第一章 出発
それがPHSの着メロだと少女が気づいたのは、[ピアノ・ブルー]が三度目のリピートに入った時だった。発信者によって異なるメロディが設定されている。この曲は《彼》からの電話の合図だった。
「おはよう。十分だけ待ってやる。着替えてすぐ下に降りてこい」
それが癖のぶっきらぼうな言い方。だけどけして怒っているわけではないのは、少女も承知だ。
「出来るだけ、汚れてもいい格好しろよ」
「匠君。どこに行くの?」
その問いに、西野匠はある地方都市の名前を告げた。
少女の目が完全に覚めたのは、その瞬間だった。
「わかった。今行くから待ってて」
ジーンズにチェックのカッターシャツ。それにヨットパーカー。
カーテンを開けたら、外は薄曇りで、今にも泣き出しそうな空。けれど地面は乾いていた。
歯を磨いて、顔を洗い、財布とシステム手帳とハンカチとポケットテッシュくらいしか入ってないリュックを背負って、PHSのストラップを首から掛けて。
部屋を飛び出しかけた少女ははっとして、机まで舞い戻る。
「カメラ、カメラ、カメラ」
お年玉で買ったオートフォーカスのカメラを机の本棚の上から降ろして、ストラップを左手首にかけ、さらに鷲掴みにする。
これで出発準備は完了だ。
「どこ行くんだよ」
母は取材旅行とかで留守をしている。父親は海外赴任だ。
現在家にいる唯一の肉親である弟が玄関先で声をかけた。日曜日の七時前からばたばた起き出した姉を、恐ろしく不機嫌な顔で睨つけている。
「お土産にメロンゼリー買ってきてあげるからね」
にっこり笑うと、北原莉奈は自宅の玄関から飛び出した。
エレベーター前で、早起きの執事が恭しく一礼する。とっくに、配下の者を莉奈のガードに配置済みなのだろう。こうでなければ、ブラック・アイズの長は勤まらない。
「莉奈お嬢さま、おはようございます」
「匠君と夕張に行ってくるね」
一緒に乗り込み一階のボタンを押す坂田に、莉奈は満面の笑顔で告げた。
坂田も笑顔で返す。
「さようでございますか。お気をつけて」
大事なお嬢さまを西野匠の車の助手席に乗せ、ドアを閉めた坂田に見送られて、莉奈は一路夕張に向かった。
☆
「忙しいんじゃなかったの?」
運転席でいつものように無口を決め込む男の横顔を見つめながら、莉奈は尋ねた。
「ああ」
一言だけの返事に軽くため息をつくと、少女はフロントガラスに視線を移した。
車は北の方向へ札幌脱出を計っている。
見慣れた景色が、背後へと飛びさって行った。
「彬が気にしていたわ。予定にない行動だったから」
莉奈はひどく不機嫌だった弟の顔を思い出して言った。
それには答えず、匠は信号待ちで止まると後部座席に手を伸ばし革ジャンを取って、無造作に莉奈の膝に放った。
「夕張についたら起こしてやるから、寝てろ」
二人はアイドル歌手とその付き人という関係だ。
仕事柄、早起きには慣れている匠と違い、アイドル歌手である前に学生の莉奈には、平日はともかく、休日に午前七時に起きている自体が結構大変なことだ。
好意をありがたく受け取って、莉奈は毛布代わりの革ジャンをかけて、まぶたを閉じた。いずれにせよ、運転を代われないのだから、現地に着くまで寝ているのが正解だろう。
「前から訊こうと思っていたんだけれど、どうして匠君、こうして私の側にいてくれるの? パパに頼まれたから?」
答えが返るはずもない問いを、目を閉じたまま莉奈は口に乗せてみる。
莉奈の父親が依頼しなければ、この男がこうして身近にいるはずはないのだが、何故かそれを誰にも確かめられずにいる。
「いいから、寝ろ」
乱暴な言葉とは裏腹に優しく髪を撫ぜられる。
少なくとも嫌われてはいないらしい。
それが仕事絡みの単なる気づかいだとしても、莉奈には嬉しかった。
多分、匠は気がついてもいないだろう。
これから夕張で会う人間よりも、こうして彼と過ごせる時間の方が嬉しいと少女が感じているなどとは。
☆
ラジオからは英語と日本語混じりの不思議なプログラムが流れている。
言いつけ通りに眠ってしまった少女に苦笑いしながら、匠はアクセルをふかす。
