第四章 歌声


 このゆうばりミュージックフェスティバル]は、第一部がアマチュアバンドの演奏、そして第二部はプロミュージシャンの野外ライブとなっている。
 アマチュアといっても、路上ライブや、ライブハウスなどで演奏を重ねてきている連中ばかりだ。
 しかも、ただ発表するだけではない。
 各レコード会社や音楽事務所からスカウト目的で人が来ている。うまく目に止まれば、プロデビューのチャンスがつかめるし、そうでなくても率直な感想が聞ける。
 それに主催がFMラジオ局なので、全道にライブの模様が流れる。その上、それぞれの熱心な固定ファンもこの場に駆けつけている。
 いやでも気合いが入ると言うものだ。
 莉奈は自然と、アマチュアバンドの演奏に聴き入っていた。幼い頃から、神沢俊広や竹本由之など、両親の友人の音楽関係者に、プロミュージシャンのレコーディング現場や、ライブに連れていかれた経験は伊達じゃない。耳だけは肥えてるのだ。だからある程度のレベル以下の演奏は耳が拒否してしまう。
 それでも純粋に音楽を聴くのは好きなのだ。
 正直、これはいただけないという演奏もあった。そう言う時は遠慮なく、ステージを無視して安井顕の姿を追いかけ、オートフォーカスカメラでシャッターを切る。そもそも、それが本日の莉奈の目的だった。
 この雨の中で、気温が下がっているのに、安井顕は自慢の裸体を披露してくれた。無論、上半身だけだが。
 最前列から二番目のこの位置は、安井や鈴川をカメラで収めるのにはちょうど良かった。第二部でプロミュージシャンが登場したら、写真撮影はできなくなる。
 普段はプロのカメラマンに写真を取られる立場の[北原莉奈]だけど、オフの今日は、安井顕の一ファンとして、自由に振る舞っていた。
 そして安井がステージ裏に引っ込んでいる時は、隣にいる匠の横顔を見ていた。
 匠は安井の写真を取りまくってる莉奈を残して一度席を離れたが、ほどなくして屋台から調達してきた二人分の焼きそばとホットドックを手に戻ってきた。本日の昼御飯だ。
 莉奈はそれを手渡されてはじめて、とっくにお昼を回っていることに気がついた。
「そうだよね。これ正午開始だものね。朝御飯遅かったから、すっかり忘れてたわ」
 匠は莉奈の分を渡してしまうと、あとはいつものごとく無言のまま、ホットドックに齧り付いている。莉奈もそれに習った。
 その匠が、時間切れで夕張市内のKCSの葬儀場に向かったのは、第一部が終わった直後だった。
 立ち上がる匠を大きな瞳で見上げ、舌足らずな口調で莉奈は訊いた。
「帰る前に、携帯に電話入れてもいい?」
 匠はこっくりと頷いて、自分の革ジャンを脱いで無造作に莉奈の肩に掛けた。
 莉奈は肩に掛けられた革ジャンに戸惑い、脱ごうとした。
「匠君が、風邪引いちゃうわ」
 見上げて、そう抗議する少女の言葉に頷く男では勿論ない。
「車だから平気だ」
 第一部では降ったりやんだりだった雨は、結局上がりきらずに、今はやむこともなく、その上、また雨脚が強くなっている。
「でも」
 莉奈は膨れたような困ったような顔で、なおも言いかけた。それを視線だけで押し留めた匠は、全く別な言葉を吐いた。
「歌えよ、ちゃんと」
 まっすぐな眼差しで見つめる匠に、莉奈は訳もわからず頷いた。
 それを見届けた匠は安心したように口許に笑みを浮かべると踵を返した。
 莉奈が一番好きな笑顔。
「……あれって、安井さんのジョークじゃないの?」
 早足でステージ脇の小道に消えて行く匠の後ろ姿を見送りながら、そっと呟く莉奈だった。


 西野匠は真っ直ぐに車に向かわずに、ステージ裏にある人物の姿を求めていた。
 葬儀の手伝いの連絡は、実は匠にとって全くと言っていいほど、予定外の出来事だった。
 夕張シティホールに今朝の段階で通夜が一件も入ってないのは確認済みだったし、そもそも普通の葬儀なら、匠が手伝いに回る必要はない。
 よりによって神道と来た。キリスト教の葬儀が葬祭場に持ち込まれるより、頻度は多いとはいえ、月に一度あるかないかだ。
 おまけに通夜はないものの、夕張シティホールには午前中に告別式、そして午後から繰り上げ法要が入っていた。会場が空くのは三時以降。七時からの開始だから、六時までには祭壇を作り直さなければならない。
 実は葬儀の費用の半分以上は祭壇料なのだ。KCSはあこぎな商売はしていないが、祭壇の出来はいいに越したことはない。けれど、あまり件数のない神道飾りがちゃんとできる人間は、KSC内部でも数が限られていて、匠はその少ない人数に入っていた。
 つまるところ、[北原莉奈]が公式にはオフである以上、匠には断れなかったのだ。ましてや夕張シティホールに札幌から赴いて葬儀をやるのが、KCS葬祭部で匠の一番の理解者と豪語する中山であれば、無下に出来なかった。
 目的の人物は、ステージ裏でビールを片手に出番を待っていた。口数少なく匠が事情を説明すると、男はちょっと残念そうに頷いた。
「あんたも込みで、ステージに引きずり込もうと思ったんだけどなあ。ちゃんとキーボードも楽譜も用意したんだぜ」
 男は悪戯っぽく笑いながら、快活な口調で言った。
「初見でも弾けるんだろう。せっかく噂の腕前を見せてもらえると思ったのに」
 匠は黙って首を横に振った。
「まあいいさ。心配いらんから、莉奈を俺に任せて、とっとと手伝いにいっちまえ」
「よろしくお願いします」
 匠は男に深く頭を下げると、今度こそ駐車場に向かって歩き出した。
 その背を見つめる男の表情が真剣になる。
「西野匠か……」
 ステージでは、最初のプロミュージシャンの演奏が始まっていた。
「可愛い莉奈が気に入ってるから今は静観してるけど、泣かせたら承知しない」
 呟き声は拍手と歓声に消された。


