――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

                           発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊   

  北羽歴史研究会 会報  NO.200  2008(H20)年5月1日

 

              5月・古文書学習会を開催します  大館中央公民館

平成20年度第2回目の古文書学習会を下記により開催します、ご参加ください。

           期

日時 522日・午後110分 〜午後330分    講師・千葉克一氏

テーマ  佐竹氏に仕官した秋田安東氏の旧臣系譜

    テキスト1 「先祖口上書」安東弥治右衛門

    テキスト2 「由緒書」安東茂兵衛

    テキスト3 「覚」安東左兵衛

                                以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■ 6月予定、研究発表会。日時17日午後、於大館中公、発表希望申出下さい。

………………………………………………………………………………………………

■ 45回実地研修会4月22-23日は、無事終了しました

日程を決める際、桜の満開日は何日頃だろうと大いに気にしたところでしたが、ズバリ

満開の岩出山城でした。東北自動車道の往路も花盛り、帰路もまた行くとき目につかな

かった山中の山桜も咲いているという躍動の春爛漫の的中日程でした。参加16名。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

催事情報 1)あきた文学資料館(秋田市中通6-6-10  5月21日(水)13:30—15:00

       文学講座「秋田と近代文学的事件史」講師井上隆明氏、

2)秋田県立図書館  ふるさとセミナー  5月25日(日)15:00—16:30

   「ガラス絵で宮沢賢治のくにへ」講師児玉房子(ガラス絵作者宮沢賢治研究家)

3)秋田歴研協歴史フオーラム 7月6日13:00—15:30  会場・あきた文学資料館

 テーマ「院内銀山遺跡に光をあてる…秋田の鉱山遺跡の保存と活用をめざして」

 基調報告・院内銀山の遺跡と文化財・渡辺和男氏(院内銀山史跡保存顕彰会)

 特別報告・金山神社修復事業の現状と課題・高岡正氏(史跡環境整備実行委員会) 

 ・・・・・・・・・・・・・

安藤昌益刊行 昨10月の「安藤昌益全国フエステイバルin千住」の報告集が刊行されまし

た。基調報告昌益の医学・特別報告昌益の平和思想・昌益の飢餓感、分科会の千住・八

戸・大館・医者・思想家の各報告、一人芝居・発見伝講談のシナリオなどを収集しています。

狭い領域を超えて無限幅の昌益を知る。A4204ページ 大館(鷲谷・小林嬌一)は17頁分

頒価1000.送料160. 安藤昌益と千住宿の関係を調べる会刊行・事務局矢内信悟。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――.

