SF
天文学を好きになるということは、必然的にSFが好きになる、と言ってよいと思う。
私が子供の頃にも多くのアニメや映画があったが、最もリアリティがあったのが、STAR
TREKの最古のシリーズ(邦題「宇宙大作戦」)と、謎の円盤UFOだった。「SFは絵だねぇ」と言ったのは野田昌宏宇宙軍大元帥だったが、この2つも、その特徴を備えている。
「STAR TREK」のほうが今だに新作映画が封切られていたりするが、ことリアリティという点での凋落は甚だしいと思っている。最近の映画などでは意味不明なほどに超巨大な建造物や得体の知れない超物質やそこまでやるかという超技術などが惜しげもなく披露される。たとえばある映画では、ちょっとした装置が惑星1個分の物質を完全に組み替えて地形や生命体込みでまるごと一気に惑星を作ってしまうという場面がある。そんな「超技術」を映画の中で披露されたのでは、ちっぽけな宇宙船でしょうもない銀河系をちびちびと飛び回っている元々の設定がバカみたいに思えるのだ。つまり自己満足なファンタジーもいいところで、元の設定と今の内容のバランスがとれていないのだ。最古のシリーズでは良識ある著名なSF作家が原案を書いてエピソードに組まれていたものもあるためか今読んでもかなりまともだったのに、今はハリウッドのアホどもに開脚暴行蹂躙されつくしているとしか思えない。
昔からのファンの方はこう書くと文句のひとつも言いたくなるかもしれないが、こちらも最古のファンのはしくれである。
「謎の円盤UFO」は、日本では「サンダーバード」で有名なプロダクションの作品だ。こちらも設定がひとつおかしなものがある。光速を超える物体向けの探知機の存在だ。侵略を画策する宇宙人の円盤は、超光速で飛来する。この速度は許してあげよう。しかしそれを事前に発見しないと防衛軍の意味が無いので探知機は当然、超光速を易々と感知する驚異的な機能を持つことになる。作品中の年代設定は1980年代、つまり放映時点からたった10年の未来である。超探知機の存在がはっきり示されるのは作品の第1回エピソードのみだというところが、良識あるイギリスの作品であることを示している。
ついでだが、登場する人物、特に女性には品が良く魅力的な人が揃っていた。ここにもイギリスの良さが出ていると勝手に思っている。
一方、子供というより若い頃によく読んだ小説は、アシモフの「ファウンデーション」シリーズとハミルトンの「キャプテン・フューチャー」だ。かたや真面目でかたや荒唐無稽である。
「ファウンデーション」はSFという作法が無かったら一般的な小説として出されてもおかしくないレベルだ。大人が読むべき作品であろうが、20歳代で書かれた作品である。
「キャプテン・フューチャー」は、そのうまい筋立てと突拍子も無い発想(褒め言葉)があいまって、いかに荒唐無稽でもグイグイ読ませる。直径がほんの数キロしかない小惑星に大気があって植物が繁茂していてもお構いなしであるし、主人公が超人的な能力で、ほんの数日で世界をひっくり返すような大発明をする。それを可能としたのはもちろん、科学的知識が一般に浸透していない20世紀前半という時代の小説だったからであるが、それでも作品として成立するのはひとえに作者の力量であろう。
いわば両者はSFというジャンルの中で両端に位置すると言ってもよい。
この両者、当然作者の死後は、作品も過去のものになるはずあるが、意外とそうでもない。
この「ファウンデーション」の作者アシモフは故人(1992年没)である。20世紀末、この続編(正確には物語上の空白期間の穴を埋める)が3人のSF作家の競作(?)として刊行された。私は1種類1名分、読みました。幻滅しました。とても続編とは言えない。オマージュでもない。何がダメかといって、「ファウンデーション」の世界をブチ壊してはいけない。アシモフではない俺の持ち味だとでも言わんばかりに「新しい概念」を持ち込んで新しい事件が起こさせたのに、秩序があったアシモフの世界に、まさに「混沌」を持ち込んだ。おまけに文章も内容も読みづらいわかりづらい。アシモフの作品の特徴として私は全体構造から細部にいたるまでの読みやすさをあげたいのだが、それが(他人作だから当然かもしれないが)全く継承できていない。そのためか残りの2名分はもはや背表紙を見る気もしない。実はどうもひとりめがダメだったらしいが、それでも、もう残りは読まない。
一方、ハミルトンの奥様はリイ・ブラケット。じつは「スター・ウォーズ、帝国の逆襲」の脚本を手がけている。しかしその直後に故人となった。映画では、亭主ハミルトンの影響どころかリイ・ブラケット自身の痕跡もほとんど無いようであるが、スター・ウォーズにもスペースオペラとしてのキャプテン・フューチャーの何かがかすかに生き残っているかもしれない。
しかしその後のスター・ウォーズは、一点、大変気に入らないところがある。それは、フォース(いわゆる超能力)に計測可能な要因を付けたことである。ミディクロリアン(midichlorian)だった。ミトコンドリア(mitocondria)みたいなものと推測する。これの存在を設定することで超能力の形質は遺伝することになったが、これは一種の特権階級の容認(言い換えるとフォースを得たいと努力してもダメな奴は絶対ダメ)であり、設定のあちこちに荒唐無稽なものを多量に残しておきながら、物語の根幹でこのざまである。いかにスター・ウォーズが人気を博していても、どうも製作者側に変な奴が紛れ込んでいるようだ。
というか、スター・ウォーズなんて実はどうでもよい。キャプテン・フューチャーの邦訳を手掛けた野田昌宏がリイ・ブラケットの許可を得て、キャプテン・フューチャーで一作をモノにしているのだ。さまざまな点でハミルトン瓜二つの出来であり、キャプテン・フューチャーは日本に限って、1作多いのである。
せっかくの「ファウンデーション」なのだから、本当にファンならば、これくらい真似たテイストで作品を書いてほしいものだと切に願う。が、もう遅い。
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