このまま人気のない道を選び、車を停めて悪い遊びをすることなら可能だろう。
莉奈を命がけでガードしているブラック・アイズの目を掠めて、彼らが追いつくまでに、少女の着衣を取り去るくらいならなんとかなるだろう。
もっとも、そんな卑怯な真似をする気など毛頭ない。それに匠だってまだ命は惜しい。
ただ余りにも無防備な寝顔に、ふとそんな想像が頭を掠めた。
莉奈が尋ねた通り、本来は北原傘下の葬儀社の正社員である匠は、社長命令で令嬢のガードをしている。天下の北原敬一がどんな意図を持って、愛娘に自分に預けたのかは、正直未だにわからない。
手を出してもいいのかと真顔で問いかけたら、北原の返事は『君達を信頼しているよ』だった。
――匠の普段の所業を知っているはずなのに。
どうしていまだに手を出せずにこうして側にいるのだろう。
赤信号で車を停め、毛布代わりの自分の革ジャンを掛け直してやりながら、匠は明確な答えなどでるはずもない問いを頭に浮かべた。
莉奈が思った以上にいい子だったのは、確かに理由の一つになるだろう。
十以上の年齢差など、匠にとっては問題にすらならない。現在進行形で莉奈と同じ年頃の少女達と、高額紙幣を間に挟んだ恋愛ゴッコをしているのだ。相手が同意した以上、匠に倫理観などありはしない。
もちろん莉奈がそういう人間ではないのは、見た瞬間にわかった。流石に深窓の御令嬢。今時珍しい純粋培養のお嬢さまなのだ。
その上、それ以上の何かが匠の悪心を押さえていた。
まとっている清純な気配。本物の天使には不埒な思いで近づけはしない。
もっとも莉奈に手を出せない本当の理由を、匠が気がつくのはまだ先だ。
信号が変わり、先行車が動き出す。前方に見えてきた青いパネルで行き先までの距離数を確認すると、匠はアクセルを踏み込んだ。
行く手の空は重い鉛色。
雨になるかもしれない。
バックミラーで車内を見回した匠は、軽くため息をついた。
あると思っていた置き傘はどうやら家らしい。現地に着いたら雨傘を買わなければと匠は思った。
☆
人気急上昇中の地方タレントの登場のせいか、参加ミュージシャンのせいなのか。まだ九時前で、その上今にも降りだしそうな空模様なのに、レジャーランドの駐車場は三分の一ほど埋まっていた。
無防備に熟睡している少女を揺り起こすと、匠は車のエンジンを切った。
「もう、着いたの?」
莉奈は眠い目をこすりながら身を起こした。
フロントガラス越しに見える空はどんよりと曇っているが、まだ泣き出してはいない。
「今、何時?」
訊きながら莉奈は匠の左腕を取る。咎める視線をものともせず、父と同じモデルのロレックスの文字盤を読み取った。右下が直角になる寸前。
「もう、ここ開いてるの?」
匠は顎で駐車場を指す。
車の数に莉奈は軽く息を呑んだ。
「みんな早いね」
苦笑ともつかない笑みを零し、莉奈は革ジャンを無造作に畳む。
「これ、置いてく……わけないよね」
「いいからさっさと降りろ」
馴れたとはいえ、こうまでつっけんどんだとさすがに傷つく。
莉奈は無言で車から降りると、そのまま振り返らずにゲートへと足を向ける。
落ち着き払った足音が後からついてきた。
ゲートの前で莉奈が歩みを止めると、背後からすっと手が伸びた。
いつの間に用意していたのか、二枚分の前売券が受付嬢に渡される。半券と一緒に渡されたリーフレットを手に、匠はさっさと莉奈の先に歩き出した。
野外ステージのゲート前では、気の早いファンが二十名ほど列をなして作って座り込んでいた。ゲートには内側から錠が掛けられている。
「どうしようか」
莉奈は匠の顔を見上げて、瞳を覗き込むように訊いた。
ファン同士の会話に小耳を挟むと、どうやら野外ステージに入るには、もう一時間ほど待たなければならないようだ。
「お腹空いたな」
莉奈の呟きに、匠は急に踵を返した。
「匠君、どこ行くの?」
「メシ食うんだろう」
「あ、うん」
いつもながら唐突な行動だ。
苦笑いしながら、莉奈は慌てて後を追った。
