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「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
ハイリゲンシュタットの遺書


 「ハイリゲンシュタットの遺書」(以後、カッコ付きで「遺書」と略す)を書いている時に、何があったのだろう。

 推測しかできないのであるが、普通は、遺書は死ぬ気があるときに書くものだ。あたりまえなのだけど、死ぬ気が無くなったら普通は遺書を捨てるだろう。死ぬ理由が無くなったのだから残しておく理由も無い。しかし「遺書」は残った。しかも、普通の遺書ではなくて、強い決意を含めた遺書なのだ。遺書のようで遺書ではない、ちょっと考えると不思議な文章だ。
 遺書が残っているのはなぜだ? ベートーヴェンが出したラブレターなどもたくさん残ったのだから、手紙を長期間残すのは当時の習慣だったのだろうか。そんな感じがしないわけでもないが、それでも死ぬこともなかったのに遺書を残すのはおかしな話だ。後生大事に持っているべきものなのだろうか。内容が「人生の決意」になってしまったから、残しておいてもいいような気もするが、宛名もあることだし、死ぬ気が無くなったらやはり捨てるものだろう。私なら捨ててしまうな。

 ということで、「遺書」について書くとしても、もう山ほど文献があるはずなので、ド素人がこれに首を突っ込むことは無謀だ。それより、どんな悟りを開いたら自殺を思いとどまることができるだろうか。これなら私でも少しは書けるだろうし、そのほうが重要なのではないか。日本人であるこちとら、神道仏教であり、キリスト教とは違うのだ。とにかくヨーロッパ系の考え方をヘタになぞることは無いはずなのだ。

 結論から言ってしまうと、ベートーヴェンは、人生の目的を悟ったのである。それは、音楽家、作曲家として生きる道ということである。「遺書」にもある。それも、ただ音楽家をしていればいい、などというあたりまえな目的ではない。「決意」をしたからには、ウィーンにあふれている凡庸な音楽家なんぞを真似ているわけにはいかないのだ。ベートーヴェンの人生の目的、神から申し渡された音楽家としての目的を悟ったとき、のんべんだらりとした音楽家などやっていられなくなるし、それがわかったからこそ自殺をする理由など無くなったというわけだ。
 すなわち、人生の目的とは「魂の進歩発展向上」である。この世に生まれて目的があるとするなら、それは、ただただ楽しく生きることではない。あるいは苦しみ嘆いて生きることでもない。のんべんだらりと生きていることでもない。神は、はたして自分に何を望んでいるのか? 神に本当に喜ばれる生き方とはいったい何だろうか? クリスチャンでも、それくらいの命題は考えるはずだろう。
 ベートーヴェンは敬虔なクリスチャンではなく、日曜毎に教会の礼拝に出かけたということは無かったそうだ。少なくとも、伝記ではそうなっている。「遺書」当時はどうだったのだろうか。とにかく、牧師さんに「私はどうしたらいいのでしょう」などと相談を請うような人物ではなかったのだ。また、聖書フリークでもない。教会に神を求めなかったのである。
 だから、ここが一番わからないところであり、永遠の謎だ。いったいどのような思考を経て悟りを開いたのだろうか。もし悟りが誰にでも簡単に出来るのなら、この世に悪はのさばらない。悩みに悩み考えに考え抜いて、はじめて悟りにたどり着くか、非常に優れた師に出会わなければ、悟りというものは簡単には得られないものなのだ。本物の悟りを得るのは命がけのことなのである。だから宗教が世界中にあるのだ。
 もし、街角に八百万(やおよろず)の神様があふれていて、人生の悟りをいつでも聞かせてもらえ、皆がすぐに悟りに達することができるなら、世界に宗教は無いのだ。ちょっと脱線した。
 普通のクリスチャンなら、「イエス様にすがって生きていこう」と考えるのだろうか? クリスチャンではない私なので、これが正解に近いかもわからないが、少なくともベートーヴェンは、そんな考え方になることはなかった。伝わっている生活態度を読めばわかるし、だいいち作曲した教会音楽が少ない。また、牧師さんが何を言っても耳の病状が良くなるわけでもない。世紀の大霊能力者であったイエス・キリスト様はいないしね。
 ベートーヴェンにとって、教会に解決を求めることは、単なる無駄だったことだろう。教会関係者には失礼かもしれないが、また、そのあたりが私の勉強不足のところであるのだろうが、しかし、私はそう思っているのだ。牧師さんの話を聞いても「なんとか、がんばって生きていこうか……」程度のことならば、そして、結局くよくよしながらイエスにすがって生きていくのが関の山だったなら、ベートーヴェンにとって意味は無いのである。