――――――――――− 200号特集 ――――――――         -

■ 研修旅行から                   畑沢貴美子

 今回の研修旅行は晴天に恵まれ、岩出山城では満開の桜が出迎えてくれました。そこ

には、古川市に住む佐々木さんの娘さんも、出迎えてくれました。葛西家へ嫁いでいる

のです。葛西氏についても歴史の話で盛り上がりました。

 私は一年に一度のこの研修旅行を何より楽しみにしています。どんな旅行よりも満足

感を覚えて帰宅します。今回も大満足でした。 青葉神社には政宗(武振彦命)を神と

して祀ってあることにびっくりしました。そこで会長さんが「秋田県で佐竹義宣を神と

して祀っている神社を知っていますか?」と皆に問いかけました。私も皆さんも首を傾

げました。答えは夕食時に教えていただきました。

片倉小十郎の子孫である宮司が、青葉城で使用していた太鼓を打ち鳴らしてくださっ

たのには感動しました。優しい笑顔の宮司さんでした。 私は北海道の伊達市で生まれ、

そして息子を伊達市の日赤病院で産みました。伊達政宗と伊達市との関係を知りたいと

思っていましたので、伊達藩の人たちが明治維新後に開拓者して北海道へ渡った事実を

詳しく知ることが出来、願いがかないました。次の日からしばらくは、北海道へ渡って

行った伊達政宗の家臣たちを思いながらすごしていました。 

夕食時には運転手の田山さんが手品を披露してくださり、みんなを楽しませてくださ

いました。 会長さんが「参加人数が少ないので、来年は中止になるでしょう」と言わ

れたのはショックでした。こんなステキな仲間と勉強しながら旅行が出来る機会を是非

来年も続けていただきたいと思いました。みなさんありがとうございました。  

        −          −          ー           −

■  埋蔵文化財について                工藤 侃

 北羽歴史研究会が、このたび二十周年・会報200号という意義ある節目を迎えること

になり、会員として、心から喜びたいと思います。会報については、次回の事業内容、

前回の事業報告、催事場砲、出版情報、お知らせなど詳細な教示内容であり、又、事業

につては、研究発表会、講演会、古文書学習会、史話懇談会、並びに実地研修会(史跡

探訪)等を実施、又、史論集を発行するなど、私はその成果に感銘しており、会長・事

務局の熱意に感謝しております。 私は、北羽歴史研究会会員として約八年の未熟者で

すが、歴史及び埋蔵文化財について、最近漸く関心を持つことが出来ました。

 埋蔵文化財について、雑感を述べたいと存じます。

 私は、森吉山ダム建設事業に係わる森吉山ダム公開セミナーに、平成十五年から継続

して大館市の知人と参加しています。森吉山ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査

の現場を、五回ほど見学して、新たな歴史の発見もありました。(※県の発掘調査は平

成七年〜十九年迄、十三年間行われ、六十カ所の遺跡の存在を確認し、五十二ケ所の遺

跡調査で終結、森吉山ダムは平成二十三年完成です。)

 私は、県埋蔵文化財センター、運営委員会を引き受けた関係で、ここ数年、ふるさと

考古セミナーや遺跡見学会、埋蔵文化財発掘調査報告会に参加しています。又、私の住

む小学校の学区内に、縄文時代早期の遺跡として寒沢遺跡や、縄文時代前期の池内遺跡

(住居跡)があります。この縄文時代前期には、米代川流域は、青森県内とともに円筒

土器文化の圏内となり、以後共通した文化が繰り返し現れて、秋田県北米代川流域と青

森県津軽地方の遺跡は、関連深いことを認識することができました。今後は歴史考古学

にも関心を持ち、学習したいものと考えております。北羽歴史研究会が更に発展してい

くことを祈念いたします。                         」

         −         −        --

■ 【随想】 『ボケたらあかん・・・・・』の教えに思う     丸屋 悧

 昨夏の井上ひさし氏は、文章執筆に当たっていつも「難しいことは面白く、面白いこ

とを深く、深いことを易しく」と心がけているそうだ。遅筆亭を自称するほどだから、

氏の執筆スピードは、けっしてはかばかしくはないらしい。それでいて、いや、それだ

からこそかもしれない。氏はパロデイーの名手でもあり、例えば戯曲『頭痛肩こり樋口

一葉』などのタイトルを一見しただけで、意表をつく軽妙さを感じさせるのはさすがで

ある。  私が自戒の一つとさせてもらっている故松下幸之助氏の『ボケたらあかん。

長生きしなはれ』という文章は、名文ではないが「深いことを易しく」の好例のように

思う。高齢者の処世の指針となる言葉を巧まずに綴っている。既にご存知の方も多いと

思われるが、話の流れとしてここにその一部を採録させて頂く。

  年を取ったら、出しゃばらず、  にくまれ口に、泣きごとに  人の蔭口愚痴言

わず  他人のことは、ほめなはれ  聞かれりゃ教へてあげてでも  知ってること

でも知らんふり  何時でも「あほ」でいることだ。

  勝ったら、あかん負けなはれ  いづれお世話になる身なら  若いもんには、花

もたせ  一歩さがってゆずるのが  円満にゆくコツですわ  何時も感謝を忘れ

ずに  どんな時でも有難う   (以下省略)

