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                           発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊   

  北羽歴史研究会 会報  NO.205  2008(H20)年11

 ■  11月・研究発表会を開催します

第51回研究発表会を下記により開催しますので、参加ください。

        記

・日時 11月20日(木)、13:10〜15:40

  ・場所  大館市中央公民館

  ・発表テーマ・発表者

   1、 大館周辺の中世城館について(2)  … …  武田 政二郎

   2、 戊辰戦争仙台藩主南部藩主の謝罪文  … … … 鷲谷 豊       

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■ 10月、本年三回目の古文書学習会終る・・・古内氏・武茂氏文書について。

 古内氏初代義康は佐竹宗家16代義舜の五男、常陸国東茨城郡古内の城主歴代、そのあと古

内下野守義貞が出羽秋田への佐竹入部に同行、後に大館城代付で三の丸に住す。元禄年間では古

内孫三郎375石、古内鉄之助150石の二家、享保13年大館城絵図からは、蔵人、織部、今右衛

門、主典の四家が見える。佐竹氏家臣団家格の最上位の引渡(ヒキワタシ)のトップは一門四家東西南北、

その次の一門六家に古内氏は入る。六家は佐竹直分流で古内のほか石塚・大山・今宮・小野岡・

戸村など。現在の大館市居住の古内さんは一軒ですが、能代市に4軒、秋田市に4軒、平鹿郡で

18軒など、関係は不明未調査。//  武茂氏(ムモシ)。関白右大臣藤原道兼を祖とする宇都宮氏

の分流と云う。鎌倉時代の正応年中(128892)宇都宮景綱三男泰宗が下野国武茂庄に築城、十

余郷を領して武茂常陸介泰宗を名乗る。以後南北朝室町時代を経て戦国期は常陸佐竹氏に協力す

るようになった。現在に残る佐竹歴代義昭・義重の所領認書や起請文などが当時の情勢を反映し

ている。豊臣秀吉の小田原戦後の仕置きで下野武茂領は、佐竹領分に取込まれ武茂氏は常陸久慈

郡大賀(現常陸大宮市大賀)に所領替となった。慶長七年、佐竹氏の秋田転封と共に武茂氏もこ

れに従い後に大館城代付で三の丸に住す。元禄年で武茂源右衛門150石、家格は引渡(ヒキワタシ)

3・随従城主の家柄九家に入る。廻座との記載もありこれは理由不明。武茂氏後裔は大館市で

著名のお医者さん(長倉町耳鼻咽喉科)1軒のみ。県内で潟上市1軒、横手市3軒、関係は不明

未調査。能代・秋田市等なし。全国1314軒とネット検索にはでるが詳しくは不明。

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 催事情報 ○秋田県公文書館 /// ーカイブスコース117日(金)13:30—15:30

「公文書からみる秋田のちょっといい話」講師戸嶋明。/// 古文書解読コース11

  11日(火)13:30—15:30「伊頭園茶話が綴る近世秋田の暮らし」講師渡部紘一。

○秋田県立博物館 /// 名誉館長(新野直吉)講座、演題「菅江真澄からの連想」

 第51114日(金)14:00—15:30、第61128日(金)14:00—15:30

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■安藤昌益研究・情報交換会

 東京の「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の呼びかけで、10月25日に盛岡市文化ホー

ル会議室で交流会が開催されました。東京からの10余名に千葉花巻、盛岡八戸から若干名毎、

計20名余。安藤昌益の「自然真営堂」が当初に東京の千住から発掘された事は周知ですが、そ

の後は千住と昌益の関係について探索されてきました。その結果江戸千住在の町医者川村寿庵が

発見され、またその息子で医師の真斎の存在も明らかとなります。真斎は安東昌益の医学論・思

想論による著作を残していることも判明する。そして川村寿庵が南部藩三戸の出身であり、安藤

昌益に師事した経過を示す「古文書」が岩手県立博物館の斉藤さんによって昨年発表された。今

回は三戸に現存の川村家の事など紹介あり。八戸ではやはり昌益関係の人脈について「古文書」

からの検索されており今回その一部が図書館関係の方から紹介された。  :大館参加1、鷲谷

■八戸で昌益資料館をつくる動き

 八戸市で「安藤昌益資料館を作る会」が先10月5日に発足した。発会式は八戸市十六日町の

天聖寺ホールで、安藤昌益天聖寺250年フオーラムと称し、昌益資料館設立構想の発表、講談

「安藤昌益発見伝・宝井琴桜」、鼎談「昌益と八戸・天聖寺」三氏、などが行われた。安藤昌益

は今から250年前宝暦8年に天聖寺で全国シンポを開いた。狩野亨吉が「大思想家あり」と公

表した明治41年から丁度百年目にあたる。昌益の命日の10月にもあたると、この日の発会式

を広く呼びかけていた。(註:大館にも案内あり)  発会式は、八戸歴史研究会やNPO法人メンバ

ーなど約80人が出席し、発起人代表の中居雅博氏が「八戸を代表する偉人の功績をたたえ、全

国の昌益フアンが集う場としたい」と設立趣旨を説明した。 計画によると資料館が、市中心街

に残る蔵を利用して造り、八戸で開業医となった昌益が執筆した著書「自然真営道」「統道真伝」

の再現レプリカや昌益に関する書籍を展示する。資料館を中心に、観光客が散策できる「昌益ロ

ード」を設けるほか、年1回、昌益の功績をたたえる「昌益フエア」を開催。環境問題などに取

り組む市民団体を表彰する「安藤昌益賞」も創設する予定という。 (この項河北紙)

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■奥羽列藩同盟の舞台裏 「仙台藩は、新庄の戸沢藩や天童の織田藩の去来を警戒し、露骨な

裏面工作に出た。まず新庄藩が鎮撫使御用を勤めている為、仙台滞在の松坂源蔵と山田五郎太夫

の身柄を拘束し強く同盟加盟を迫った。これには戸沢藩も無視できず対応に困った。困ったあげ

く戸沢藩では新庄にいた沢副総督に事情を説明して…どうしたらと伺いを立てた。これは無策に

似て、その実は老獪な方法だった。沢副総督の下知に従って行動したという言質が残るからであ

る。沢副総督からは耳よりな回答が返ってきた。それは新庄藩の置かれた立場も考え、好意的な

ものであった。今新庄藩が同盟参加を蹴れば、仙台米沢藩が新庄に攻めて来よう。これでは新庄

藩の少ない兵力と自分の手兵七百人では攻ようがない。…官軍の援兵が来るまで、便法として一

時加盟し、時を稼がせるがよかろうと。 天童藩に対しては、仙台領秋保温泉に難を避けていた

前藩主織田信学を軟禁して加盟を迫った。総督軍の先導を勤めた天童藩に庄内藩の風当りも強か

った。誰の目にも天童藩が加盟する事をしぶると分かっていたから、庄内藩の酒井吉之丞が天童

久野本の常安寺まで出向き加盟を強要した。…」『吉田大八・わが命たがためにある』中村晃著より 

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