「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
展開は退屈ですか?
■ジャン・コクトー
ベエトヴェンが展開するときは退屈だ。
バッハは違う。ベエトヴェンは形式の展開をし、バッハは観念の展開をするからだ。
たいがいの人は、その反対に考えている。
ベエトヴェンは云う。
《このペン軸には新しいペンがついている━━新しいペンがこのペン軸につけてある━━新しい、このペン軸のペンは》とか、
また《侯爵夫人よ、あなたの美しい眼は……》
バッハは云う。
《このペン軸には新しいペンがついている、それをインクに浸して書くために……》とか、
また《侯爵夫人よ、あなたの美しい眼は、私を焦れ死にさせます。そしてその恋は……》
ここに全ての相違がある。
(佐藤朔訳)
というわけで、ジャン・コクトーが何を書いた作家なのかさっぱり知らない私であるが、この感想は正しいと思う反面、困ったものだなと思う。
皆さんは、コクトーが何を聴いたと思うだろうか?
「英雄」、交響曲第5番、「田園」、交響曲ならば、こんなところであろう。
すなわち、主題の部分が繰り返されることで展開される曲、しかも第1楽章。当人の名誉は、これっぽっちも考えない私が書くと、コクトーは、ほとんど聴いていないのじゃないか。時代が時代なので、あまり聴く機会は無かったとは思うが、さほど音楽の知識があるようにも見えない……。この文を読む限りは、そう思ってしまう。
バッハの有名曲にはソナタ形式は含まれない。逆にベートーヴェンの有名曲とは、すなわちソナタ形式だ。
そのため、バッハとベートーヴェンをコクトーが指摘した点で同列に比較することはできないのだ。音楽の形式上、バッハの展開はベートーヴェンの展開と同じにはなり得ない。ピアノソナタや弦楽四重奏曲を数多く聴けば、こんなたわ言は書くはずは無かったであろうが、書いてしまった。
結局のところコクトーは、自分が聴いたベートーヴェンは退屈だったと言いたかっただけなのであろうが、詩人であるために、詩と音楽を当てはめて考えたかったのであろう。そして、どうしても、どこかにこのことを書くはめになった。そのために、はからずもほとんど聴いていないということを暴露してしまったのである。