 私は近頃、体力とくに記憶力の減退を自覚させられている状態で、幸之助氏の「ボケ

たらあかん・・・・・」の教えを少しでも見習いたいと思っているのだが、凡俗の身にとっ

てその実践は至難で「日暮れて道未だ遠し」の嘆をかこっているばかりである。 完

      −      −        ―       

■ 戊辰戦争雑感                       金沢長一郎

 今年は戊辰戦争140年にあたる。1998年の130年のときは、わが北羽歴史研究

会でも展示会やシンポジュウムを行った。秋田市での秋田歴研協主催のシンポ・旧角館町の

シンポに参加したことが、つい昨日のことのような気がする。

 さて、盛岡城跡にある櫻山神社境内に「戊辰戦争殉難者碑」が建っている。また平民

宰相原敬が有名な「戊辰戦争には賊も官もない、政見の違いのみ」と祭文を読み上げた

のは、「戊辰戦争殉難者50年祭であった。「殉難」とは「国家社会宗教などの危難のた

めに身を犠牲にすること」と広辞苑にある。

 我々、攻められ甚大な戦禍を蒙った大館秋田藩側としては、攻撃した方が「殉難

者」とするのは違和感をもつ言葉である。このようなことは他にもある。鹿角市のある

史談会の研究発表の紹介記事(04,10,15北鹿新聞)で、「歴史上負者の弁は抹殺される傾

向にあるが地方村方に断片的に残っている」として、秋田藩から「南部の火付け」と言

われるが「南部方に兵糧を取られるより自分たちで火を付けたのが真実だ」と発表した

とのことである。どこか違うような気がする。もし本当だとしても攻められなければ火

を付ける必要もなかったのではないか。

 南部側はあくまで攻撃側で大館は被害者である。「奥羽越列藩同盟」を裏切った秋田

藩を赦せないということだろうが、なぜこの段階で参戦したのか。司馬遼太郎は、「伊

達藩への義理で一藩をつぶした」と言っている。義理で攻められ戦禍を蒙った大館側と

してはたまったものではない。

 一方、秋田藩も「勝った勝った」、東北唯一の「官軍」だなどと威張ったのは頂けない。

実質は敗戦を糊塗するために声高に言ったような気がする。しかもその後は維新政府に

疎外された被害者としての面ばかり強調され、秋田はダメになったとされているが、政

府の足を引っ張った面も大きかった。反政府の巣窟とみなされてしまったことは、その

後の秋田に大きな影響を与えた。

 ところで、戊辰戦争といえば、ともすれば戦闘(秋田北部戦線では8月9日〜9月25日)

ことが主に語られているように思うが、当時の人にとっては戦後が大変だったのではな

いだろうか。家は焼かれ田畑が戦場となり、その上に凶作が重なり経済が混乱し、騒擾

が各地に発生している。 武士階級は武士階級で、連戦連敗で権威を著しく失墜し支配

力は低下した。加えて八坂丸事件などが起りどうにもならなくなったのである。

 版籍奉還(M2,6,22)などを経て廃藩置県(M4,7,14)に至り、武士階級が消滅するという

大激動に遭遇してしまったのである。 明治以後、岩手県(南部)と秋田で差が出たのは

人材においてである。(会津も同様なのかもしれない) 朝敵藩である両藩には日本を

代表する人材が輩出した。これは絶対に薩長に負けまいという気概によるのであろうか。

秋田は負けを認めず、ただ官軍だったという虚名にしがみついたのみでは向上心は生れ

なかったということだろうか。                       

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■ 金字塔達成を祝って  会報200号達成おめでとう御座います。心からお祝いと敬意を表させて

頂きます。…今年は会の創立20周年の記念の年でもあります。この会がスタートしたときの会員数は20

ぐらいであったかと思います…会員も50人を越え…着実に歩みを続けております…会報は…会の予定行事

や会合結果など会務の進行状況をはじめ、その時々の話題や歴史研究団体の催し等…200号達成は金字塔で

あり…本当にご苦労さまでした…一層の精進を期待し…お祝いの言葉とさせて頂きます。  丸屋悧

 20020年を謝す。丸屋さんの祝辞の大幅割愛申し訳ありません。会長名等カットあしからず。(鷲)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

   次号へ      前号へ      ホームへ