「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
市民参加の第9(歌えばいいってもんじゃない)
改訂(2004.1.12)
どこでも演奏会
なんと、わが田舎町でも「第9」をやるのだ(2002年 , 2004年)。しかし、わが町でやる「第9」は、なんと管弦楽ではなく、吹奏楽に合唱が付くのだ。
吹奏楽だから第4楽章のみであろう。というか、第4楽章そのものすら、元の構造がわからないまでに変更(あえて編曲とは書かない)されていたに違いない。第4楽章は中間部に管弦楽のみによる演奏が数分あるが、「あんな」もの、吹奏楽では、とてもできはしない。また、途中に二重フーガがあるが、それも弦楽器部分は無理。ああああ、崩れていく……。故マ○ケ○・ジャ○ソンの顔みたいに……。それでも、その編曲を「第9」というのか? ただの「第9をもとにした合唱曲」じゃないか。
わが町に期待したほうが大バカだった(はなっから期待してないじゃないか)。というか聴きもしないし、行きもしないのであるから、いいかげんな意見であるが。
そこまでして「第9」をやりたいのかなあ。
ちなみに、日本の聖歌集にも「第9」があるはずだ(昔、見た)。それはシラーそっちのけで、歌詞が付けられているのだ。まあ、それを良しとしても、なんとまあ、主旋律に一箇所ある「シンコペーション」、つまり第1拍が前小節の第4拍にタイで結ばれている部分が消えてしまっているのだ。20年ほど前に見つけたが、今もそうだろう。そこまでいくと、「音楽の美学」というものが、まるでわかっていないんじゃないか。とさえ考えてしまう。およそ神を賛美するなら、神から降ろされた原曲くらい慎重に扱えよ、という苦言である。
近場のオーケストラを呼んで、合唱団員は公募の市民参加型の「第9」。これが、20世紀末からの流行。こういう「第9」について、誰かが必ず感想を言う。音楽評論家は当然何か書く。でも、たぶん意見のほとんどは1種類。
「市民参加、大賛成。それでこそ第9の理念の実現」
まあ、そんなところであろう。しかし、市民参加とはいえ、可能なのはほんの合唱部分。第1楽章から参加できるのならいいが、合唱は最終楽章の一部。その長さはせいぜい合計5分。そう、70分のうちのたった5分でしかない。それに参加するのはどういうことだろうか。
と、もったいぶったものの、きっと参加の理由はそれほど大げさなものではないに違いない。
「歌ってみたい」「気持ちいいだろうな」
理念は、そっちのけである。一種のお祭り騒ぎだと断定する評論家も多いだろう。それでも参加する人々が良しとするならそれでいい。理念がなくても、合唱部分のお祭り騒ぎは成立するのだ。また、理念を気にして聴く人も少ない。私だって、理念で聴くわけではない。
しかし、70分あるのだ。前半3楽章で45分、指揮者によっては50分も待たなければ、歌は始まらないのである。その後の、後半たった5分しか参加しない人は、これをなんとする。
前半3楽章とは
おさらい。
「第9」は、ベートーヴェンによる最後の管弦楽といってよい。その次の交響曲は、書こうと思えば書けた。ピアノ・ソナタや弦楽4重奏曲を作るヒマはあったのだ。しかし交響曲は書かなかった。結局「第9」が最後の大曲になった。すると、こうなる。「第9」の第1楽章は、最後の大型ソナタ形式だ。しかも大傑作、超大作である。第2楽章も、最後のスケルツォ、しかも、これも傑作、超大作だ。それに続く第3楽章は……変奏曲としてはその後もいくつか作ったが、管弦楽としては最後の、これもやはり大傑作なのである。結局、「最後」づくしで、しかもどの部分をとっても超名曲、超名作、ベートーヴェンの管弦楽の集大成、これ以上の賛美を書いても仕方が無いくらいのもので、交響曲の歴史の……。もうやめよう。つまり、その後のどの作曲家も越えることができなかった偉大なる記念碑なのである。その部分を聴かずして、どうしろというのか。
たしかに全長70分の交響曲は長い。いくら聴くだけとはいえ、仕事や家事で疲れた身体に、休みなしの、しかも内容が濃い70分はつらいであろう。それでも聴く。それくらいの内容がこれら3楽章にはあるのだ。西洋クラシック音楽で最高の交響曲なのである。
第4楽章は
