第三章 人形恋唄


「私、痩せたでしょう」
 出窓を飾る朱塗りの欄干に細すぎる肢体を預けて、千草は笑う。
「具合、悪いのかい」
 問いかける男の声はあくまで優しい。
 けれど、素直に答えられる問いでもない。
「卵を持ってきたんだ」
 男が紙包みを開くと、形はともかく粒揃いの大きさの十の卵が現れた。
「栄養をつけて。今度また薬を持ってくるよ」
 こんな場所でも、いやこんな場所だからこそ、届く噂がある。
 男の足が遠のくと、噂は教えていた。
「ありがとう」
 もうじき男はその腕に美しい花嫁を抱くと。
「このお内裏様。恭さまによく似てるわ」
 元よりそれは、こんな世界に身を落とした女には所詮果たせぬ夢だ。
 それに、もし叶うとしても。
 それまで貢ぎ物さえも遠慮がちに受け取ってきた御職が、初めてねだったのは、その客の素姓を知れば誰もが頷ける品だった。
「俺は人形のように綺麗な顔はしていないだろう」
「恭さまが知らないだけです。千草は、二枚目のお客を取ったとやっかまれたもの」
「今は?」
 二枚目と言われて嬉しくない男は自分の容貌によほど自信がないか、自信がありすぎて、ありきたりの褒め言葉を受け付けないか、性格が悪いか、少なくともどれかに当てはまる。
 男もその他大勢の例にもれず、目尻を下げて言葉を待った。
「もちろん今も」
「女雛は、千草に似てるかな」
 男は照れながら話題を変える。
「それは当代随一の人形師が作ったのだもの、誰が見ても千草とわかります」
「その当代随一の人形師も自分を象った人形を作るのはこれきりにしたいと音をあげたよ」
「わがままな、お願いをいたしました」
「わがままだなんて、思ってないよ」
「ほんとに」
「ああ」
 千草は窓辺から男に身をなげ、首にかじりつく。
 それを合図に、男が御職の帯を解く。
「病気持ちの女でも抱いてくれるのですか」
「千草の病はまだ軽い。そうだろう」
 顔を合わせ、慰めの言葉を吐きながらも、男は眉をしかめる。
 来る度に身を細らせていく様は、こうして抱くと身に染みて判る。けして気持のよい痩せ方じゃない。
 千草は柳のように細い腰が魅力の一つではあるが、これじゃいただけない。
 腕に感じる躰の重さが希薄になるのが、恋の終わりを表している気がしてならない。
 どうせ別れるにしても、それを理由にする気はないのに。
「恭さま」
 桜色に肌が上気してゆきながら、千草は男を呼ぶ。
「恭、さま」
 愛しい男の名を上がってゆく吐息の中で何度もくり返し唱えながら、千草は激しさを増す男の動きにその身を任せていった。
 その様を、永遠の伴侶であるはずの男雛と仲よく寄り添いながら処女の花嫁は見つめていた。
 それは、山辺恭一と千草御職の最後の逢瀬だった。


 その最中に夫が呼んだ名が、彼女を嫉妬に駆り立てた。
 人の口に戸は立てられない。
 十歳上の夫は父が見込んだ人形造りの腕を持っていて、顔立ちも、美人と評判の彼女と並んでも見劣りしないくらいにいい男だった。
 その夫に、自分との結婚前に熱をあげていた芸者がいたのは、いくら周囲のものが気を使っても知れるものだ。
 彼女はそんな噂話に動じなかった。
 少なくともそう人に悟られるのは恥だと知っていた。
 女遊びは男の甲斐性、それさえ知らぬような男は返って信用が置けないもの。
 近所の年寄りが言っているのも耳に届く。
 それに、三十過ぎの男が過去に何もなかったと信じるほど子供でもない。
 でもこんなのは。
 躰の熱が急に冷めるのを彼女は感じた。
 ふいに身を振りほどいた妻を、訝しげに夫が見つめる。