正面ゲートから野外ステージに通じる道の途中に、セルフサービスの屋台があった。莉奈が天ぷらうどんを頼むと、匠は天ぷらそばと一緒に注文し二人分の代金を支払った。
「たまには奢るよ」
出した財布をリュックにしまわずに、莉奈は言った。
今日は仕事がオフだから、匠を莉奈のわがままに付き合わせてるのだ。
このイベントが決まって以来、莉奈は事あるごとに行きたいと口に出していた。ところが頼りになるはずの仲間は、札幌市内のイベントならいざ知らず、こんなところまで時間と交通費をかけて付き合ってはくれなかった。普通の中学生にはかかる出費が大きすぎたのだ。とはいえブラック・アイズに同行をせがむほど、莉奈はわがままではない。もっともボディーガードを職務としてはいても、莉奈が一言告げれば、喜び勇んで令嬢とのデートを承諾する輩ばかりなのだが。
それに何より莉奈は、匠と一緒に来たかったのだ。
だけどいつものごとく、匠は肯定の返事はもちろん、まるで風の音のように莉奈のおねだりを交わしていたから、そもそも気に留めているとも考えていなかったのだ。
「ガキが生意気言わなくていい。事務所から給料出たら、嫌でも奢らせる」
匠は無口ではあるが、けして長い台詞を吐けないわけではない。けれど、手振りとかじゃなく答えてもらえると、それなりに莉奈は嬉しかった。
莉奈がにこにこしていると、手にした番号札を呼ばれた。
お前が行けと目で訴える匠に頷き、素早く立ち上がる。
いつものことながら、素直な反応に匠は改めて感心した。
北原社長から娘のお守りをしてくれと依頼を受けた時は、どんな我儘娘に付き合わされるのかと正直うんざりしたものだが、莉奈はマンガに出てくるような大金持ちの令嬢とは全く違っていた。
それこそ、送迎用の黒塗の車が標準装備されているようなお嬢さまだったにも関わらず、意外に自分のことは自分でするし、人の世話もそれなりに焼けたのだ。
「あ、水もいるかな」
丼二つに割箸を二膳添えて、重そうに持ってきた莉奈がそう訊いた。
「いや、いい」
丁寧に手を合わせていただきますをしてから箸を割る。そういったお行儀のよさが不自然に見えない。
そんなことをせずに先に箸を付けた匠の視線に気がついて、莉奈はにこっと笑う。それからおもむろに食べ始めた。
食事を終えた二人が野外ステージ前に戻ると、先ほどより若干増えてはいたが、それでも三十名に満たない数の待人がたむろしていた。
歩道の敷石を椅子にして、迷いもなく座り込む莉奈に驚きながらも、匠はその隣に腰を降ろし、革ジャンのポケットからタバコを取り出した。
銀のジッポで火をつけた時、サングラスに咥えタバコという匠と似たようなスタイルの男が野外ステージのゲートを出てきた。その正体に気がついた一部のファンが騒めきだすが、遠巻きに見つめるだけだ。
「あれって、ミスター?」
「え……、似てるけどまさか」
その声が耳に入った莉奈は、噂の的を探して周囲に目を向けた。
すると匠が不意に立ち上がった。莉奈も反射的に立ち上がりかけた。
「匠君?」
「そこにいろ」
莉奈が頷くのも確認せずに、ファンの視線も物ともせずに銀色のワゴン車に歩み寄る男に、匠は近づいた。
莉奈が驚いているのに気がついていないのか、それとも全く意に介していないのか。匠はワゴンから何かを取ってきた男に声をかける。
ファンの騒めきが一段と大きくなるが、だからと言って近づくものもいない。それを気にする様子もなく、二人は二言三言話をした。
何度か頷いた男は莉奈の視線に気がついたのか、にこやかに笑みを返した。
それから男は匠に向き直り大きく頭を下げると、ゲートへと戻っていった。
匠は何が何だかわからない莉奈の元へ帰ってきた。
「匠君、ミスターと知り合いだったの?」
「いや」
「そうは見えなかったけど、だって彼、安井さんの友達でしょう?」
確かにミスターこと、鈴川崇明は安井の所属事務所の社長だ。鈴川自身もタレント活動をしていて、今回のライブの司会進行を勤めることになっている。そして安井顕は匠の学生時代の友人だ。
「あとでわかるさ」
そういうと、匠は珍しく笑みを零した。