第二章 後塵


 涼やかなドアベルに、にこやかな笑みを投げかけようとした白髪のマスターの表情が一瞬止まった。
 怒りを全身で表した細身の少年が、自転車の鍵を片手に店に飛び込んできた。
「今日、オフだったろう」
 そろそろあちこちにガタが来始めた、白木造りの喫茶店のカウンターに立ったマスターは、平然と答えた。
「莉奈ならオフのはずだよ、彬」
「なら、何であいつと七時前に出かけなきゃなんないんだ」
「デートだろう」
 事もなげにマスターは言うと、グラスに氷水を入れて少年の手近な場所に置いた。
 カウンターに置かれた氷水入りのグラスを一気に煽ると、北原彬はストゥールに腰を降ろした。
「トーストでいいか。どうせ、朝なんか食べていないだろう」
 この店の開店時間は十時だ。
 店の二階にマスターの自宅はあるが、そこに電話を寄越すでもなく、押しかけるでもなく開店時間まで待つ当たり、騒いでも仕方がないと彬自身どこかで思っているのだろう。
 ここに飛び込んできたのは、ほとんど八つ当たりに近い。
 中学一年の彬は、簡単な料理くらいなら出来るが、そんな気分じゃなかったのは一目見れば分かる。
 執事に頼めば朝食を作ってくれるが、それもしなかったらしい。もっとも、忠実な執事は、おぼちゃまの身を案じて、彬が家を飛び出すと同時に、ここに電話を寄越して来た。
「お前ねえ、中学に入ってまで姉貴の尻追っかけてどうする」
「放っとけるかよ。あんな見るからに如何わしい男にふらふら付いてくような奴」
「本当に危険なら、ブラック・アイズが黙ってないだろう」
 マスターが冷静に指摘する。
「十五になった娘に、彼氏の一人や二人いたっておかしくないだろう」
 理屈では彬もわかってはいるのだ。ただ感情が追いつかないだけで。
 父親は常時海外、母親は自宅にいるにいるが小説家で、仕事が忙しいと子供のことなど放りっぱなしだ。それでもブラック・アイズなるボディガード件執事の集団がいたから安心して放置しているだけで、けして子供に愛情がないわけじゃない。
 その証拠に執事がいる家に生まれたわりに、母親の手料理で二人とも育っている。
 とはいえ、両親が身近にいない分、姉弟の結束が固まったのは否めない。
 小さい頃から彬は二つしか違わない姉に懐いていて、小学校に上がる頃には、姉のボディガードを買って出るようになっていた。
 しかしながら、小学生くらいだとまだ微笑ましいで済むが、中学に入ってまで姉にべったりだとそうも言っていられなくなる。
 存外、北原敬一が大事な愛娘のためにわざわざ、マスターから見ても胡散臭い男を付き人に雇ったのは、いつまでも姉離れ出来ない息子の将来を案じたせいかもしれない。
 無論、そんな大人の事情など子供たちは知らない。あるいは薄々気が付いているが、知らぬ存ぜぬ通しているのか。
 それにしても。
 手慣れた仕草で厚焼パンをトーストしながら、マスターは心中ため息をついた。
 北原彬という少年は、アイドル歌手の姉よりも余程顔立ちが整っている。小学校の頃から、王子様みたいだと、クリスマス・バレンタイン・誕生日はおろか、ことあるごとにプレゼントを集めた美貌の持ち主だ。
 冷たそうな外見のわりに、猫被りのせいで人当たりは悪くない。多少痩せ気味ではあるが均整の取れた体つきに、常にトップの成績。母親に似て運動全般は不得意だが、人並みにはこなす。ある意味、モテル条件は非の打ち所ないほど満たしている。
 これでシスコンでなければ完璧なのだが。
「彬、お前ね。少しは自分の人生ってもん、真剣に考えた方がいいぞ」
 そういってトーストに、客用に作り置いたグリーンサラダと冷たい牛乳を添えて、彬の前に置く。