 これだけは言えるだろう。耳の聞こえなくなってきた音楽家を絶望の淵から蘇らせ、全世界に何百年も影響を与えるほどの人物に変貌させるような説話を、いったい誰が出来るというのだろうか。

 そんなことが簡単に出来るのなら、世の中は有名人著名人、人間国宝ばかりであるし、そうでなくても、とっくに世界平和が達成されているはずなのだ。

 音楽家であるのに耳が悪くなってきたのは、神から与えられた試練である(これを、東洋の思想では、カルマ=業(ごう)と呼ぶ)。カルマを消すには、2つ方法がある。ひとつは消極的な方法で、ずっと嘆いて悲しんで、カルマの重さのぶんだけ苦しむことである。もうひとつは、積極的な方法である。雄雄しくそれに向かい、それを乗り越えてたくましく生きていくことだ。この場合は、カルマは早く消える。
 あなたが神様であるとして、どちらの解消法を望むかな? 答えは、わかりきっているに違いない。
 さて、もし今の人生でカルマの解消を避けて、安逸な道を選んだら、次の人生でまた似たようなカルマが立ちふさがる。これが、生まれ変わりを前提とした、人生になぜ様々な障害があるか、ということへの考え方だ。東洋的思想だ。キリスト教には、そのような考え方は無い。あったら困るんですよね。イエス様にすがって生きている人が多いので、ほとんどの人は、カルマの重みからなかなか抜け出せない。ヘタをすると、「ああ、おれは次の人生でも同じような苦しみを背負って生きていくのか…」と、絶望の中で生きていく人が多くなる。絶望の度が過ぎると、そんな打ちひしがれた魂では、天国なんて行けっこないっすよ。また脱線した。
 このような東洋的思想に造詣が深いならば、雄雄しく乗り越えていくという悟りに達することが比較的容易なのだ。ほんとは、それほど容易ではないが、何も知らないよりはマシだろう。ちなみに「悟り」とは、言葉や考え方のみではない。行動が完全に伴っていて、はじめて「悟り」というのである。行動が伴わないのは、単なる知識であり、役に立っていないのである。

 え、そんな東洋の思想を、ベートーヴェンが知っていたかって?

 東洋の思想に興味を持っていたことはあるようだ。しかし、どこの地域のいつの時代の、どのような思想かまでは、私は知らない。また、「遺書」を書いた頃にそれらへの興味を持っていたかどうかも知らない。
 そして、そこが謎なのだ。もし知らないで悟ったのなら、超絶レベルの禅僧と同じで、もうそれだけで拝む価値あり、宗教の一派を作るに十分なほどのものだと私は考える。もしそういった思想を知っていて悟ったら? それでも、大変な尊敬に値する人物であることは疑い無い。なぜなら、その悟りの成果を見ればすぐにわかるだろう。

余談
 ここまで読んで、賢明な方は、次の言葉を思いついただろう。
 「苦悩を通して歓喜へ」
 苦悩とは何か? 歓喜とは何か?
 「苦悩」を「耳の病や恋愛の不成立」、「歓喜」を「多くの名曲を作ったことと、その名声と満足」というように、現世的な内容で解釈したら、ブブーッ、不正解である。私が神様なら、0点をつけるであろう。
 「苦悩」とは、この世に生まれて神から負わされた、様々な試練である。それは、人生の目的を知らずに、ただ、のんべんだらりと生きていることも含むのだ。すなわち、自分の生きている目的について考え悩むことの全てである。
 「歓喜」とは、人生の目的を知り、神による試練を乗り越え、魂が進歩向上できたことへの感動と、試練を与えてくれた神の大きな愛への感謝のことなのである。
 決して、ベートーヴェンただひとりのための言葉ではないのである。



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