」「月光」であるわけなのだけど、本当にそうなのだろうか。私がベートーヴェンに開眼したのは「ハープ」であったことは他に書いた。なぜなら、音量の変化(ダイナミクス)が小さい。したがって「ながら聴き」をしていても、すんなり心に入っていくのだ。入門だからといって、マニアの言われるままに聴く必要はない。少し考えてみると、多種多様な音楽がある中でベートーヴェンを知ろうとしたときに、なぜか交響曲第5番、「田園」「月光」を入門曲に挙げてしまうというのは、こういうジャンルこそベートーヴェンなのだ、という偏見があるからに違いない。それ以外のジャンルの曲は他の作曲家のものだ、と思っているのだろうか。
たとえば、古めのオペラはモーツァルト、歌曲はシューベルト、大きめのオペラはワーグナー、管弦楽小品はワルツとかかな。ピアノ協奏曲はモーツァルトか、さもなくばチャイコフスキーとラフマニノフに任せて、ピアノ小品はショパンにやらせとくか。宗教的な声楽はバッハがいるだろー、とかなんとか。
ということで残るのは交響曲やピアノ大曲や弦楽4重奏であり、ベートーヴェンの出番なのだ。
こうして考えると面白いのは、このように消去法でやっても、あるいは平等に選択したとしても、交響曲とピアノ大曲と弦楽4重奏は、どうしてもベートーヴェンの出番なのだ。ことこの3分野に限ってしまうと、彼以後の同一ジャンルの曲は、ベートーヴェンの威光の前にかすんでしまうのである。いや、そればかりではない。じつは、音楽のほぼ全ジャンルを網羅しているのがベートーヴェンなのである。たとえば、少し曲を並べてみよう。
歌曲 「遥かなる恋人に寄せて」
ピアノ小曲 「エリーゼのために」「バガテル」
ピアノ大曲 「熱情」「ハンマークラヴィア」
バイオリンソナタ 「クロイツェル」
チェロソナタ ソナタ第3番
ピアノ重奏曲 「大公」
弦楽4重奏曲 「ラズモフスキー」、後期のシリーズ
大編成室内楽 7重奏曲
管弦楽小品 「コリオラン」「エグモント序曲」
バイオリン協奏曲 ニ長調
ピアノ協奏曲 「皇帝」
交響曲 「英雄」、交響曲第5番、「田園」「合唱付」
宗教曲 「ミサ・ソレムニス」
歌劇 「フィデリオ」
ここにあるどの曲も、すなわち、そのジャンルの代表作なのである。すごいラインナップ、オールスター・キャストとはこのようなことを言うのだ。どうだ、まいったか。他の作曲家では全く揃えることが出来ない。
こうしてみると、かろうじて彼以後の作曲家に残されている道とは、管弦楽大曲(交響詩、組曲)、歌曲、歌劇の3分野であることがわかる(宗教曲では、バッハがいるからな)。あまたの作曲家たちは管弦楽組曲や交響詩に走るか、歌の世界に入るしかないのだ。そういうことでは、ワーグナーやマーラーがあの道に走ったのは歴史的必然と言えるかもしれない。また、シューベルトが歌曲で名を残したのは幸せだったであろう。ヨハン・シュトラウスはワルツという分野が無かったら、そのまんま何もすることが無かったに違いない。
R.シュトラウスが交響詩と歌劇と歌曲で名を残したのも、不思議な感じを受けるものである。ドイツ・ロマン派音楽の入り口に立つベートーヴェン、出口に立つR.シュトラウス、ということで、ふたりはロマン派という西洋音楽史の両端に立っていることになるが、見事に作曲の分野が重なっていないのである。これは不思議だ。R.シュトラウスは、よくわかっていて、そうしたのだろうか。
それに比べて、ブラームスやブルックナーが苦労して交響曲を作曲したのは、それはもう当然の成り行きであったのだ。
ううむ、本題からずれた。ベートーヴェンの入門、いや、音楽そのものの入門としては、管弦楽大曲(交響詩、組曲)、歌曲、歌劇以外では、ベートーヴェンの名曲さえ聴いていれば、それでいいのである。他の作曲家を無理に聴く必要は無いからラクチンなのだ。どのジャンルも、ベートーヴェンを聴こう。