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ベートーヴェンの最後のピアノソナタの作品番号は111


最後とはいうけれど

 皆さんもある年齢に達すると、自分の最後のことをふと考えるかもしれない。昔だったら、自分は何かをやり遂げた人生だったか、あるいは世に功を残したかとか考えたかもしれないし、江戸時代とかなら、君主のために命を捧げた人生だったかとか考えるのかもしれない。あるいは、十分楽しめたのかそうでなかったのか、かもしれない。今は、なんと言ったらいいのか、自分は子供に迷惑をかけない人生が一番良いと思ってしまう。昨今、親の介護が子供の負担になりつつある。報道されないだけで、親の介護に奔走する人は少なくない。ほんの少し前、職場で仕事仲間が、親の介護のために退職したのを見た。自分の子供の今の人生と未来への道を遮ってまで、親はこの世にしがみつかねばならないのか。とはいうものの、そんなことを考えている頃には、親は自分で命を絶つ勇気も無ければ、動くことさえままならない。自分は果たしてどうなるのだろうか。幸い自分の両親は既にいない。それをありがたいと思うべきか、あるいは長生きできなかったことを不幸というべきか。幸福を自分の中だけに求めず、家族全体の幸福の総量を考えるなら、自分がこの後老いて子供に迷惑をかけたとき、自分は長生きしたとしても活き活きとした人生でない限り幸福の総量はグッと減っているに違いない。私はそう思うと、いきなりポックリ逝く人生が最も良いと、ありきたりな結論に達する。
 自分は何を世に残したのか。今の自分の仕事は、良いものをこの世に残す仕事とは思っていない。何かの助けにはなっているかもしれない、そう思うのでせいいっぱいだ。それより、子孫にかける。きっといつか、何代も後のことかもしれないが、きっと世に役立つ人が現れるだろう。そうやって人類は生きてきたのだ。

 作曲家は死んで作品を残す。ほとんどは闇に葬られる。中には「わしの一番の仕事は音楽家のための養老院」と答えた作曲家がいたが、誰だっけ? 先見の明であることすばらしいが、維持費用はどうしたのだろう。ともかく、作品は後になるほど円熟の境地に達するのが普通だろうし、自分もあやかりたいと思う。私の趣味の範囲で、その円熟が如実に現れているのは、やはりベートーヴェンだ。ピアノソナタの最後の3曲で、ひとつのグループを形成している。もちろん、3曲は単独で存在できる。が、18世紀の慣習の名残り(3曲か6曲セットで発表する例が多い)が最後になって現れたのか、3曲セットで語られることが多い。この3曲の中で一番愛らしいのが、Op.109の冒頭だろうか。あたかもハープのように音が流れていく。続くOp.110のソナタの冒頭も、しばらくすると軽やかな分散和音が広がっていく様子は心地よい。そういうあたりで一風変わっているのが最後のピアノソナタだろうか。力強く始まるし、ソナタ形式の主部もゴリゴリと進んでいく。しかし第2楽章は例の通りで、静かに始まり、最後も静かに終わる。いかにも最後の作品のようだ。
 なぁんて思っていてはダメで、この後にミサ・ソレムニスや第9交響曲が続くし、いくつかの弦楽四重奏も控えているのはご存知の通り。なぁんだ、全然最後じゃないじゃん。そう、ベートーヴェンに「このソナタで、ピアノ独奏曲は最後!」と思ったのだろうかどうか。いやバガテルOp.126もあるではないかと。最後というのは単に順番という意味しかないのだった。一流の作曲家は一流の音楽の演出家でもあるので、最後の作品は、最後っぽく書けてしまう。いやそれより、日本語の「最後」と「最期」の読みが同じであるところで、妙な印象操作が入っているんじゃないか。最後と最期は違うんだよ、と。
 日本人には、同音意義のおかげで「最後」という言葉は何だか特別の意味を感じてしまうっていうところだろう。

 ちなみに作品番号Opusの最後は、皆さんご存知(かどうか知らないが、私は親しんでいる)138であって、歌劇「レオノーレ」序曲第1番であることは既定の事実だ。なぁんだ全然生涯最後の作品ではないじゃん、ってところがまたいい加減なのである。


(2016.12.28)

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