 プロミュージシャンのトップバッターは、[ディープパープル]だった。去年このステージに立った時はアマチュアだった彼らは、この[ゆうばり]がきっかけでメジャーデビューを果たしたという。
 デビュー後もライブ中心の活動をしているだけあって、客の乗せ方はうまかった。固定ファンも当然ついていて、ステージに登場すると、雨もものとせず、傘を捨てて立ち上がって歓声を贈った。
 二番手は、ストリートミュージシャンから二年前にメジャーデビューを果たしたソロボーカリスト[田宮ワタル]。アコースティックギターを掻き鳴らして情熱的に歌い上げる。
 その彼は自分の演奏を終えると、改まった表情になった。
「実はこの第二部には、シークレットゲストが参加しています。僕ははじめ、鈴川社長がヤスケンのギターに乗せて歌ってくれるのかと思ってたんですがね。ねえ社長」
 そう振られて田宮ワタルを紹介したあと、ステージの斜め前に座って演奏を聴いていた鈴川崇明が立ち上がった。
「田宮ワタルのあとに俺が歌える訳ないじゃない。今日は連れて来れなかった泉野ならまだしも」
 会場内に笑い声が沸き上がる。泉野洋志は歌手としては素人だが、田宮ワタルと誕生日が同じとかで、彼とユニットを組んで限定版CDを発売している。
 シークレットゲストの出演は、このフェスティバルの一つの売り文句になっていて、田宮ワタルの出演が決定してから、[セイム・バースディ]としてステージを彩るのだろうというのがファンの中での定説だった。しかしそれも、泉野が主役の芝居のスケジュールが発表されるまでだった。
「泉野君、ほんとに来てないんですか?」
「札幌でやるんなら芝居抜けて来れただろうけどね。彼は芝居を賢明にやってるので、今日はここに来た人も、明日以降もやってますので、ぜひ一度足を運んで見てください」
「そうそう、ラジオやTVとはまたひと味違う泉野君が見れますから。僕も、楽日までには是非見に行きたいと思ってます」
「じゃあ、シークレットゲストは一体誰でしょうね」
 鈴川の言葉に田宮ワタルは、にっこりと笑ってギターを持ち直した。
 会場の人々の興味が泉野の話題に向いている間に、壇上では次のステージの準備が整っていた。
「鈴川さん、僕もう一曲歌っていいですか」
「会場のみんなどうかな? ワタル君の歌、聴きたい?」
 拍手と歓声を受けて、田宮ワタルは満足顔で頷いた。
「歌いたいのは実は、僕のオリジナルじゃなくて、大好きなミュージシャンの曲なんです。[ブルー・スカイ・ブルー〜哀しいくらい青い空〜]聴いてください」
 会場の一人に溶け込んで、泉野の話題に笑い声をあげていた莉奈の表情が変わる。
 よく知ってる曲名、そしてギターが奏でる馴染みのメロディ。
「ブルー・スカイ・ブルー/僕はここにいるよ/ちゃんと 君を思ってるよ/だから 元気を出して」
 一番を終え、間奏に入った時、キーボードが主旋律を奏でだした。
 生まれた時から聴いていたのだ。目を閉じていても、莉奈には誰が弾いているかわかる。しかも神沢俊広亡き今、実質的に[北原莉奈]の音楽プロデューサーをしているのは、彼だった。
 そういえば莉奈のデビューに合わせて、また音楽活動を再開すると耳にしたのは、ついこの間じゃなかったっけ。それを本人に確かめるのはすっかり忘れていた莉奈である。
 少女の驚きをよそに、彼は[ブルー・スカイ・ブルー]の二番を歌い出した。
「懐かしい曲がラジオから流れる/君が好きな歌/いつだったか 君から聞いたね/そう あれは去年の夏のこと」
 子守歌を歌ってくれた今も生きている大好きな甘い声が、莉奈の耳を優しくくすぐる。
 普段は呆れるくらい口が悪く、いつまでも悪ガキなのに、織り成す詩は、何故か繊細でその癖、前向き。
 最近は作詞家としての名の方が売れているが、元々はデュオでデビューした歌手だ。莉奈の生まれる前から、海千山千の音楽業界で生き延びてきたのだから、その辺のバンドボーイなど束になっても敵うわけはない。
 田宮ワタルにハーモニーをつけさせてラストを飾り、曲は終わった。
「本日のシークレットゲスト、五年振りに音楽活動を再開した相澤拓哉さんです」
 田宮ワタルの紹介で、キーボードの向こうで人の悪い笑みを浮かべた相澤拓哉が、真っ直ぐに莉奈を見つめていた。