 何だかんだ言っても中学一年の子供にいう台詞でもなかったが、そう言わせるだけの迫力で、開店直後のこの[クリスティ]に彬が飛び込んできたのも事実だ。
 [クリスティ]は喫茶店の顔も持っているが、夜や休日は、ライブハウスになる。それもプロがレコーディングに使うのと同程度以上の器材が配備されている。今では北原が全面出資しているが、北原夫妻が学生の頃から、そういうスタイルの店だったのだ。
 というのもマスターこと栗林貴志が、小さいながらも音楽プロダクション事務所の社長で、かっては[ロンリー・ハーツ]そして[神沢俊広]を世に送り出し、今の主力商品は[北原莉奈]だからだ。
 彬が姉のスケジュールを確認をしに飛び込んできた理由はそこにある。
 事実、公式には莉奈のスケジュールはオフである。
 ただし、彬がここに来るのはマスターの今日の予定にしっかりと組み込まれていた。つまるところ、莉奈の夕張行きにはそれなりの裏があるのだ。
 何も言い返せず、仏頂面でトーストを口に運ぶ彬に気付かれないように、カウンターの奥に入ったマスターは、わざわざ携帯電話から相手を呼び出した。
「先生? 姫君は予定通り、現地に向かったよ」
 それだけ告げて店に戻ると、牛乳でトーストを胃に流し込んでいる少年に声をかける。
「[ミュージックキャンプゆうばり]。今年の司会は鈴川崇明、インタビュアーが安井顕だったろう。それを見に行ったんじゃないのか。バスでも行けるが、市内ならまだしも、夕張まで莉奈が一人で行くとも思えない。おそらく西野にねだっていたんだろう」
「なんで僕に言わないんだ」
 彬が気に入らないのはその一点に尽きる。
 自分のコーヒーに砂糖を落としながら、マスターは諭すように、グリーンサラダのミニトマトをフォークで転がす少年に言った。
「十五になってまで弟と行動を共にしたいか? お前自身が興味あるならともかく」
 そんなに心配なら一緒についていけば良かったのに、その余裕もなかったのか、最近うるさがれている自覚があるのか、おそらくはその両方だろう。
 重いため息を一つつき、彬は弄んでいたミニトマトをフォークで一気に刺した。口に放り込んで、むしゃくしゃと噛み砕いて飲み込んだ。それを手始めに、まるで敵に向かい合ってるような形相で、グリーンサラダを片付ける。
「三時に、河口先生が夕張に向かうって言っていたけど、何ならお前、一緒に行くか?」
「河口先生が?」
 河口先生と言っても別に教師ではない。北原夫妻の友人の内科医院医院長で、北原家の主治医でもある人物だ。
「夕張、午後からどしゃ降りで、野外ステージだって言ったら、心配だから迎えに行くって」
「何で姉貴が夕張行ったって知ってるんだ?」
 訝しげにこちらに向けた顔が、答えにたどり着いた途端、睨み顔になる。
「やっぱり何かあるんだな」
「どうする。行くのか、行かないのか」
 頭が回るとはいえ所詮子供の知恵だ。海千山千の大人の企みには敵わない。
 まんまと乗せられた彬は、苦虫を噛み潰しながら頷いた。
 それにしても。
 マスターは綺麗になった皿をカウンターの内側に戻すと、今度は堂々と携帯で河口医師に連絡を取った。
「先生、忘れ物を拾っていってくれないかな。今はうちに来てる」
 すべてのシナリオを書いたのはマスター自身だが、『忘れ物』の一言で何を指しているか通じ、更に空模様が不安だからと、診療室に準ずる設備を備えた『緊急車』で行くと医院長だって、北原姉弟につくづく甘くできている。
「彬、いったん家に帰ってからにするだろう? 時間、まだだいぶあるし」
 通話を切らずに少年に尋ねながら、だが、とマスターは心の中で言い訳をする。
 独身のマスターも既婚者の河口医師にも子供はいない。二人とも、本来我が子に注ぐはずの愛情を、この子供達に注いでいるだけなのだと。