「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
弦楽4重奏曲は本当に難解なのか
一般的にクラシック音楽で難解なのは、現代音楽である。心地よいメロディーや、理解し易いリズムがどこかに消えてしまったり、和声も、不調和なものが多かったりする。そんな、ただ雰囲気にだけ特長があったりする曲を聴かされたとき、「何だこれは!」と魂は叫ぶ。まさに音楽は、楽しみ、感激感動するためにある。そう思えば、はっきり言って現代音楽の大半は、カンペキな不合格である。ポップス系のほうが、はるかに適切な音楽の嗜好を持っているといえるだろう。
では私が現代音楽をどれほど知っているかというと、三角マークに「うずまき」の、オカルトっぽいマークで有名な'New
Albion'というレーベルを10枚ほど買って聴いたことがある、という程度である。ただ、'New
Albion'は、現代音楽の中でも、かなり変な部類である。およそ旋律/和声/リズムという、音楽の3要素に無縁の音楽も多数録音されている。であるから私は、少なくとも極端な部類は心得ているのである。
そういったものと比べれば、当然、ベートーヴェンの後期弦楽4重奏曲はあまりにも容易に聴けるものである。ちなみに、いわゆる後期の弦楽4重奏曲とは第12番以降を指す。
いや、そういうものではない。ベートーヴェンの弦楽4重奏曲、特に後期のそれらには、高度な精神性が具現しているのだ。聴くには、気を引き締めてかからねば。
そう言っている声が聞こえそうである。だからって、それが聴きにくいことを示すものでもないし、とっつきにくさと同義ではない。だいたい、作曲当時の聴衆がどれほど構えて聴いたか、といえば、「聴衆は、あまりの難解さに頭を抱えて困りきった」とは書かれていない。むしろ、好評をもって迎えたとあるくらい。では、何がこれらの曲を難解にしてしまったのだろう。
いや、そもそも、難解と思っている人の割合が多いのは、日本人のみであろうか。ドイツやオーストリアでもそうなのだろうか。イギリスはどうだろうか。フランスは?
そういう私は、特に難解と思ったことはない。第12番から第16番、そして分離独立した「大フーガ」にいたるまで、まあ、ごく普通に聴いている。第14、15、16番は特に好きな曲である。たしかに、これらの曲はディアベリ変奏曲などと同程度の重みはあるな、とわかる。だからといって、決して構えて聴いているわけではないし、とっつきにくいと思ったこともない。
後期の弦楽4重奏曲は、高い精神性の発露である、云々。
そんな言葉が、一人歩きしていないか?
音楽がそんなに難解なものか? 時は1820年代。旋律/和声/リズムこそが音楽であった時代。そして、ソナタ形式を極限までに高めたベートーヴェンの作品である。難解であるわけがない。もちろん、ハイドンやモーツァルトに凝り固まった頭には、難解な部分があるだろう。しかし、多少の努力で乗り越えることは可能である。なぜなら、現代には様々な音楽に満ち溢れているからである。我々は、難解さの極限にある曲を知っているのだ。その難解さの極致にある曲は、聴衆にどうしてほしいというのだろう。現代音楽には作曲者が愚かな持論をぶつ曲もあるらしいが、ベートーヴェンには、そんなことはない。せいぜい「いずれ気に入るだろう」、その程度なのである。なんともわかり易くも有り難いお話しではありませんか。
もし高い精神性の発露が難解さに一役買っているのなら、難解だというその頭は、低い精神性に溢れているということになる。はたして、あなたの頭はそうなの? いや、ベートーヴェンを聴こうという人は、そんなことは無いはずであろう。ならば、後期の弦楽4重奏曲は恐るるに足らず、ということだ。
なんといってもわかり易い旋律はあるし、和声だって心地良い瞬間が多い。リズムも普通だ。たしかに突拍子も無いところもあるが、交響曲やピアノソナタなどをあわせて聴いてみれば、何ら不思議なところはないことがわかる。「第9」や最後の3大ピアノソナタに込められているものが弦楽4重奏に織り込まれたらこうなった、ということであろう。強いて言えば、弦楽4重奏を構成する楽器の性質上、音色が均一で色彩感に乏しい、というくらいのものである。まあ、比較的地味である。
なあんだ、どこが難しいものか。
その通りだ。
歴史を見ると、「第9」の後には「悲愴」「新世界」を筆頭に、「未完成」「幻想」「革命」その他、様々な世界を持った10以上もの有名な交響曲がある。ピアノ曲では、リスト、ショパンを筆頭に、ピアノ音楽花盛り。それでは、ベートーヴェン以後、有名な弦楽4重奏曲がどれほどあるか数えてみたかい? 単に聴き慣れないだけ。
逆に、私はベートーヴェンばかり聴いているので、何ら問題は無いのである。