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                           発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊   

  北羽歴史研究会 会報  NO.190  2007(H19)年6月1日

 

 ■  6月・研究発表会を開催します

第48回研究発表会を下記により開催しますので、参加ください。

        記

・日時  6月17日(日)、午前10時30分から午後3時00分まで

  ・場所  大館市中央公民館

  ・発表テーマ・発表者

   1、八森の吉太郎漂流記  … … … … …  川尻 茂行

       注:秋田藩の新資料発見、様々な事が見えて来る。

2、地名あれこれ、「中」「前」「扇」などについて … 千葉 克一

3、戦国時代・飢餓と戦争 ---  …  …  …  金沢長一郎

                                   以上

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       22通例学習会終了

 予定のテーマ1、戦国時代・飢餓と戦争〜金沢担当は本人都合により、研究発表会

送りとなりました。当日実施のテーマ1は、「福者」天正の遣欧使〜丸屋氏担当とな

りました。資料はB5版6頁。バチカン史料に書き留められた当時日本の状況が痛々

しい感じである。秋田佐竹領内のキリシタン取締りについて、寛永年の鉱山等のこと

が話題になり、会場からの発言も出たりしました。

2件目は、千葉克一氏の資料話題提供。去る2月22日の古文書学習会の葛原村木次

谷源十郎事件文書の完訳文を配布。南部境問題について。津軽秋田南部三境目にある

炭塚森について、「炭塚」とは、秋南双方領界主張で「清水ケ峠」が絵図に二ケ所に

記されていることについてなどが話題となりました。

3件目は、『岩手の歴史なぜ?どうして?』から、1)義経は、なぜ平泉にきたのか

、2)九戸政実は、なぜ乱を起こしたのか、3)どうして葛西・大崎一揆がおきたのか

、4)留守氏が水沢城主になったのはなぜ、を学習しました。担当鷲谷でした。

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       催事情報 1) 秋田県公文書館・歴史講座 6月8日(金)13:30〜15:00

                     テーマ・南北朝の動乱と北羽   講師・塩谷順耳

2)秋田県立博物館・名誉館長講座 6月22日(金)14:00〜15:30  

        テーマ・秋田の先覚とその周辺   講師・新野直吉

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■ 伊能忠敬 秋田・日本海岸の旅    『歴史研究』409号所収・籾山昭市稿より引用

 忠敬は、享和二年(1802)6月から十月までの五カ月間、幕命をうけ、北国街道筋

と本州西海岸津軽三馬屋(三廐村)から越後高田(上越市)までの海岸線測量と、八

月一日の日食観測を行っている。 一行は忠敬・平川軍蔵・伊能秀蔵・尾形慶助・大

平雄助と久兵衛・兵助の七名で、手当金六十両を支給されている。 江戸出立に先だ

って道行奉行・勘定奉行御触によって〃北国筋、海辺浦々測量御用の爲差遣されるに

付無賃の人馬下され候間宿々村々において其旨相心得往返共滞り無く差出しべく…

〃と日光道中・奥州道中・若松通・羽州米沢・津軽弘前から三馬屋まで・右宿々村々

問屋・年寄・名主組頭宛と、同様本文で三廐から越後高田まで、高田から中山道通・

江戸板橋宿までの問屋名主など宛三通の御触が出され測量が円滑に遂行できるよう

配意されている。…

… 秋田県内での測量は32日間うち7月23日から十一日間は能代に滞在し周辺

測量と八月一日の日食観測、記録整理に費やされた。しかし観測は〃午後より一面薄

雲覆ひ日影見えず……〃等々、期待した成果は得られなかった。 彼等の行程は朝6

時から7時に出立し、里数を測り村々の地形・田地の広さ・家数あるいは古跡の記録

をしながら午後二時頃当日の宿泊地に到着し、夜は星の観測をしている。一日平均六

〜七時間24キロの道程は泥濘の山坂を越え下り、大小河川の徒歩、雨の日の測量な

どその苦労は想像に絶するものがあったろう。…(以下略)

■ 偉大な第二の人生        『歴史研究』409号所収・加藤昇市稿より引用

 下総佐原の冨商伊能忠敬は五十歳の時、巨額の資産を長男に譲り隠居した。普通な

らば邸前の小野川に釣糸を垂れるなどして余生を送るところだが彼にとっては、これ

からが真の人生であった。 寛政七年(1795)江戸に出た忠敬は幕府天文方高橋至時に

入門し、天文・暦学・測量術を学んだ。当時わが国には未だ実測による全国地図はな

かった。忠敬はこの前人未踏の事業に乗り出す。 彼は自費で蝦夷地南東海岸の測量

から始め、羽越・北陸・東海道を測量し、本州半分の地図を完成した。つづく西日本

の測量は公費で行い、72歳の時、全土の測量を完了した。 測量完了の二年後、忠

敬は世を去ったが文政4年(1821)『大日本沿海奥地図』『大日本沿海実測録』などが

完成し、その偉業は不滅のものとなった。幕末、伊能地図を見たイギリスの測量船隊は

、その正確さに驚き芸術品と賞賛した。 忠敬は常人が一生かけても出来ないことを

、第二の人生でやり遂げた。しかも、それは異常な天才性によってではなく、熱意と

根気によって達成された。人物伝としての忠敬の面白さは、この一点につくるだろう

。…  (以下略)

■ 矢立峠  享和二年八月六日大館泊、出立七日矢立峠越え 「…四十八川と言テ

一流を十七度渡る道甚悪し夫より上り矢立峠なり、険阻にて行路狭く木蓋て闇し、釈

迦内より雨降り出し折ふし風雨頻りなれば甚だ難儀に及べり、峠の上に奥羽の堺杉木

あり、南は出羽国秋田郡久保田領、北は陸奥国津軽郡弘前領なり…」

伊能忠敬『沿海日誌』より

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 6月17日研究発表会終了後、幹事会を開催しますので了知下さい。会長。

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