第一章 朝陽



「昨日、莉奈、外で歌ったんだよ」
 北原莉奈は登校するなり、先に登校していた佐橋美夜の席までやってきてそう言った。
 昨日の雨が嘘みたいに、朝の陽射しが東南に面した窓から教室に射し込んでくる。
「そんなのいつものことじゃないの」
 何を今更とばかりに、美夜は言い返した。デビューしてからも、所構わず歌い出すという莉奈の悪癖は変わらない。自分の歌にいまや金銭価値がある自覚など、微塵もないのだ。
 美夜は昨日の一件せいで、莉奈にどう接していいかわからなくなっていた。
――私の歌、聴かせたかったな――
 砂田薫の携帯の留守録メッセージに吹き込まれてた莉奈の声が、美夜の脳裏に響いている。
「そうじゃないの」
 何も知らない親友は、興奮気味に美夜を見つめた。
 何とはなしにため息をついた美夜の頭上から、別の声が降ってきた。
「朝っぱらから、何、興奮してるの?」
 竹本偲がいつのまに莉奈の傍らに現れた。
「偲、おはよう。この子ったら、また歌ったらしいの」
「莉奈、昨日オフじゃなかった?」
 莉奈は幼い仕草でこっくりと頷いた。
 偲は重い溜息をついた。何も変わらないのだ、この親友は。
「マリアカラスだっけ、私の歌を聴きたきゃお金払えって言ったの。あんたにそんなタカビーな真似は期待しないけど、少しは自覚持ちなさいよ。だいたい昨日、雨じゃない」
「うん、夕張もどしゃぶりだったよ」
 莉奈は事も無げに頷いた。
「夕張?」
 偲は、札幌以外の地名を聞き咎めた。
 そういえば、安井顕と鈴川社長が野外イベントの司会をするから、付き合えと莉奈はうるさく騒いでいた。市内ならいざ知らず、そんな遠くまで付き合えないと、偲と美夜はきっぱりと断ったのだったが。
「……あんた、まさか一人で行ったの?」
「匠君と一緒よ。朝、迎えに来てくれたの。帰りは仕事で無理だったけど。美夜ちゃん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
 そう莉奈に顔を覗き込まれた美夜は、驚いて顔をあげる。
 無言でかぶりを振る大人びた親友に莉奈は訊いた。
「ひょっとして、また夜遊び?」
 美夜の素行の悪さは校内でも有名である。本人にしてもやっていることが法律に触れるとわかっているから、制服を変えたり、薫以外の相手には偽名を名乗ったりと、色々と工作をしている。
 が、悪いことをしているという自覚もないし、ばれても構わないと思っているせいで、生徒指導室に呼ばれて詰問されても、否定はしていない。
 学校側としても世間に学校名が出るのは得策ではないと考えているのと、美夜の学校での振舞自体、咎めだてできるほど悪くはないため、退学という手段を講じるまでには至っていない。
 佐橋美夜が理事長の姪で、仲がいいのが寄付金トップの北原の御令嬢というのも、大きな要因である。
 その歪みが美夜を駆り立てる悪循環になっているというのも、皮肉ではあるが。
 唯一美夜の美点は、自分の行動に、けして学友を巻き込まないことだろう。
「……まあね」
 苦笑いで頷いた美夜は、ためらいがちにその名前を口にした。
「砂田薫って人とね」
「美夜ちゃんの……彼氏?」
 莉奈の声に少々咎める響きが籠る。けれど、その名前に聞き覚えはないようだ。
 莉奈とて、もう中学三年だ。大人の恋愛に憧れも興味もある。美夜の[彼氏]が、複数いることも知っている。だから本当の意味で好きではない相手と、そういうことをしていいのかという正当な非難だってある。
「莉奈が怒るの、わからないでもないけどね」
「ならやめれば。怖くないの?」
 そう口を挟んだのは偲だ。
 莉奈とは生まれながらの幼馴染みで、幼稚園も小学校も一緒だ。二人と美夜とは、中学に入ってからの仲だ。
