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「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
題名が必要ですか?


作品と呼び名と、その成立背景

 題名は、便利である。イメージが沸き易い。
 世界に氾濫する音楽のほとんどがわかりやすい題名を持つはずだ。それは、歌詞を持っているということと、ほぼ同じことであろう。しかし、歌詞が無いインストゥメンタル(器楽)な曲では、ロックでも何でも、やはり分かり易い題名を持っているはずだ。「5人のロッカーのための組曲ヘ長調」なんていうものは無い。
 と言うより、管弦楽組曲第1番とか交響曲へ長調なんていう殺風景な名前は、クラシック音楽の世界のみではないだろうか。
 音楽が簡単に広まるか広まらないかは、おそらく題名によるに違いない。ついでに言うと、ロック、ポップス系では曲に演奏者が固定されているのも、広まり易い理由のひとつであろう。
 であるから逆に、クラシック音楽を聴いたり演奏したりする場合に題名が気になるのかもしれない。

 しかし、題名が聴く上で、あるいは演奏する上で、必要なのかどうかと言われると、それはかえって問題がある。

 それでは、まずはベートーヴェンの曲をいくつかとりあげて、考えてみよう。ただし歌詞があるものは省く。

(1)ピアノソナタ「月光」
 後世、詩人の感想が脚光をあび、名付けられた。ベートーヴェン本人は関与していない。

(2)エリーゼのために
 楽譜の余白にあった言葉から。実際には「テレーゼ」だったらしいという説があるが、つづりが全然違う。ともかく、テレーゼを知らなくても演奏できる。

(3)ピアノソナタ「テンペスト」
 ベートーヴェンは「テンペスト」を読めと言ったが、それはシンドラーの伝記に書かれていること。ここで、シンドラーが何者であるか考えねばならない。簡単に言うと、シンドラーは、芸術を深く理解している、あるいはベートーヴェンを深く理解している、とは言えない。伝記を信用するなら、ベートーヴェンは「テンペストを読め」と言えば、小うるさいシンドラーが黙るとでも思ったと解釈するのが最も正しいだろう。「テンペスト」を読んでも、何の役にもたたない。私は読まない。

(4)交響曲第5番
 これも、シンドラーが関わっている。シンドラーの鑑賞力の無さを考えて軽くあしらうには、シンドラーの問い「これは何を表わしているのか」に対して、「運命は、このように扉を叩く」というのが簡単である。これがハマりすぎているので、皆が困るのである。前項同様に伝記に書かれているが、結局シンドラーしか知らない情報なので、嘘だと言われれば、嘘になる。シンドラーの信用度で各自が判断するしかない。

(5)交響曲第3番「英雄」
 これは、ベートーヴェンがナポレオンを念頭においたのは周知の事実である。しかし、ナポレオンのことを知らなくても、聴く上では問題が無いことも事実だ。実際、私はナポレオンに興味は無い。

(6)ピアノソナタ「告別」
 これは、ベートーヴェン自身が問題にしている。出版社が楽譜にフランス語で「告別」と記したのを、「ドイツ語とフランス語ではニュアンスが違う」と抗議したのである。ニュアンスの違いについては調べてもいいだろう。しかし、調べたところで演奏などの役に立つわけではない。

(7)ピアノソナタ「かっこう」、弦楽4重奏曲「ハープ」など
 曲の一部が、何かを模倣したように聞こえることから。もちろん、ベートーヴェンが模倣しようとしたと思うことは論外であるし、たとえ模倣したとしても演奏などには何の役にも立たない。

(8)バイオリンソナタ「春」、ピアノ協奏曲「皇帝」、ピアノソナタ「熱情」など
 出版社や後世の人の名付けであるが、雰囲気がピッタリ曲にはまっている、良い例である。ベートーヴェン本人は関与していない。もちろん「春」の中に、桜の花びらを探そうとしても無駄である。

