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                             発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

  北羽歴史研究会 会報 NO.233 2011(H23)年5月1日

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■   5月18日 公開学習講座を開催します。  

 公開学習講座の開催 518日(13:115:00於大舘市中央公民館

                   記                   第1研修室

 テーマ、「能代奉行と御下代」〜変遷と仕事の内容〜

                   

  講師、川尻茂行氏 〜秋田歴研協会員八峰町資料調査委員会会長、等

   

   註  会員以外一般の方にも聴講お薦めください。  (井の中の蛙カワズ脱却一歩)

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 4月19日通例学習会終了。 1、『比内町氏資料編』等に見る近世の鉱山

用語とその周辺〜丸屋悧。 用語には、山師.金主.検断.床屋などと出てくるが、

山師とは大げさ者で無し、床屋も理髪屋だという事でないし、金格子もそれなり

重要な用語でした。坑夫の親分.兄分.子分は鉱山での互助制を再認識させられます。

 2、津軽の比内浅利攻めについて〜鷲谷。青森津軽の史誌によれば、天正14年に浅利修理

太夫(修理亮)を、天正17年には浅利與市なる者を比内に討ちこみ亡ぼした事になっている。

此れらは秋田大館の史書には出てこない人物である。天正10年津軽に逃げのび、天正18年には

大館に津軽斡旋により戻ってきた浅利頼平についての記述は青森側には毛のほども存在しない。

この不思議、解明は如何//

 津軽一統志(巻六)から補足。十一

  頃年羽州秋田太郎と鉾楯に及びける処、聊か扱いの仔細有て少時隣国の好を結ぶ。比内の領主

浅利修理太夫實義は其頃秋田家と不和なりしかば、両旗を以て比内を責伐べき旨返答あり。秋田

家より同城北山の城主可成九郎兵衛を大将にて人数を比内へ差向ける。秋田太郎は当家内意覚策

無く思われければ、自から出馬はなかりけり。当家より御出陣有ける処、秋田は自戦故便宜也ける

ゆへ、隊将可成老功の者なりければ、計略を廻し比内に叛逆の者出来ければ、浅利匠作儀城を守り

難く急難に迫り速やかに切腹したりければ、当手の御人数は白沢と云所より引挙げられける。

浅利が家臣松尾某は、先年当家より比内御手当の折柄調畧を以て、御味方へ内応の約束を有し縁を

以て当家へ寄従しけれども、義士の本意を失へる者なるうへ、殊更今度当手の案内事緩怠の仕形共に

て御手に不合して、秋田家の手にて比内落城に及びけること御旨に不叶しかばさる御賞翫も、不在者か

無かの風情にて身を合わせけれども、年月経むれば子孫の安否さへ知不成行ける。

 或説に曰、浅利修理太夫源実儀生害城焼れの時女子一人七歳男子一人煙に迷い有しを、当家へ引き

取らせられ養育在し男子成長の後所領2百石恩賜、修理と号し仕官す。姉は櫻庭正光賜て為…」略

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◆史話              金沢 長一郎

 今回大規模な津波被害をみて、昭和三陸地震津波の模様について読んだ本を思い

出し探したところ、それは「昭和東北大凶作」(山下文男著無明舎版)の中の一

章であった。本の帯には「昭和初期の大恐惶と凶作の哀史を、自らの体験と資料

を駆使して記録する。(略)」とあり、三陸津波が主題ではなかった。

 昭和8年(1933)の地震津波は、今回と同じく33日でM8.1で三陸地方各

地に10mを超える大津波が襲い三陸沿岸の市町村集落は甚大な被害をうけた。

昭和三陸地震津波といわれる。明治29年(1896)にも大津波が来襲しており明治

三陸地震津波(死者22,000人)といわれていることは、今回の大地震の関連で

報じられ広く知られるようになった。

 ところで、昭和初期は多難な時代であった。昭和5年(1930)は、前年の「アメ

リカでの株式大暴落の端を発した世界恐慌の直撃にあって日本が昭和史上、最悪

の不景気と深刻な農業恐慌に襲われた年」(同書)であった。

 それがアメリカ向け輸出生糸の価格暴落が原因で養蚕農家(農家約560万戸の

4割弱の222万戸が養蚕を副業としていた)に、深刻な打撃を与え、更には他の

農産物にも波及し米価の暴落につながった。

 翌6年は東北・北海道が「凶作飢饉」にみまわれた。この年から農業恐慌は本

格的・全面的になった。(「昭和の恐惶」小学館)。秋田県でも収穫皆無地・七割以

上減収地合せて3100町歩であった。弘前に本店のある第五九銀行(現青森銀行)

の取付け騒ぎがあった。(比内・米澤資七氏資料)

 不景気により失業者も増加し「大学は出たけれど」という大学出の学士が職にあ

りつけぬという状況となった。この年満州事変も起きた。

 昭和7年には、東北農村を中心に、娘身売りと欠食児童が続出した。そうした最

中の三陸大津波であった。しかも前の津波からまだ37年しか経っていなかった。

 昭和9年は全国的な大凶作となった。そして、この度もまた東北地方の被害が最

も深刻、惨憺たるもので、青森県から岩手県を経て宮城県の北部に至る太平洋側と

山形から新潟に至る日本海側の被害が激甚であった。飢餓地帯が現出した。私は昭

10年生まれであり、親の世代の苦労がしのばれる。

 「歴史は繰り返す」と言われるが、この著作を読んで昭和初期と現在では社会の

構造も違い貧困の質も異なるが、何か昭和初期と似ているように思われてならない。

いわゆるバブル崩壊と、最近のリーマンショック以来の不景気・失業の激増・農村

の崩壊(限界集落)・死者の年金をあてにする貧窮などの中での大震災である。

 原発事故も「貞観11(869) 津波」の考古学の成果を生かせぬことがこの結果

を増幅させたのではないかと言われている。歴史に学んで震災地の復興を、国全体

の復興に繋がるようにと願っている。             」終

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