 美夜もその性癖さえなければ、悪い子ではない。そして、自分の身に関わらない部分でプライベートを詮索するほど、偲も子供ではない。
 もっとも潔癖な少女らしさは持ち合わせてるし、当然、美夜の悪癖を認めたわけではない。
「大丈夫。複数の相手についていくほど莫迦じゃないし、こういうことやってる以上リスクは承知よ」
 偲はため息を一つついた。
「美夜が、付き合ってる男の名前を口にするのって初めてだね。……何かあった?」
「……別に。あいつの着メロに、[ラブ・ア・ジャーニー]が入っていただけよ」
「嬉しくないね。ジョニーの曲がそんな奴に気に入られているなんて」
 偲が苦い顔をする。
 [ラブ・ア・ジャーニー]はもう十五年くらい前の曲だ。偲の叔父が所属する[リリック]というバンドのアルバムの一曲で、作曲はリーダーのジョニー芳田。莉奈はその曲をデビューシングルのカップリングでリメイクしている。
「[ラブ・ア・ジャーニー]って、楽譜出てたっけ?」
「出てない」
 莉奈より先に偲が答えた。莉奈もふんわりと頷く。
「版権はジョニーにあるし、色々と厄介なんで楽譜は出してない。でも、音感がいい人なら、着メロくらい作れるよ。あれ何度でも聴き直せるんだから」
「そうだよね」
 美夜は複雑な表情で頷いた。
 所詮、ベッドの中だけの付き合いだ。薫の鼻歌すら聴いたことがない。
 偲はそんな美夜の顔を覗き込んだ。
 美夜が何か隠していると思ったが、莉奈の前で訊かない方がいい気がした。
 ぽやぽやしているが、莉奈はけして莫迦ではない。
 そんな気配を察してか、莉奈は思い切り話を戻した。
「でね、聞いてよ。莉奈、野外ステージに飛び入りしたの」
 というよりは、単に話を聞いて欲しいだけのようだ。
「あんたね。人の出番を取るような真似はだめだってあれほど」
 偲が声を荒げる。
「ちゃんとみんなに訊いたもん。歌ってもいいかって。いくら莉奈でも、マイクなしにどしゃ降りの中でちゃんと歌える訳ないし、Kマイク/RINA1号は置いてったもの」
 正直言えば、莉奈は持っていくのを忘れたのだ。
 ちなみにK−マイク/RINA1号とは、北原敬一が娘可愛さでOA部門に作らせたという噂のコードレスのハンドマイクだ。どんな音響システムにも対応できる上に、マイク単品でも使用可能というすぐれものだ。もちろん、莉奈が長時間握っていても負担にならないよう可能なだけ軽量化され(目標値は、マイクチョコ〜幼児用の製菓で、中のチョコを食べた後でおもちゃとして使える〜の重さ)、ダイバーズウォッチと同じだけの防水性と耐久性を兼ね備えている。
「昨日のイベントのシークレットゲストって、拓ちゃんだったの」
「そういうこと……ね」
 と、偲は大きなため息をついた。
 不明瞭な顔の美夜に向かって説明する。
「作詞家の相澤拓哉よ。相澤さん今は[北原莉奈]のプロデューサーだし、おそらく、あの無口な男がわざわざ莉奈を連れ出したのも、そのせいでしょうね。[どうでしょう]のエンディング、泉野が歌ってるあの曲、作ったの相澤さんだし、その関係で参加したんだろうけど」
「昨日、その曲歌ったの。盛り上がったよ」
「泉野って舞台でいなかったよね」
「うん。今度は泉野さんと一緒に歌おう。そうだ、拓ちゃんにお願いしとこう」
 勢い込んで頷いた莉奈が、美夜の机の上を見て、はっと黒板横の時計を見る。文字盤は授業開始一分前を示している。
「続きは後でね」
 そう言い残すと、小さな嵐のような莉奈は自席へと向かった。
「偲」
 先に教科書を用意していた偲がのんびりと自席に向うのを、美夜は呼び停めた。
「うん、何?」
 ゆっくりと振り向いた友人に、美夜は首を横に振った。
「……何でもないわ」