 仕事を終えた田宮ワタルがステージ脇に引っ込むのと入れ違いに、相澤拓哉のバックミュージシャンが次々と舞台に現れた。ドラムもギターもベースも全員莉奈の知ってる顔だ。
 相澤は素知らぬ顔で二曲目の[スカーレット]そして、莉奈の父親である北原敬一と遊びで出した曲[素敵にナイト&デイズ]を三曲目に歌った。
 そこまで舞台が進行しても、莉奈はまだ高を括っていた。
「いま歌った[素敵にナイト&デイズ]は、俺の親友である北原敬一とのデュエット曲だったんだ。ここにいるみんなにとっては、あの[北原莉奈]の父親って感じなのかな。俺は今その[北原莉奈]のプロデュースをしています。みんなはTVやラジオでしか知らないんだろうけど、俺は生まれた時から知ってるからね。もう何でも聞いてって感じ。……とはいえあんまりバラスと、本人が怒るなあ」
 意味ありげな視線を莉奈に流すと、相澤は悪戯を思いついた子供の表情を浮かべた。
「そうそう、みんな、[莉奈]に逢いたくないかな」
 会場内がざわめく。無論、莉奈の心もだ。
「俺は莉奈のことなら何でも知ってる。だから、今日莉奈がどこにいるかも当然知ってる」
 まさかという声が会場内に満ちた。
 莉奈の心にも同じ台詞が思い浮かぶ。
「そう、そのまさかです。……みんなで『莉奈』を呼んでみようか。莉奈!」
「莉奈ちゃん。このマイク持って立って」
 いつの間に莉奈の傍に忍び寄っていた安井顕が、耳元でそう囁いた。
 どうやら逃げられそうにない。
 莉奈は覚悟を決めて立ち上がった。


「拓ちゃん、ずるい」
 立ち上がった莉奈の第一声がそれだった。
「しょうがないだろう。何も知らない方が面白いんだから」
 壇上から、人を食った笑みを浮かべた相澤拓哉が答える。
「せっかくだから、莉奈、歌おうか。みんなも聴きたいだろうし。みんなもよく知ってるあの歌、泉野洋志の今のとこ唯一無二のソロシングルを」
 観客から笑い声が上がる。
「その前に、一言だけ」
 莉奈はステージにそう声をかけて、後ろを向いた。
「はじめまして、北原莉奈です。今日はオフでここにいるみんなと一緒に、ライブを楽しんでました。こんな風に飛び入りするなんて、全然思ってなかったです。今日のために一生懸命練習を積んできたアマチュアの皆さん。そしてプロの皆さんのための時間だから。あのね、本当に莉奈が歌っていいの?」
 暖かな拍手が、莉奈を包む。
 元々、歌っていれば幸せな莉奈だ。飛び入りさせられた不安など微塵もない。
 場所さえ頓着しない。
 どこであれ少女が歌う場所、そこがステージになる。
 レコーディングスタジオだろうが、TV局だろうが、コンサートホールだろうが。
 無論、どしゃ降りの、野外ステージの客席だろうが。
 莉奈に怖いものなどない。
 だとしたら、あとはいかに楽しく歌うかだけだ。
「じゃあ、一曲だけ。ここに入れる鈴川+泉野+安井ファンなら誰でも知ってる曲です」
まずはそう告げると、ステージに背を向けたまま、莉奈は大きく伸びをした。
「[1/6の夢旅人]」
 莉奈が題名を叫ぶ。それを合図に、相澤がキーボードでイントロを奏でる。
 莉奈の伸びやかな声が、豪雨の夕張に響き渡った。


ねえ そんな顔をするのはよそう
心の迷いがあるなら
もう一度 僕を見て
夏を連れてくる この雨に
すべてを洗い流そうよ

世界地図を心に広げよう
どこへだって行けるよ 君となら
行き先は その手のひらの中
賽の目に任せて

人生なんて いつもギャンブル
照る日も曇る日もある
もう一度 賭けてみて
傷ついた痛みも悲しみも
明日を生きる強さになる

世界地図を心に広げよう
どこへだって行けるさ 僕となら
行き先は その手のひらの中
賽の目に任せて

ごらん 雨雲の間から
光が射してきたよ
虹の橋はいつも 夢へと続いてる

世界地図を心に広げよう
どこへだって行こうよ 二人きり
行き先は この空に投げた
賽の目に任せて