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発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊
北羽歴史研究会 会報 NO.212 2009(H21)年6月1日
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6月18日(木) 研究発表会を開催します。
第52回研究発表会を6月18日13:10〜15:30開催します。於大舘市中公民館
記
テーマ1、仏教基礎知識、仏教用語などについて … 田中 實
2、(仮題)戊辰戦争での兵器について … 金沢長一郎
以上
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■ 5月21日古文書学習会終了
元禄年の系図由緒の中田氏、和田氏文書の解読。藩への系図提出で和田氏から分
流との中田氏系図があり、再調べの事など記録したものと解明。源系中田氏系図と
和田系図佐竹藩の重老であった和田昭為(掃部助、安房守)などは同配布参考資料による。
元禄年の大館給士の中田氏は、郷左衛門150石、孫兵衛80石、次左衛門60石、
太郎左衛門50石、数馬28石、新兵衛15石の六家。野代給士の中田氏は、掃部170
石、五郎兵衛150石、甚之助30石、辰之助30石、佐左衛門27石、宅右衛門25石、
万兵衛25石4人扶持、甚兵衛15石、主鈴15石、五兵衛10石の十家。
和田氏は大館野代ともになし、十二所給士に和田浅右衛門50石、同茂兵衛10石の二家
あり。久保田城下では安政年で、和田掃部助397石、保太郎94石、左之助65石、重左衛
門37石の四家がある。 現況の中田氏、大舘53(内比内27)、能代39、秋田市92。現況
の和田氏、大館74、能代21、秋田市124、となっております。
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■ 秋田歴研協、歴史フオーラム「歴史資料の保存について」5月30日盛会に。
1)由利本荘から(佐藤俊助氏.本荘郷土資料館資料調査員)〜本荘由利地域史研究会・にか
ほ郷土史研究会が発足。会誌は『由理』と『雄波郷』。合併により資料館等の連携、合同企
画展など成果。歴史資料の散逸と遺失、市街地整備の家屋解体の影響がある。旧町村の資
料保存問題、文書館設置要請、市民からの運動必要など。2)秋田市から(菅原忠氏.秋田
市文書法制課歴史資料担当)〜永久保存戦前文書のデジタル化、公文書は歴史資料係の目
を通してから処分とする保存要綱。市史として活字化されなかた史料価値のあるものは「歴
史叢書」刊行。3) 横手市から(高本明博.横手市史編さん室)〜目録整理化は現在三万点。
横手市総合計画に横手市公文書館の設置があり検討会1回実施。市議会提起もあり。等々。
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催事情報 能代市史講座 主催・能代市史編纂委員室tel-0185-89-2119、テーマ1・
城館でみる能代の中世、2・秋田家系図の作成 日時、6月13日於能代中央公民館、6月
20日於二ツ井公民館。両会場のテーマと時間13:00〜16:00、は同じ。参加無料歓迎。w
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■ 明 治 維 新 = 怨の歴史 = 武田政二郎
混迷を深める今日の政局は、識者に言わしめると幕末のそれとよく似ていると。
黒船の来航によって、泰平の夢が破られた。/ 戦国の世、戦いに正邪はない。力
が勝敗を決した。徳川幕府の成立によって乱世にペリオドが打たれたが、下級武士
達にとって、出世栄達の道が断たれた。この怨念が、三世紀の憎悪を貯め込んで、
薩長土肥などの底流となって澱んでいたという。 長州藩では正月の祝賀に家老が
藩主に、「本年は徳川討の儀は如何致しましょうや」と伺いを立てる事になってい
たという。関が原、大阪両度の陣の敗北の遺恨を代々引き継いでいたという。
また、(武市半平太を領袖とする)土佐勤皇党、軽輩達の過激な情熱も、長宗我
部氏の遺臣が土着、軽輩として山内家で露命をつないで来た怨念が火種となってい
る。山内家では上下の差厳しく、足軽、郷士らは永久に出世出来ず、雨天に下駄を
穿(は)く事も許されなかった。この苛酷な身分制度の怨が上層階級への反抗、社
会体制転換の原動力になっていた。/ 黒船来航と危機感を煽り、攘夷の理論的根
拠としての皇国史観が、勤皇党の誕生となり、参政吉田東洋を共謀暗殺する。勤皇
を叫び、天皇を奉戴する王政復古を 掲げての権力奪還である。目的は卑劣なる野
望であったことは事成って後の山県有朋・伊藤博文等を始めとする明治の元勲と称
する連中、如何に権力をほしい儘にしたかを見ればわかる。現代のキューバ革命の
ゲバラとは大きな違いである。
真の勤皇は会津藩にあった。混迷の京都の治安を守る為、京都守護職の大役を命
ぜられ京へ上った会津藩松平容保(カタモリ)は、孝明天皇に拝謁し度々参内するうち
に、その志の堅さと高潔な人格、そして武士としての確固たる信念など、孝明天皇
をして『そち程の信頼出来る武士は居ない』と言わしめ親しく、御製や宸翰を賜っ
た。/ 長洲藩と悪徳な公卿達が結束して、偽勅を出したり、孝明天皇を蔑(ナイガシ)
ろにする行為を重ねた事が、彼等の参内禁止から、七卿落ち、長洲藩の追放という
ことになった。 更に怨の怨が続く。以下略。
文献・集英社刊『青春と読書』1998年.9月号所収「早乙女貢」論考より。
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■ 参考 作家・早乙女貢(サオトメミツグS1生〜H20卒82歳、) wikipedia
曽祖父の為親が会津藩士であったといい、戊辰戦争後に祖父がアメリカに渡り、帰国後
また上海に渡り一家は中国に住む。1946年引揚。1948年上京山本周五郎に師事する。1970
年から「歴史読本」に連載の『会津士魂』は連載213回、原稿7千枚、全13巻の大作にな
る。/ 会津松平家の現当主松平保久とも親交があると同時に、会津藩への思慕の強い作家
として有名であり、「会津士魂」に代表される幕末作品、考察における視点は一貫して会津、
新撰組など幕府側に立っている。明治新政府側の薩摩藩土佐藩などの西国諸藩や、最後に
は会津藩を見捨てた徳川幕府に対して批判的であり、とりわけ会津藩と終始敵対した長洲
藩とその関係者に対しては、徹底的に辛辣かつ一切容赦のない全面的に否定的な記述に終
始している。そうした記述姿勢に対する批判も少なくはない。08,12.23、胃癌で死亡。 w
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