どこの解説にもあるように、第4楽章には前半3楽章の回想が含まれる。3つの楽章の内容(気持ち、生き方、など)を否定しての第4楽章ということになっている。っていうことは、前半3楽章を知らずに第4楽章を聴くな/演奏するな、とも言える。なに、「否定している」のなら、聴かなくてもいい? そういうわけにはいかない。3つの楽章を体験することで、第4楽章の意味がより一層はっきりわかるというものだ。それが人生というものだろう。
(実際には、そこまで考えて聴く必要は無いが)
「第9を歌う」とは、なにごとか
そうこうするうちに、2003年末にある本が出版された。「合唱ff(フォルティッシモ)」(近藤直子著,長崎出版)。「第9」の歌い方という内容の本である。それだけならいいが、中を読んで愕然とした。なんと「第9が、4楽章の交響曲であること」は、たったの1文しかないし、「合唱が第4楽章にしか無いこと」はどこにも書かれていないし、「合唱が始まるまで、かるく45分以上かかること」は、全く避けられているのである。あきれてものが言えない。開いた口がふさがらないというのは、まさにこのことである。まさか書かなくてもいいことだとは思っていないんじゃないかと拾い読みしたら、どうやら本当に書く気が無かったらしいのだ。
著者は合唱指揮者である。「交響曲第9番合唱付」の指揮者ではなく「合唱」の指揮者だ。ナニ、言わなくてもわかるってか。そこで、サブタイトルが「やさしく第九を歌うコツ」だ。交響曲第9番は「合唱曲」ではない。交響曲だ。合唱は、いわゆる「味付け」だ。メインディッシュではない。「白いご飯」ではないのだ。せいぜい小さめのハンバーグなのだ。いくらなんでもひどすぎるじゃないか。前半3楽章がどれほどすばらしい音楽なのか、きっちり無視してしまったこの「ていたらく」。いったいどうしてくれるんだと言いたい。これを読んだアマチュアは、歌い始めるまでに45分もかかることを、演奏会本番でライトに照らされる中、初めて思い知らされるのだろうか。
失礼ながら書くが、「ド素人」は「第9の歌い方」の本を買ったら、それ以外の「第9」の本を買わないだろう。もしかして、全曲つまり70分ほどのこの交響曲を一度も聴かないで、合唱に参加しようなんて思っているんじゃないか。だったら、「第9」がいったいどんな曲なのかくらい、本の中でおさらいしてくれたって、良さそうなもんじゃないか。それができていないのだ。
つまり「歌う」という観点でしか、ものを見ることしかできないし、そうしておかないと本は買われないからなのであろう。それとも著者は「第9」を本当に知らないの?
だからどうしろというのか
私は、前半3楽章を知らない人は第4楽章を演奏したり歌ったりする資格は無いと思う。少なくとも、聴衆は第1楽章から最後まで聴くのである。ならば演奏者も最初から知っておかねばならない。体験の共有なくして、感動的な演奏無し、などと、もったいぶって書いてしまうが、実際のところ私は、のほほんと5分だけ歌って満足して帰るのが気に入らないだけなのである。曲全体をよく知った人が、たった5分しか知らない人の演奏を気持ち良く聴けるか! ただ聴いているだけなら、どんな人が歌っているのか知らなくても問題無いが、最初から「市民参加の第9」と標榜する演奏会は、どうしても割り引いて考えてしまうのである。参加するのはたったの5分。では残りの時間、彼ら彼女らは何をしているのか。合唱団は、通常、第1楽章が始まるときから舞台に立っているに違いない。君たちの目の前に鎮座する数十名のオーケストラは、偉大なる芸術の遺産をいっしょうけんめい45分演奏しているのである。それを、どんな面持ちで聴いているのか。なぜ「合唱のある楽章」の前に45分の音楽があるのか。いや、第4楽章になっても7分近く合唱の出番は無い。都合50分以上にわたって、もし「早く終わらないかな」などと思っている合唱団員がいたら、即刻帰ってもらいたいものだ。「第9」を人生になぞらえる解説もあるが、それに従うなら第4楽章の5分間の合唱にのみ執着するのは、人生を舐めきっているのだよ。
と、強い口調で書いてしまったが、「第9」を、流行歌の一種としてしか扱わない人がかなり多いので苦言を書いた次第です。いくら「歌うって、すばらしい」と声高く叫んだところで、こっち(聴衆)は「交響曲を聴いているんだ」ということを忘れないでいただきたい。交響曲最大の芸術「第9」を、5分のみの参加で満足するのは、それは単なる「合唱の体験」なのであり、「ベートーヴェン体験」にはほど遠い、つまらないことなのです。