「由麗香?」
 正気に戻った夫はさすがに名前を呼び違えはしない。
「ごめんなさい。やっぱり今日は疲れているみたい」
 自分の台詞に疲れたように、由麗香は夫から目をそらし、背中を向けて目を閉じた。
 泣き出しそうになった自分に驚いて、下口唇を噛む。
 恭一は急な出来事に戸惑い、裸のままの妻の背に手を伸ばしかけて、その手を戻した。
 無理に抱いたつもりはない。むしろ、妻の方から求めた行為だった。
「悪かった」
 自分が何で謝っているのか判らずに、恭一は妻の背中に告げた。
「恭一さん」
 その背中が、自分の名を呼ぶ。
「私と、結婚して後悔してない」
 恭一は答えを間違えた。
 肯定すれば済むところをこう訊ねたのだ。
「どうして」
 その答えが返ってこない気づき、慌てて言ったところでもう遅い。
「もちろん、後悔なんかするはずはない」
 その夜、妻からの返事はもちろん、どんな言葉もありはしなかった。


 太陽が拗ねて雲間に姿を隠すと、肌寒さが増す。
 鈴は、立ち上がって障子戸をぱたりと閉ざした。
「人形を取り出しても構いませんか」
「元々お前が預かった品だ。私に聞かずともよい」
 一つ頷き、皓は手馴れた様子で桐箱に掛かる紐を解いて、箱の蓋を取る。
 柔らかな藁半紙の中に納められている雛人形は、惚れ惚れするほどの出来だ。
 銘がなくとも判るものには判る。
 自分で言うだけの自信があるわけだ、と皓は改めて感心した。
 人形の艶やかな髪に触れ、皓は鈴を見上げた。
 火鉢の具合を見ていた鈴の手がそれに気づいてはたと止まる。
「これ、人の髪ですね。千草御職の髪でしょうか」
(そう。これは私の髪。着物も、私の物)
 いらえは、童女の声だった。
 驚く様子もなく、皓は尋ねる。
「それはありがたい。僕なぞは御職に目通りも叶わなかったでしょうから」
(見たところ、どこぞの商家の奉公人か)
 皓が気に入ったのか、千草人形は皓の手のひらから少年を見上げた。
「骨董屋を商う祖父の手伝いをしております」
(そう。どこか、あの人に似ている。恭さまが初めて私を買った頃の)
 人形が誰かを探すように視線を巡らすのを、皓は宥めるようにそっと卓の上に置いた。
「今すぐに、恭さまを、出してあげましょう」
(そこの男と同じことを言う。あれは恭さまではない)
 千草人形が騒ぎ出すのにも構わず、皓は今一つの桐箱を開けた。
 そして、同じように藁半紙を取り除く際に、気がついた。
「鈴も気がつきましたか」
 鈴は障子戸を背に腰を落ち着けて、千草人形と皓のやり取りを聞き入っていた。
 皓の意を受け深く頷く。
「こちらは絹糸の髪、それに、多分千草が見たこともない反物で作った装束だろう。顔は紛れもなく高林を形どったものだろうが」
 己れを人形に仕立てるのに心理的な抵抗があったのか、千草人形の方がより本人に似ているようだ。
 二人とも生前の千草に逢っていないので確かなことはわからないが。
(恭さまに似てるけれど、恭さまじゃない。恭さまはここにいない)
 千草人形がくり返す。
 まるで繰り言を呟き続ける少女のように。
「恭さまには、ちゃんと遭わせてあげましょう。だから、もう泣かないで」
 作り物のはずの人形が涙を流すのを、不思議がりもせずに、皓は千草人形を宥めた。
(恭さまに逢いたい。恭さまに逢いたい)
「逢ってどうする」
「鈴」
「連れて行くか。それとも同じように、その人形に閉じ込めるか。千草を裏切った男だぞ」
(恭さまはあの女に言いくるめられているだけ。千草だけだ、と言ったのに)
