第四章 お宮参り
「これは、天星堂の若旦那」
仕事はわりにまめにするのだが、派手な顔つきが祟るのか、遊び人との評判も高い神主は、からかうように皓に呼びかけた。
ここ北海神宮は、この都で一番の格式と伝統を持った神社である。
その神事を司る祭祀が、これまたこの近辺で一番の女好きと名が高いのも、どういう訳か、古くからの伝統だ。
よくまあお宮自体が寂れぬものだと人々は噂するのだが、格式ばって威張り散らす神主より、親しみが持てるのが第一の勝因だろう。
庶民の氏神様であり続ける、それがこのお宮の存在意義だ、と神沢は笑う。
困った時の神頼みでも、何か心の支えが必要な時、ここに来て安らげれば良い。
それが、神沢雅幸の言い分である。
「僕はただの手伝い。それに老舗とは言え、若旦那なんて言われるほど、羽振りの良い店じゃないのは、神主殿もご存じでしょう」
神沢雅幸は皓の言葉に苦笑いした。
「所詮、根は古道具屋と一緒、そう言いたいんだろうが。物が良ければ、茶碗一個がとても我々庶民じゃ手の付けられないようなとんでもない値が付く。こないだ用立ててもらった茶道具も、良い値だったし」
「神沢様は見る目がおありだから、そこらの茶碗じゃ納得しないでしょう。けどお得意様だから、相場より大分勉強させてもらいましたよ」
商売人の口調で答える骨董屋の孫息子に雅幸は苦笑した。
「全く、皓はいい跡取りだよ。ところで今日は。また悪い物でも仕入れたかい」
「まあ、そんなものです。護符を三枚作ってもらえませんか」
「皓は天野の直系だから、そう悪いものが寄ってくるはずないのに」
神主の瞳が訝しげに光った。
この神主は色男の優男ではない。一見そう見えるが、実はとんでもないのだ。
その昔、夜半、お百度を踏んでいる若い娘を不埒者が襲うという痛ましい事件が、この都一のお宮の境内で起こったことがある。
その時、たまたま一杯気分で帰路についていた神主が、素手でそれらの不埒者共をのした、という伝説が誠しやかに囁かれている。
娘の奥ゆかしさと、とんでもない相手と自らの痛みにより知らされた野郎共が悔しさに口をつぐんだのと、カッコつけの神主が口を濁したのと、三拍子揃ったせいで、巷に起こった噂なのだが、それが事実と知っている皓が、苦手とする類いの光り方だ。
「お客様が悪いものをお持ちなんですよ。でも故あって手放せない。それで相談を受けて、とりあえず護符を」
人形の件は祖父に隠してはいないが、話してもいない。
それに高村に余計な気を回されるのも面倒である。
この神主は、人間的には信用できる。
内密の話をけして人に口外することはない。しかしながら、悪い気がついた物については商売柄かどうか、目がないというか、それにまつわる事件を聞きつけると、首を突っ込んでくる良くない性格の持ち主でもある。
案の定、興味深そうにこう訊いてきた。
「護符ならいくらでも書いてやるが、その客っていうのを、教えちゃくれないだろうね」
「僕は、どうせなら口の固い、よい商人になりたいんですよ」
「昔は可愛い子だったのに。そういや、ここしばらく、えらく綺麗な代書屋とつるんでるって聞いたけど」
皓は苦虫を噛み締めて神主を睨んだ。
「お祖父様ですか? そんなこと耳に入れたの。……そう言えば、神沢様にどこか似た雰囲気ありますよ。こういうと気を悪くされるでしょうけど、神沢様より綺麗な方ですし」
「そいつは聞き捨てならないな」
役者にしたいほどいい男の神主と、特に女に人気の高い男が、真顔でそう答える。
「まさか、その護符っていうのも、その男が一枚噛んでるんじゃ」
「その護符ですが、いつ書いてもらえます」
――皓の声が冷たく響いた。
☆
人形屋の店先には、立派な御殿飾りの雛段が、所狭しと並べられていた。
その半数ほどに売約済みの赤い札が付けられている。
弥生の声を聞いて桃の節句までもう三日だ。
皓の顔を見つけて、夫人が少し驚いた顔をする。
彼女は店の人間の顔を伺うように皓を奥に通した。
「内裏雛はあの代書屋に預かってもらっています。万が一があっても困りますので、御主人が来られるまでの約束で。それで、奥様にもその場に立ち合っていただきたくて」
由麗香は、恐ろしそうに身を竦ませた。
「やはり、あれは良くないものと、そう思われていますね。僕は御主人から、あの雛人形について多少の経緯は伺っております。奥様があの人形を同じ家の中に置いておきたくなかった気持ちもわかるつもりです。自分が酷なことを言っているのも」
「そうでしたか」
由麗香はほっとしたように溜息をついた。
「人形が暴れましたか?」
「夢を見るのです。あの花魁が、血を吐いて苦しそうにしている夢を。口や胸元を血で朱に染めながら、恨みまがしい目で私を見る夢を。動いたりはしませんが、人形の髪があの人の髪と知って」
心底怖そうに由麗香は答える。
「人毛が使われている人形は珍しくもないでしょうに」
皓は気を休ませるために言ったが、女というのは思いこみが激しい生き物だ。
「失礼ですが、御主人は先代が見込んだ入り婿。親の決めた縁談に抵抗は?」
「近頃は、自由奔放な女性も巷に増えてはおりますが、私は父に従うのが良いことだと信じて参りました。それに、恭一さんは良い方です。三十過ぎの男に色恋の一つもなかったと思う方が、間違いでございましょう?」
