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                   発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

   北羽歴史研究会 会報 NO.198 2008(H20)年2月1日

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 2月、古文書学習会を開催します。  

220日(水)、古文書学習会開催、 13:1515:30

於・大舘市中央公民館

                  

テキスト・大沢家文書より「扇田・御伝馬講について」     

・・・「伝馬」の重い役務負担をどうするか、町村の苦労のほどを考察・・・

講師・千葉克一氏

 

 註・古文書解読の後の肩ほぐしに「狩野亨吉の安藤昌益」お話予定もあります。 

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     21回定例総会を終える 

 1月30日、第21回定例総会は、司会丸屋副会長、議長市川初男氏により所定の

議事をへて報告・提案等、可決決定となりました。実地研修地等ご意見もあり。

総会後は懇親会、野口さん挨拶、丸屋さん武田さん差入あり、昌益の言葉を紹介。wa

      安藤昌益のことば

1 「四民を立つるの失(アヤマ)り …… 四民は士農工商なり、是れ聖人の大罪大失なり。

君の下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し強気にして異輩に及ぶ者之有ときは、

此の武士大勢を以て捕り拉(クジカ)ん為に是を制す。亦聖人の令命に背き党を為し、敵と

為る者には、此の武士を以て責め伐たんが為に兼ね用うるなり。 是自然の転下を盗む

故、他の責め有る事を恐れるなり。……君の下の士、多人耕さず食い、耕者不足する乱世

を招く……農は直耕.直織.安食.無欲.無乱にして自然の転子(天子)なり。故に貴なら

ず賎ならず、上ならず下ならず、賢ならず愚ならず、転定に応じて私無き者なり。之を

以て士の下に布き、己が養父を以て蹈下(トウカ)と為すは、聖人の罪の恐れなり。…

…転定と与に行わるる人倫に何の四民有らんや。聖人私作して患(ウダデ)きなり。」  

2「転下は転下の転下にして、自然の転下なり」  

3「争う者は必ず倒れる。故に我が道には争いなし。我は兵を語らず、われ戦わず」

4「大公望六韜の巻、是大失の始りなり」 5「兵は凶器なり」6「兵は国の乱具なり」

7「人は万万人なれど一人なり。一人なれども万万人なり」 8「吾れ転に帰し、穀に休し、人に来る

。幾幾として経歳すといえども誓って自然活真の世となさん」 (4以下略記)

■ 先号の誤記訂正、12月史話懇談会記事2行目、「江戸の町拡大938町」が正しい。戸は誤記。

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■ 安藤昌益は北前船で京都へ

安藤昌益は、秋田から京都へ上り、医師味岡三伯について医学を学んだという。何歳の頃

かは定かではない。この地方から京都へとなると、テクテク歩いて江戸廻りというよりは、

日本海航路の北前船便乗だったと推測されるが如何か。大館からは米代川を舟で下り、能

代湊から南下の船に乗れば京都は近い。…この際日本海航路北前船について考えてみよう

      秋田藩は、上方廻米に日本海の海運を積極的に利用した。近世初頭は上方市場の中心は、

京都の伏見や大津方面にあったので、若狭湾の敦賀に廻着し、駄送と琵琶湖の水運を利用

する方法が取られた。その後経済の中心が京・大津から大阪に移り、下関経由の航路も整備

されるにつれ、瀬戸内海の大型船が日本海に進出してくる。しかし秋田藩の敦賀湊との関係

も続いている。藩米の回漕は例年三万石を基準とし、それを上回る10万石から15万石ほ

どの商人米が積出されて行った。土崎湊へは例年600艘を超える廻船が入ったという。

田藩では大阪の蔵宿に藩米の保管と販売がまかされており、その収入は江戸での支出に

当てられた。 …秋田藩には特筆すべき海運利用があった。幕府御用銅の積み出しである。

阿仁銅山は佐竹氏の開発により最初、金銀を産出し、以後銅が中心となり幕末まで採鉱が

続けられた。秋田藩の産銅は、長崎輸出銅として又、銭貨鋳造原料として大阪の銀座に回漕

された。明和二年(1765)盛岡藩領尾去沢鉱山の産銅が野辺地積み出しに変更されるまでは、

米代川を舟で下して能代湊からまた積み出されていた。

湊発展の契機は荒銅の移出と、長木沢方面より川下げされてくる杉の良材にあった。

杉材は都市開発の時代にあって商品需要が多く、諸国廻船を能代にひきつけた。能代は隆盛、

享保15年に能代村は能代町となった。・・・(『秋田県の歴史』山川出版社より引用

■ 北前船は「動く総合商社」

 北前船がもたらした物資は、瀬戸の塩、大阪・伊勢の木綿・木綿の古着、出雲の鉄、津

軽・秋田の木材、蝦夷地の鰊や干物などです。これらのうち綿製品は北国では需要の大きい

商品でした。なぜなら、綿花は熱帯性の植物で、北国では栽培できなかったため大歓迎さ

れました。またお雛様や伊万里の器、そして寺の仏像や梵鐘、各地の石材なども海運によって

もたらされたものです。あらゆる商品を売買した北前船は、いわば「動く総合商社」でした。

 昆布の普及 …日本料理で昆布で出汁をとるのは当り前のことになっています。

この技術を確立したのは京都や大坂の料理人ですが、なぜ彼らが昆布を用いたのでしょうか、

北前船で大量の昆布を運んだ人がいたからです。大量に流通したので昆布は誰にでも使える

安価な食材になりました。その運び手が北前船だったのです。沖縄でも昆布を用いた料理が沢

山ありますが、北国の昆布は南国まで運ばれ、さまざまの料理に用いられています。… 

(「本間家旧本邸ガイド」より引用) 

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    原稿募集… 会報200号記念特集で短文原稿を募集します。史話・感想・提案など

なんでも結構です。800字以内に。葉書投稿でも結構です。締切り3月12日。鷲谷迄。  

■学習会予定3月12日、実地研修会予定4月22−23日(仙台伊達氏)、以上宜しく

 

 

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