「男の約束事など当てにならぬと、知らぬはずはなかろう。華やかな花柳界で、御職まで上り詰めようと、所詮は金で買われる女」
「鈴! 言い過ぎです」
(言うな。言うな)
 人形の白い顔が青ざめる。
 鈴の瞳に前日のような酷薄さはない。
 むしろ、哀れむかのように声色は優しい。
「千草は人形に隠れて、人が変わったな。誰もが口を揃え、慎ましい花魁だと誉めちぎっておったものを」
(誰のせいじゃ。恭さまさえ、通ってくれていれば)
 優しすぎる声で、鈴はこれでもかと千草人形を責め続ける。
「別れを告げたのはそなたの方だ。人形ならば、血を吐かぬと思って、高林に作らせたか。人である故、病になると、人形の綺麗な体を望んだのではないか。年も取らぬ、誰もが綺麗と褒め羨む、その美しさもそのまま、違うか」
 皓は人形の瞳が殺意を抱いて鈴を見つめるのを感じ、箱に戻そうと手を触れる。
 その間際、鈴がその手を払った。
「鈴?」
 鈴の指先が人形に触れるや否や、赤い血が噴き出した。
 鈴はその血から人形を庇うように、朱に染まった指先を、口許に持ってくる。
「鈴、もういいでしょう」
 自分の方が傷を負ったように青ざめて、皓が止めに入る。
 それに構わず鈴は言った。
「多くを望みすぎると、全てを失う。高林はもうお前のものではない。夜な夜な二人の睦言を聞かされ、狂うたか」
(言うな。言うな。言うな。恭さまは、そんな方ではない。逢えばわかる。逢えば)
 狂騒を繰り広げる千草人形を、恭さま人形が、何も言わずに見つめている。
 罪な人形師に似ているその面を曇らせているのは気のせいだろうか。
 黄泉へ行けずに浮世を彷徨う千草が宿る女雛が生きてるように号泣するのはともかく、普通の人形でしかない男雛が、悲しげに見えるはずはない。
 作り手の罪に殉ずるなどとは、思い過しだろう。
 内裏雛を置き去りして、鈴が立ち上がったので、皓は恐る恐る彼を見上げた。
「客が来たようだ。代書の客ならよいが」
 商売気などあったためしがない男の後に皓は慌てて続いた。
 その後を、女雛のすすり泣きが追いかけてきた。


「あら、いたの」
 鈴の言う通り、代書屋の店先には、昨日皓が噂話をねだった、芸者が来ていた。
「皓ちゃんも。まさか泊まった訳じゃないでしょうね」
「都合が悪いことでもあるかな」
「いい男二人が怪しい仲ならね。あら、その指どおしたのよ」
 目ざとく鈴の指の傷を見つけ、女は柳眉を逆立てる。
「粗相をして、茶碗を割った。大した怪我ではない」
 わざと茶碗を壊すことはあっても、そんな失敗をしそうにない男の言葉は信憑性に欠けるが、真実を告げるよりは、まだましだろう。
「なら安心しとくわ。ほんと、旦那の血が赤いとわかったしね」
 それは、鈴を知るものなら誰もが一度は浮かべる疑問だ。
 この男、本当に赤い血の通った人間なのか。
 切って青い血が出てきても、それを納得できそうな気がするのだ。
 皓が芸者の台詞にほっとしたように笑い、言葉を紡ぐ。
「何かわかりましたか」
 鈴が指の傷の浅さを証明するような優雅な仕草で、香りの高いほうじ茶を淹れてくれた。その湯飲みを少し荒れた手でつかみ、女は一口すする。
「皓ちゃんには悪いけど、人形の行方はわかんないわ。人形をこしらえたのは、馴染の客だった高林。といっても通っていた時は、旧姓の山辺を名乗っていたようだね。山辺恭一って。高林の先代に腕を見込まれて、婿に上がるのと、千草御職が血を吐いてあの世にいっちまったのが、ほとんど同じ。そう評判の悪い男ではないようだけど。別れたのだって、自分が長くないと思った御職の方からだって聞くよ。随分、熱をあげていたようだよ。御職も、それに男もね。いくら腕のいい人形師だって、御職の花代を稼ぐのやっとで、身請けなんてとてもとても。それなのに、薬だ卵だって大分貢いだようだし。人形だって、自腹切って作ったんだろうさ」