「御主人がお好きですか」
「ええ」
夫人の返事に揺らぎはなかった。
「昔のことは存じません。でも夫は、今は私を慕ってくれていると信じています」
皓は安心したように笑った。
「僕も出来れば波風を立てたくはないのです。でも、女雛に千草御職の霊が憑いているのは、奥様がお感じになった通り本当です。千草の言い分も聞いてみたいと思いませんか。物陰からでよろしいですから。北海のお宮で書いてもらった護符も用意しておりますし、僕が責任をもって、奥様を御守りしますよ」
「主人が、千草御職に取り殺されたりは?」
自分の身よりも夫の身を案じる気持ちは皓にもわかる。
だからこそ同意するわけにはいかない。
「御主人が千草御職に取り殺されるほど、酷い仕打ちをしたとも思えませんけれど。それに御主人にも護符を用意しましたし」
「牡丹灯籠の例がありますわ」
由麗香はそう食い下がった。
「あれは、古い中国の説話の一つが日本に伝わったもの。それにあの話でも護符を外さなければ無事だったでしょう。御主人は、人形を焼くつもりで探していましたし、いざとなれば焼きましょう。火は全てを浄化します」
「わかりました」
高林夫人は深々と頭を下げた。
「御主人には奥様が来ていると知らせずにお呼びします。そろそろ、店に訪ねて来られる頃ですしね」
皓は静かに微笑みを落とした。
☆
皓が店に戻ると、一足先に来ていた高林恭一が所在なげに、売り物の内裏雛を見ていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「気にしないでいい。それでどうなりました」
「お探しの品は見つかりました。後は御確認くだされば」
「どこだ」
気をせいたように、詰め寄る男を皓は微笑み一つで落ち着かせた。
「代書屋に持ちこまれたのを譲ってもらう話はついていますが、万が一を考え、そこに預かってもらっているんです」
「代書屋? 千草は字を書けたが」
高位の花魁でも、貧しい家に生まれていれば、学校に通っていない者も多い。
だからこそ代書などという商売も成り立つ。
「詳しいお話はそこで。代書屋の都合で明日の昼過ぎじゃないとお渡し出来なくて。申し訳ありません」
「そうか」
恭一は吐息とともに返事を落とした。
「明日、昼前に北海のお宮までおいでいただければ、そこから御案内いたします」
「場所を教えてくれれば、俺が直接出向くが」
皓に負担を掛けられないという思いか、それともこれ以上関わるなという警告か。
いずれにしても、皓の腹は決まっている。
「それが、少々気難しい代書屋で、僕も一緒じゃないと」
「金か?」
皓は首を横に振った。
そもそもあの代書屋は、金で動く人間ではない。そう言った俗世のしがらみからは完璧に逸脱した存在だ。
「御逢いになればわかります。特に人形師の方なら」
謎をかけるように皓は笑う。
「時に失礼ですが」
皓は笑いを納めて恭一の目を見た。
「奥様がお好きですか?」
唐突な質問に、恭一は一瞬表情を失くした。
「俺は自分の将来の為に、高林の婿に入り、千草を捨てた。そう言ったはずだが」
「この間の襟巻き、奥様のお手製だとお見受けしましたが」
「……。由麗香はいいかみさんだと思ってる」
恭一は照れたように、外套の襟を立てると、店の戸口へと向かった。
「明日の昼前、北海神宮の鳥居の辺りでうろついてるよ」
高林恭一はそう言い残し、天星堂を後にした。
皓は自分の分の護符を支那服の袖口から取り出し、じっと見つめた。
「血の雨が降らなきゃいいけど」
皓が呟いた時、春雨が降り始めた。
☆
「何か顔色がすぐれないなあ。心配事か」
勝手に淹れろとばかりに急須他一式を丸盆に乗せ、皓の傍に置きながら神沢雅幸が、その顔を覗き込むようにこちらに向けた。
約束の刻限までは小半時ほど間がある。
「まあ」
顔色を読まれた以上、下手な隠し立てはするだけ無駄だ。
「僕に悪い卦なんか出てますか?」
「何だ。これから修羅場にでも行くのか」
これだから、この人は。
微かに息を落として、皓は火鉢の上の、鉄瓶に手を伸ばす。
皓と目を合わせ、神沢はあたりの気配を探るように静かに目を閉じた。
江戸初期の頃に、このお宮には優秀な巫女様がいらした、そう伝えられている。
神沢雅幸はその巫女様の直系に当たるとも聞く。
「そう悪い卦は出ていないが、結局は人の気の持ち方次第だからな。今日のお前さんみたいに沈んでいちゃ、良い卦も悪い方へ傾く」
頼まれて人の運勢を占うこともあるが、辻占なんか足元に及ばぬほどの確率で当たる。
これは皓が知る事実だ。
生来神主の資質として、かなり優秀なものを授かっているようだ。
だから、皓も時折こうして遊びにきては、茶飲み話の中で占ってもらったりしている。
「おまじない、してほしいな」
「護符作ってやっただけじゃ、不安か。いったい、どんな奴と対決するつもりだ」
雅幸の質問は尤もであるが、答えるわけにはいかない。
「僕は、ただの骨董屋の手伝い。陰陽師じゃあるまいし、対決なんてしませんよ」
「まあいいが」
神沢は、男にしては細く思える指先を皓の額にあて、祝詞を唱える。
辺りの空気が澄んでゆくのが皓には心地好く感じられた。