発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊  

  北羽歴史研究会 会報  NO.206   2008.(H20)12月1日

 

12月、史話懇談会を開催します、ご参加ください。

12月18日(木)・史話懇談会開催13:10〜15:30 

       於・大館市中央公民館  

           記

各人の話題提供、知りたい事の質問提起でも結構、こぞっての披露を期待。

           参考資料コピーのある方は20部ほど用意くだされば幸甚、 

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11月研究発表会終る 1)中世の城館、米代川流域第二部大館市周辺、のテー

マで武田政二郎氏。昨年11月の第一部に続く発表です。配布資料はA4で17頁(A3

9枚手書文)でした。大舘野・大舘城・十狐城・葛原館・長岡城・十二所城をとり上

げ、地形図・郭部構成・時代歴・戦歴などを相当詳しく説明をされました。複数資料の

集成は、これから城館調べには大変役立つと思われます。 (欠席で資料要は事務局へ)

(付記)より興味のある方へ、中世城館関係参考書紹介。まず地元の書 1、『大館市史第一巻』

大舘地方に残る城館跡319-364P 、『鷹巣の文化財H2鷹巣町教委刊、、『鹿角市史第一巻』

鹿角の中世城館541-590P。、『鹿角の館』(調査報告集)鹿角市教育委員会刊。5、秋田県内の

概要を網羅してよく判る『秋田県の中世城館』秋田県教育委員会H3年刊、、『日本城郭大系

2』青森岩手秋田版・新人物往来社1980刊、主要城館を詳しく説明、小さな城館は一覧書き。

、『出羽諸城の研究』沼田愛三編S55刊、大舘北秋では18城館を説明、説明は古いが扇田城・

米内沢城などで興味ある説明もある。、歴史の渦中で戦さ場となった諸城の物語は、『秋田の

』斉藤陽二郎編集S33秋田魁新報社発行、が面白い。、同じく秋田魁新報社のS50発行で『

戦場秋田の合戦史―』も面白い。戦国期のほか戊辰戦争まで入っている。   10、歴史学では、

中世出羽の領主と城館2002年・高志書院刊。11、中世城館址の探索はワクワクと楽しい。『

館調査ハンドブック』(新人物往来社1993年初版発行)は如何でしょうか。  12、中世城館より

は近世城郭との方には、カラー版『日本の名城S46初版秋田書店、『日本の名城S52年初版新

人物往来社、などでしょう。『探訪日本の城』は、全10巻・小学館刊、第一巻奥羽道はS55刊、

主として近世だが中世城館の一覧もあり城郭写真も可、一見お薦めです。

 2)戊辰戦争仙台藩主南部藩主の謝罪文…鷲谷発表。配布資料B4/4枚(B5/8P)主題「奥羽越

列藩同盟に歴史的意義はない」1、明治維新の意義…日本は明治維新によって近代化の一歩を踏

み出した2歴史の進展にブレーキ列藩同盟に歴史的意義はない3会津荘内藩主謝罪状。南

部藩へ茂木筑後の返書4国策危機。…5雪冤物語原敬の政見の異同のみは詭弁。以下略。w

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■ 五代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院      … 歴史の女性 …  

 桂昌院は元禄時代におこった事件のうち、特に「生類憐れみの令」発布の陰の女性として名高

い。玉の輿にのった成り上がり者だが、将軍綱吉を過保護に育てたことで、昭和元禄時代の教育

ママの元祖といえなくもないのである。 桂昌院は剃髪してからの法号であって、名はお玉とい

う。京都堀川通の八百屋仁左衛門の娘で寛永元年生まれ。父の死後、母が摂家の二条家の侍本荘

宗正の後妻になり、お玉も本荘家で養育された。寛永16年16歳の時、参議六条有純の姫君で伊

勢尼寺慶光院の住職となった女性が、入院継目の礼を陳べるため江戸城に登城したとき、お玉も

それに従って城に入り大奥の女中頭春日局に頼った。/ 慶光院の尼は、まもなく三代将軍家光

にみそめられ、春日局の斡旋で還俗、側室となった。お玉もまた大奥の女中をつとめている内に、

家光の寵愛を受けて側室となり、家光の四男綱吉を生んだ。家光には四代将軍となった家綱の次

に綱重・亀松という男子があったが、やがて家綱やほか男子も亡くなり、綱吉が延宝八年に五代

将軍の座についた。すると将軍の生母としての桂昌院は江戸城大奥の絶対的権威者となりその一

族も相次いで出世している。/ 桂昌院は仏教に帰依すること篤く、亮賢・隆光らの僧侶を崇信

し、江戸に護国寺を建立し、両僧の勧めで綱吉を説得し、有名な生類憐みの令を公布させた。そ

れを動機に江戸城大奥に出入りする僧侶が多くなり、風紀紊乱の起因をつくった。彼女は元禄15

年従一位に叙せられたが、宝永二年82歳の高齢で死去し、芝の増上寺に葬られた。(桑田忠親)

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 平成20年度矢立峠歴史の道 整備記録 … 矢立峠歴史の道を守る会 … 

                                            

1、4月2日  雪解け後の点検。 矢立杉跡の説明版の庇(ヒサシ)が、積雪で曲がってしまっ

たので仮補修正。明治新道頂部交点の案内板のヒサシも同様なので補修処理。 2、4月29日

  1)明治新道赤湯沢の渡り橋の補修。かねて大雨の時、橋根元の石崩れで陥没してそのまま。

森林管理署に修復をお願いしたが未処理のまま。橋渡りの際に危険なので陥没穴をコンパネなど

で塞ぎ作業をする。 2)秋田側明治新道から津軽側へ、湯ノ沢口より古街道ルート秋田側へ全

ルート廻り、雪倒れなどの枝払い数ケ所を実施と津軽側排水溝手当て。

3、7月2日  明治新道赤湯沢口より刈り払い、頂部交差点まで。交差十字路部で歩道が新道

跡を外れてあり、誤解なく新道跡がよく判断できるよう新道部を幅広く刈り払うようにした。

コース的に圧迫感のない広い感じの道筋となったと思う。 4、7月3日 津軽側湯ノ沢口より

明治新道を頂部の秋田側交差十字路まで刈り払い。津軽側は歩行者が排水溝に踏み込まぬ様に刈

のが要点。秋田側交差十字路は再度刈る。 5、7月16日 古羽州街道秋田側旧国道から上り

、峰道矢立杉株広場までの刈り払い。上り口前の旧国道も笹竹・蓬の繁茂を刈り払う。

6、9月9日  矢立杉株広場の菅江真澄標柱のペンキ剥げ文字修復とその他補整。 7、9月

14日 1)明治新道赤湯沢より頂部交差点広場へ刈り払い。古街道茶屋峠から旧国道口までと、

旧国道一部刈り払い。 2)明治新道入り口の案内板(森林管理署)の地図がペンキ剥げになっ

ているので、色ペンキ持参、補整書きする。 8、9月18日 明治新道、沢の上下踏み段の除

草困難につき除草剤を処理する。 9、11月9日 矢立杉広場の矢立峠説明板のヒサシ屋根板

を補強(積雪対策)。ペンキ塗り。 10、11月14日 古街道と明治新道の全ルートを点検。

案内標柱の状況と来年整備課題等調査、取替・新設必要箇所など。 以上報告…歴研 washiya

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