「そんな男が素直に別れに応じましたね」
 皓の疑問は素直なものだ。
「下手すりゃ病が移るとわかって、愛しい男を抱く女もいない。それに、男にだって野心はある。先代の高林と言えば、誰でも知ってる名工だからね。結局は潮時だったんだろう。それがわかる時ってあるんだよ」
「納得ずくの別れだったと」
 天星堂に尋ねてきた高林を思い浮かべ、皓は複雑な声を出す。
「拍子抜けしたかい?」
「僕は別に、近松のような話を期待したんじゃないですから」
「そういえば、高林に文楽人形を作る話があるって聞いたけど」
「先代の?」
「だろうけど。跡取りも手伝うんじゃないの」
 皓は考え深げに言った。
「人形を御職が誰かにあげたなんて話は」
 人形のありかはともかく、高林夫人が話さなかった経緯を、知りたかった。
「売ったとか盗まれたって話がないから、あたしも考えたんだけど、死ぬ間際まではあったって。でも一緒に埋めたって話もなかったねえ」
「そう」  皓が考えに沈み込んだので、芸者が身を乗り出して訊いた。
「少しは皓ちゃんの役に立ったかしら」
「ええ、とっても」
 それから、思い出したように内懐から女物の櫛を取り出した。
「安物で悪いけど、物はそう悪くありません。こんなのでお礼になるかな」
 鈴がからかうような視線を投げるのにも気づかず、皓の口調はあくまで真面目だ。
「あら、悪いわね」
 けろっとして女は櫛を手に取り、髪に差して無邪気に似合うかと訊いた。
「気に入ってくれて良かった」
 それなりに真剣に選んだのだろう。皓がほっとした笑顔になる。
「さっそくお座敷にしてゆくわ。あの時計、合ってたのよね」
 店の奥の壁に売り物の舶来品の大時計がある。
 それを見て、芸者が聞く。
「合ってるはずだが」
「じゃあ、また来るわ。旦那、いっつも思うんだけど、こんだけお茶淹れるの美味ければいっそ、茶店でも開いた方が儲かるんじゃないかねえ。まあ、うちらとしても代書は続けて欲しいけどさ」
 田上鈴に向かってこれだけずけずけ物を言えるのも、この女の良いところだろう。
 芸者を店の外まで送りながら皓は思った。
 でも鈴が店では余り酷薄さを見せないためだろうと思う。
 再び、店に入ろうとして、皓は空気中に壁のような物があるのに気がついた。
 それは、皓に対しては害を及ぼすものではない。
「結界を張っているのですか」
 鈴は皓の質問を聞いて、驚いた顔で顧みた。
「わかるのか。何故だ?」
「何故って聞かれても。僕は当てずっぽうです。そういう知識があるだけだから」
 鈴はそれ以上問わずに、座敷へと戻った。
 人形は皓が置いたままで、卓上に置かれていた。
「結界を張ったのに、不甲斐ない」
 鈴の後についてきた皓がそれを聞いて重い溜息をつく。
「結界を張ってまで千草人形を挑発して、どうするつもりです」
「駄々をこねている程度の想いなら、大したことじゃない。結界を破ってまでも、男の元に走るなら、手を貸さぬでもなかったのだが」
 皓は淡い微笑みを零す。
 黒曜石に譬えられる黒の瞳が不思議な色彩に光る。
 千草人形は疲れたのか、何も話さない。
 気配も消えている。
「ほんと、田上鈴って面白い人ですね」
「面白い?」
 鈴が複雑な口調で聞き返す。
 皓は穏やかな表情で頷いた。
 前髪が額に掛かるのを手櫛でよける、その白い指を鈴が見つめてる。
