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                             発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

  北羽歴史研究会 会報 NO.236 2011(H23)年9月1日

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■   9月16日 古文書学習会を開催します。  

 古文書例学習会 916日(13:1015:30於大舘市中央公民館

                     

 テーマ・・・正徳五年(1715)『常陸日記』を読む

         ―- 前小屋民部・平山半左衛門の足跡を辿る‐―

 

                     講 師・・・千葉 克一 氏  

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◆ 18日通例学習会終了。『秋田藩十二所所預茂木陪臣考』について。

高松氏からテーマ資料のほか、先祖調べ、十二所諸士等の資料6部ほどで説明あり

ました。武田氏からは成章書院沿革を始に『十二所郷事録』から支配下の十二所の

様子の主要点を資料A版9枚)により解説頂きました。苦労様、有難うございます。w

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◆  10月6日 実地研修会を実施します。

  106日、秋の実地研修会を開催します。参加ください。(通算第52回)

  テーマ・・三倉鼻の残照と豪族三浦氏の変遷をたずねる。

 出発、朝830分、大館市中央公民館より出発とします。(早め参集)

    長倉〜片山〜国道7号〜二ツ井〜自動車道〜琴丘森岳ic

 研修〜琴丘町資料館〜戊辰戦死田中多助墓〜織田信雄配留地〜三倉鼻〜、

    〜八郎潟町・浦城址(三浦氏居城跡) 〜

   昼食は〜ブルーメッセあきた(道の駅昭和)・・・食堂「花の大地」

 研修〜「三浦家住宅〈秋田市金足黒沢)国指定重要文化財に指定。

  永禄年間には浦城城主の三浦氏も、後裔は後に金足黒川に居住、藩政期には

  郷中肝煎を代々勤めた。その郷士の館、明治大正昭和の息も伝わる御屋敷〜

  以上・・ 終了予定:後3時〜以下帰路〜大館帰着5時前予定。

 ◎参加費2500円        (昼食は各自)

 ◎参加申込鷲谷へ0186―42―5656 註(三浦餡都合によりお早めに)

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11月予定は研究発表会又は学習会の予定となっております。小論、概論、

問題提起などで充分ですので会員各位の発表をご期待いたします。ご遠慮なく

会長までご内報を頂けると幸いです。 ◆ 註:10月の会報はお休みです。w 

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光圀◆(史話)   太田城跡・棚倉城跡・水戸藩      丸屋 悧

 

1、 太田城跡(常陸太田市中城町)

  常陸国佐竹氏の始まりは、八幡太郎義家の弟義光(新羅三郎)の孫昌義(マサヨシ)が

12世紀の初め、久慈郡佐竹郷(常陸太田市天神林)に土着し郷名の佐竹を名乗った

時からとされている。昌義は初め佐竹郷の馬坂に本拠を構えた。先日の研修ではここも

訪ねた。バスは急坂の上り口までで、その先は徒歩でたどり着いた。頂上に「馬坂城跡」

の高い台座つきの石碑と新しい案内版があった。

 昌義の子隆義の時、近くの太田城に移った。太田城はこの時から、義宣が水戸へ移る

まで約460年近くの間、常陸佐竹氏の本拠になった。太田小学校の校門を入ってすぐの

正面に「舞鶴城趾」の石碑がある。太田城は舞鶴城とも称した。

 天正19(1591)、義宣は水戸に移り、慶長7年(1602)徳川家康から国替えの命令をう

け、秋田へ移るまで約11年間水戸を本拠にしていたので、佐竹氏の常陸治世は470

に及ぶ。水戸徳川氏の常陸治世期間は、義宣が秋田へ移封されてから明治4年(1871

の廃藩置県まで約270年であり、圧倒的に佐竹氏の方が長い。大館佐竹氏の先住地常陸

大宮市はじめ、常陸の人たちは大館人に好意を寄せてくれる。ありがたいことである。

 

2、 棚倉城跡(福島県東白川郡棚倉町)

  棚倉藩は白河郡など陸奥国、常陸国多賀郡その他を領有した中藩である。戦国時代

 末期から常陸太田の佐竹氏の支配下にあった。ここの城は丹波長重が築城に着手し、

寛永4年(1627)に完成した。それ以後慶応4年(1868)戊辰戦争で落城するまでの240年間

に、8家16代も城主交代があった事でも知られる。

 「この城は、濠に住む大亀が水面に浮かぶと、決まって城主が転封されるということ

から、亀ケ城の別称をもつ」とも云われた。 にわかには信じがたい話だが、『茨城県の

歴史散歩』に載っている。それほど城主交代が多かったということらしい。どこかの国

の宰相のようである。江戸時代福島県は、会津藩を例外として数多くの中小大名が配置

されていて比較的転封が多かった。大藩が長期にわたって治世したわが秋田県とは事情

を異にしている。

 

3、 水戸藩(城跡は水戸市三ノ丸)

  日程的な制約で今回の研修地に入らなかったが、水戸藩も藩主交代はひんぱんであ

 った。佐竹義宣の転封後、最初に徳川家康の5男武田信吉が封じられたが翌年病死、同

年後任として封じられた10男頼将(ヨリマサ)も、和歌山藩主に転じ、11男頼房が水戸徳川

家の初代藩主となった。慶長7年から14年まで7年間に3回家康の実子が封じられたこ

とになる。2代藩主が有名な徳川光圀。常陸太田には光圀が隠居した「西山荘」がある。

現存の建物は文政2年(1819)に規模を縮小して再建されたものである。    」終

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