「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
ピアノソナタへの様々な質問について
(これらの質問についても、いつも私の肩の上にいらっしゃる大権現氏に、自ら語っていただくべきだろう。しかし、これまた、けっこう口が悪いのでご勘弁をいただきたい)
Q1:ピアノソナタOp.31-2のことを尋ねられた時に、シェークスピアの「テンペスト」を読めと言われたそうですが、演奏のヒントになることが書いてあるのでしょうか。
A1:本当に読んだのかね? それはご苦労様なことだ。
よく覚えておいてほしい。だいたい、私が作っている曲は、それひとつで芸術として完成しているのである。他の誰かの本を読まなければ演奏できないなどという中途半端な曲など、私は作った覚えは無い。だいたい、「あいつ(*)」がアホな質問ばかりするものだから、アホな回答をしてやっただけなのだ。まじめに教えようとしても、はたして「あいつ」に理解できたものだろうか。そもそも、このような質問をする君、どうして私の作品を十分に練習しないで「あいつ」の書き残したことに注意を向けてばかりいるのかね? 作品がなにより雄弁に語っているではないか。
(*)シンドラーのこと。
Q2:最後のピアノソナタは、どうして2楽章しか無いのでしょうか。
A2:これも、アホな「あいつ(*)」が私に尋ねてきたことだ。「ヒマが無かったのだ」と言ってやったら、変な顔をしていたぞ。じつは、このピアノソナタは、この世のエッセンスを表現したものだ。動と静、陰と陽、プラスとマイナス、短調には長調、男性的には女性的。そもそも大自然の働きというものは、相反している2つのものの調和と融合、すなわち、カ(火=第1楽章)とミ(水=第2楽章)の働き、すなわちカミ(神)なる働きが顕現したものなのだ。この曲で私は、この世界のエッセンスを表現したのである。そしてこの曲は私自身のエッセンスでもある。すなわちソナタ形式と変奏曲、私が終生追い続けてきた音楽の形式なのである。そういう個人的規模から宇宙的規模に至るまで幅広く考えが及ばなければ、私のこの曲を完全に理解したことにはならないのだ。であるから、このソナタの最後の部分は、仏教で言うところの涅槃寂静という意味にも解することができるのである。
(*)シンドラーのこと。
Q3:「月光ソナタ」は、どうしてゆっくりとした楽章で始まるのでしょうか。
A3:これには、私もうなってしまう名解答がある。つまり、「第1楽章を作るヒマが無かった」というものだ。これにはまいった。なるほど、もし第1楽章を作るヒマが無かったら今の「月光ソナタ」のような構成になっていたに違いない。快速で4拍子のソナタ形式が冒頭にいかにもありそうではないか。そんな雰囲気をプンプンさせている。ここはひとつ、真の第1楽章を作ってもいいかなと思ってしまった。しかしよく考えてほしい。当時、私はたしかにヒマは少なかったかもしれないが、作曲が出来ないほど重い病気だったなどというわけでもない。事実、いろいろな曲を作っている時間はあったのだ。だからヒマが無かったわけではないのだ。
じつはこの曲にも隠れた意図がある。すなわち、最後のピアノソナタと表現しようとしていることがほぼ同じなのだ。ただし、両端楽章はどちらも嬰ハ短調で同じである。異なるのは速度であり、激しさと静けさである。さらに、間に変ニ長調、3拍子の第2楽章がブリッジとして存在することで、調性と雰囲気の連続性に関する問題をクリアしているのだ。そのために、多くの人がはぐらかされている。両端楽章は冒頭が上昇する分散和音であることに注意してほしい。これくらいは、ちょっとした解説書ならば載っている。その、同じ並びの音型から、全く違った世界を構築すること、つまりそれが、この大自然が見せる様々な姿を象徴しているのである。それを音楽で表現するとこうなるのである。