(9)バイオリンソナタ「クロイツェル」、ピアノソナタ「ワルトシュタイン」など
 献呈された人の名であるが、その人となりがインスピレーションとなったわけではない。

(10)交響曲第6番「田園」
 ベートーヴェンが標題を与え、しかも内容にピッタリ一致しているのがこの曲である。


 ご覧のとおりで、ベートーヴェンに関しては、曲名が曲の内容に密接に関係しているものは非常に少ない。

 題名があれば、何かあるのかと考えるのが人情であるが、こういったことと同様に、題名を持たない曲を聞いたり演奏したりする上で、何かの逸話じみたものを探そうという行動がある。それは、行き過ぎであろう。
 ロマン派の曲なら、そういう場合があるかもしれない。しかし、標題が花盛りのロマン派において、曲について何か気になる背景があるなら、作曲者自身が必ず題名を残すし、逸話も残してくれるはずである。
 しかし、イタズラ好きな人も、いる。
 たとえばラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲名は、いかにも何か逸話がありそうだが、実際は、「ゴロがいいから」というのが曲名の由来である。曲名を鵜呑みにするのは大変な誤りだ、という例である。王女がどんな性格で、どんな容姿なのかまで考える人がいるのだろうか。
 19世紀において、ベートーヴェンの様々な名曲に文学的な解釈をつけようとする傾向があったが、笑止!である。

題名の無い音楽

 ベートーヴェンも含めて古典派に属する曲は、ほとんどが題名を持たない。題名に頼らない。バッハの頃から、題名や歌詞に頼らない器楽曲が発展してきたのが、ドイツ・オーストリアなのだ(詳しくは知らないが)。学校で学ぶ音楽の教科書にもあるが、絶対音楽と標題音楽という分類があって、ベートーヴェンは絶対音楽の系列に入る。
 ロマン派に入り、文学などに題材をとった題名を持つ器楽曲が増えてきたが、それらが標題音楽なのだ。そういうことでは、ベートーヴェンの序曲「コリオラン」は、標題音楽の「はしり」である。ただし、戯曲「コリオラン」を知っておく必要は無い。もちろん、他の誰の曲であってもうまく作曲できていれば、内容の解説なんて、鑑賞に必要であるとは言えない。力強い第1主題が「コリオラン」で、優しい第2主題が「コリオランの妻」などという説明をつける人もいるが、だいたい第1、第2主題の性格対比をするのが作曲テクニックの基本であるから、そんな説明をすること自体、ソナタ形式を知らないということを示しているようなものではないだろうか。
 およそ、プロの作曲家たるもの、歌詞などが無い純粋な器楽曲で、曲以外に拠り所を求めるようでは、曲が完成したことにはならないだろう。曲のみで全てを物語れないようでは、表現力、作曲能力が足りないということになる。
 もしある曲が絶対音楽ならば、作曲者が題名にこだわるのはおかしい。また、聴衆が題名にこだわりすぎてもいけない。聴衆は、題名の意味を理解することで、その曲をわかったつもり、つまり十分に聴いたつもりになっているのならば、大変まずいことなのだ。心からの鑑賞を妨げるのなら、題名は無いほうがいい。

 また、題名は、曲の印象をストレートに表現したものが通例である。しかし、それが表わすものは、メロディーやリズムなど、断片的なものである。逆に、曲の構造が題名と一致するわけではない。ベートーヴェンの曲はソナタ形式が多いが、ソナタ形式は純粋に構造を示す言葉であり、感情や題名が入る余地が無い。構築性を重視するベートーヴェンの曲が、題名を必要としない、あるいは標題音楽に縁が無いのは、そういう理由もある。
 例外としての「田園」交響曲を標題音楽と見る考え方もあるが、その曲において、各楽章の構造が各楽章の内容を表現する上で最大限に駆使されていることに気付いたら、決して標題音楽とは言えない。標題音楽は、曲の構造などよりも、その印象に曲の拠り所を求めるものであるが、ベートーヴェンの「田園」交響曲は、完成されたソナタ形式、スケルツォ形式、ロンド形式こそが拠り所になっているのである。


 ベートーヴェン以後は、音楽の状況が変化していく。
 19世紀初頭に、交響曲はベートーヴェンによって頂点に達した。その後、絶対音楽の象徴である交響曲が崩壊していった。つまり、ソナタ形式などの厳格な形式が崩れていったのだ。それはおそらく、ベートーヴェンほどの展開能力を持つ作曲家が皆無だったからだろう。あるいは、文学などから音楽への影響があったかもしれない。とにかく、交響曲という名称であっても、その内容は、形式重視よりも表現重視に至ったが、題名を持つ曲が増えたことと時期を同じくしている。

 ベートーヴェン以後を論じることは当ページの趣旨ではないので、この程度にしておこう。

 こと、ベートーヴェンの曲を演奏しようとしたときには、楽譜に全てが書かれていると思っていただきたい。あるいは聴こうとしたとき、目を閉じて曲そのものに浸りきっていただきたいものである。

(2002.1.24)



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