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あの店の唐揚を越えた唐揚にはまだ出会ったことがない


 前回、唐揚昼定食の話をしたので。

 これは20世紀末のこと。勤めていた会社の近くにあった商店街の端に、「まるもうけ」という名前の小さな居酒屋があった。20人は無理なほどの広さの店だった。昼の営業では近くの会社勤めに昼食を提供していたのだが、そこの一番の売りは「唐揚定食」だった。もっとも店の壁に「当店の一番人気は唐揚定食!」などとは一切書いてない。

 店に入ると、誰もがこう告げる。「唐揚!」

 「定食」は付けない。「唐揚!」だけで「唐揚定食」を示すのだ。私も最初に入ったとき、皆が「唐揚!」と言うので同じにしたのだ。もちろん店のお品書きには、日替り定食や焼き魚定食なんていうのもあったのだが、ほとんど誰もそれらを選ばない。というか、常連はお品書きを見ない。私が週に4回も食べるほどうまい唐揚定食だということを皆知っているのだ。3ケタになろうはずの回数も店に通って、「焼き魚定食」を頼んだ人はたったひとりだったはずだ。ヤツはモグリであろう。
 カウンター越しの目の前で作るオヤジの唐揚のうまかったことは、ここでは書くまい。

 数年たって、仕事の関係で1年ほど店に行けない日々が続いた。

 そしてひさしぶりに店に行こうとしたら、看板が「客まるもうけ」になっていた。訝しげに思って入ると、店の作りは変わっていない。しかし例のオヤジがいない。死んだのか? いやそれより、メニューから「唐揚定食」が消えているのだ。これは事件である。
 いったいこれはどうしたことか。俺は何のためにこの店に戻ってきたというのか。
 この店から唐揚を取ったら何が残るのか。いや、唐揚定食しか食ったことは無いんだけどな。

 代わりに何を注文したか覚えていないのは、ショックが大きかったからである。それっきり行かなくなってしばらくすると、その店は消えていた。

 店主が変わったからでもなく、店の名前が少し変わったからでもない。まさにあの「唐揚定食」が無くなったから店は潰れたに違いない。私は今もそう思っている。

 クライバー息子が同じ曲ばかり演奏会にかけるのも、似たようなもんだろうなと思う。日替り定食なんていうポリシーの無いメニューは嫌いなのであろう。

(2012.5.20)



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