「意外に子供っぽいというのか。正義感が強いというのか」
 鈴は淡い笑みに苦味を少しだけ加えた。
「耳馴れぬ言葉で形容されても、答えようがないな」
「それに真面目だし」
「初耳だな」
 時間なら湯水の如く使える。懸命に事に当たる必要など鈴にはない。
 ないのだが。
「それに、一生懸命ですね」
 皓は何気ない口調で止めを刺す。
 ついに鈴は憮然と黙りこくった。
「僕は子供だから、みんながそれぞれ言い分があるように思えて、正直どういう結末が善いのかわからないんです」
 皓の声はがらんとした部屋に真剣に響いた。六畳間の和室である。
 庭に面した障子戸から出入りするようになっている。
 日当たりのよい南向きで、畳も新しい。
 部屋の中央に四人がけくらいの大きさの座卓がある。
 掛け軸は艶やかな美人画。伊万里の花器には桃の花が生けてある。
 襖で仕切られているが、奥にも続き間があるのだろう。
「僕に出来るのは、何だろう」
「誰にも肩入れするな」
 鈴がぽつりと言った。まるで少年の真摯さに打たれたかのように。
「鈴はどういう結末を望みますか」
「結末は当事者が決めるもの。納得しようとしまいと」
「人形を気に入ったのでは」
 人形らしく、静かに佇んで微動だにせぬ、その白い面を目の端に止めながら、皓は鈴をじっと見る。
「今の千草はただの子供だ。ものをねだるただの童。死んでまで残る想いを、哀れと思うが。けれど、もう」
 それ以上言葉にせず鈴は口を閉ざす。
「僕は、千草を高林氏に逢わせてあげたい」
「そうだな」
 鈴は淡い微笑みを零した。
 それが鈴の優しさの一端を表してるように思え、皓は嬉しかった。
 けれど、訊いたのは別なこと。それはもしかしたら、一番の心配事かもしれない。
「千草が本気で怒ったら、この屋敷が壊れますか」
「騒霊でも起こせば、蔵の茶碗などが心配だが。そんなことになっても、お前だけは無事に帰してやろう」
 冗談めかしてからかう美青年に、皓は同じように笑ってみせる。
「魔物退治の読み物は好きだけど。騒霊って」
「霊が地震のごとく辺りの物を揺らす。酷くなれば、手も触れぬのに、そこらの皿が顔を目掛けて飛んできたりする」
「そんな力が人形に」
 皓は驚いて、鈴の黒い瞳を見つめた。
「主に外国(とつくに)の霊に多いそうだから心配はいらぬだろうが。千草が本気で癇癪を起こさぬのを願うのみだな。皓も、退魔法の手ほどきぐらいは受けたことがないか」
 鈴の声も次第に真剣味を帯びてくる。
「先祖が道場を開いていたとかで、祖父から剣術の手ほどきは少し。後は、うちに流れついた霊に少し習いましたが」
「ならば北海のお宮に行って、護符を書いてもらうといい。三人分な」
「鈴は書けないんですか」
「私にそんなものは必要ないのでね」
 愚問だったと気がついたが、鈴は気にした風もなく、内裏雛を桐箱にしまいだした。
 その指先に目をやり、皓は気にかかっていたことを思い出した。
 余りにも平然としていたが、彼は確か。
「傷は大丈夫ですか」
「千草は血で汚れてはいないよ」
「そうじゃなくて」
 思えば田上鈴を傷つけた人形なのだ。生身の人間にその悪気が向けられたら。
 そう考えて、皓は背筋に寒気を感じた。
「あれは所詮、子供だましの手妻に過ぎぬ。人形の悪気がなくなれば跡形もなく消える」
 鈴の言葉が半分嘘だと、皓は気づかずに済んだ。
 普通に切った傷なら、短時間で綺麗に治れば訝しく思うのだろうが、そもそも普通の怪我ではない。
 鈴の白すぎる指先は傷一つなかった。
 だから、皓はそれ以上、その件を追求できなかった。