発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊  

  北羽歴史研究会 会報  NO.186   2006.(H18)12月1日

 

12月、史話懇談会を開催します、ご参加ください。

12月16日(土)・史話懇談会開催13:15〜15:30 

於・大館市中央公民館  

           記

各人の話題提供、その他の懇談、こぞってのご披露を期待します。

参考資料コピーは20部ほど用意くだされば幸甚、 

 

  尚「相馬大作の逃亡と顛末、歴史の道に相馬大作誤説は不可、青森と岩手に矢立峠説はなし、

   大館沿革史抜粋等」の11月28日に大館市文化財保護協会研修会での講座で鷲谷が使用し

た資料4枚を史話懇談会でも配布しますので参考にしてください。

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      11月の研究発表会から

一、浅利館のことなど。 大館に浅利館があった。S60年大館市広報記事で鬼ケ城かと紹介

され、『大館地方の歴史散歩』で鷲谷が茂内館が呼ぶのがふさわしいとしていたこの館跡は、

浅利館という名前であったことが、狩野徳蔵戊辰戦争文書から判明したと紹介した。

茂内館は大茂内集落の北部に別に存在するとの考察も示した。

二、石井氏由緒 武田政二郎氏  史料の要点以下に抜粋 

1、石井縫殿助(十二所)「慶長七年五月廿一日御国替之時分私先祖石井豊後同兵庫父子共に

和田安房守に同心致し御供仕罷下御知行百石拝領仕侯豊後には隠居分に三拾石被下置候

仙北一揆之時分も御奉公仕其後小鹿へ罷り移り比内新田え罷越其以後十二所に罷在候…」

 2、石井助右衛門(十二所)私先祖石井弾正同助右衛門と申者保内弐百騎の内にて不壱代

御鉄砲御足軽指南被仰付御奉公相勤…」

3、石井内匠(十二処)「仙台牢人に御座候赤坂下総十二処に住居の砌罷越下総申立本知四拾石

拝領仕候由右者織部と申其以前者清九郎と申候…」 

4、石井彦九郎(大館)「御遷封の時御足軽にて安士三左衛門組子にて秋田へ来品々御用を勤

後大館に住す慶長年中大阪御陣へ御供仕罷登る勤功を以て御 免許に御取立に成る秋田郡

沼館村にて秩禄七石並に新田拾三石都合弐拾石拝領す」

三、千葉克一氏発表、テーマ「板碑の伝播についての一考察 ――中国の「無量寿・弥勒

二面像」から合川・川井の「延慶の碑」までーー」  レジメ項目以下の通り。

1、湯沢市伊藤正さんの文→板碑の源流発見?→湯沢市「永和の碑」(永和二年1376年)

2、斉・永明元年(482)の「無量寿弥勒二面像」  3、埼玉県江南町域の板碑(日本最古) 

4 鹿角の板碑(県内最古) 5、青森県の板碑分布、約290基、殆ど津軽地方内陸部多し、

内陸部大日如来、西海岸部阿弥陀如来多し。 6、秋田県の板碑分布・雄勝仙北と八郎潟湖岸

に多い。 7、合川町川井の「延慶の碑」について8、まとめ。 

ほか佐々木兵一「北秋地方の金石文」等を配布。

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(所感)  837年前の歌謡集梁塵秘抄(りょうじんひしょう)  丸屋 悧

 

 熱心なフアンというほどではないが、日曜日の夕方5時半からの民放テレビ番組

「笑点」はよく見る。司会者も回答者もメンバーは落語家だけに、当意即妙の応酬

が面白い。どんな場面でのやりとりであったのか前後は忘れてしまったが、去年ま

で司会者であった円楽師匠の「仏も元は凡夫なり、凡夫もついには仏なり」という

言葉に感心した記憶がある。

 先日たまたま『梁塵秘抄』を拾い読みしていたら、その言葉と再見した。「仏も昔

は人なりき、我等も終(つい)は仏なり」と。どちらが原典か解らないが、円楽師匠

の博識に改めて感心した次第であった。 

会報用として手元の辞書類を総動員して調べてみた。以下はほとんどその引用である。

 梁塵秘抄は後白河天皇が編著した今様歌歌謡集である。その成立は一般に12世紀

後期とされているが、「嘉応元年」とか「治承3年といわれるが未詳」と具体的に年

号を記したものがある。 本来「梁塵秘抄」10巻と、法王の口伝を記した「梁塵秘

抄口伝集」10巻から成っていたらしいが現存するのは「秘抄」巻一の抄出と巻二、

「口伝集」巻一の小部分と巻十のみである。

 「今様」は平安中期に起り鎌倉時代にかけて流行した新しい歌謡で、白拍手・遊女

などによって歌われ、貴族の間にも流行したといわれる。

書名中の「梁塵」は、梁の上に積もったちりのことで、中国で漢代、魯の愚公(ろの

ぐこう)の美声は、梁上のちりを動かしたという故事から、歌う声の良いことの例え

で、優れた音楽・歌謡を指している。

 後白河法皇は鳥羽天皇の第4皇子。第77代天皇に即位の際、兄の崇徳上皇と対立し

保元の乱を生じ上皇方を破り即位した。平氏・源氏など武士間の対立を巧みに利用して

王朝権力の維持をはかった。二条天皇に譲位後は五代30年にわたって院政を行った。

敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、同地で没した。また後白河法王は今様を好み、権謀

術策に明け暮れながら白拍子らを相手に歌って暇なかったという。造寺・造仏にも尽力

するなどスーパーマンであった。 前記した歌は以下のように続く。

三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあはれなり

                              (H18.11.30記)

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御礼  ■とうとう今年も師走に到る。今朝初積雪だった。昨年11/16よりは遅い。昨年の

根雪は12/10から始りだが今年は何日からだろう、ゆっくりで結構です。まだ庭木の冬囲いに

も手がまわらない、お願いしますよ天空の神様。 ■どうにか今年の行事を経過してきました

が、12月の過去例年の史話懇談に忘年会乾杯というわけに行かなくなった年齢環境を感じます。

歴史の勉強も健康第一、命あっての物種という事ですよね。この年の物故の諸先輩を悼む。

■新年にまた成果と展望あること願い、本年の会員各位のご協力を謝す。よいお年を。 WA

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