第二章 裏付
午後九時過ぎ、偲は待ち侘びていた電話をようやく受けた。特に約束があったわけではない。ただ何となく美夜が電話をかけて来るような気がしたのだ。
「夜分、遅くすみません。同じクラスの佐橋ですけど……」
「私、偲」
「何だ。竹本さんと話せるかと思ったのに」
「由之君、いるよ。代わろうか」
何となく気抜けしながら、偲は言った。
「いいよ。それより今からそっち行っていい。偲が出て来るより楽でしょう?」
「ちょっと待って」
確かに全うな女子中学生が、友達に会いに外に出かける時間ではない。それに美夜の目的の半分が竹本由之目当てだったとしても、人目のある場所で持ち出したい話題でもなかった。
「あのね。クラスの友達がすぐそこまで来てるんだけど。何か相談があるんだって」
由之は壁の時計を見て、顔をしかめた。
「塾の帰りか何かかい? ……入ってもらいなさい。遅くなるようなら、車で送っていこう」
「そうだね」
さすがに友達の保護者にまで、手は出さないだろうと思いながらも、偲は曖昧に返事をした。二人を信じていないわけではないが、相手が悪すぎる。[竹本由之]がスキャンダルに巻き込まれかねない。
「ところで、美夜。あんたうち知ってたっけ」
竹本由之に昔ほどの人気はないが、それでもそれなりの数のファンがいる。そのこともあって住所は非公開だ。学校の名簿からも外している。もっとも、理事長の姪なら調べるのは簡単だ。けれど美夜は、そんなことをしそうな子ではないのだ。
悩んでいる偲の耳元で、美夜はくすっと笑った。
「忘れたの? 私を信用してくれた証に、住所教えてくれたじゃない」
「……思い出した」
そういえばそんなこともあった。もう、三年も前の話だ。
「迎えに行こうか」
「いいよ。このマンションの下のコンビニだから。それより、オートロック開けて」
やっぱり、美夜は初めからここに来るつもりだったようだ。
苦笑いをしながら偲がオートロックを解除すると、一分もたたないうちに、コンビニの袋を下げた私服の少女が、玄関に立っていた。
「これ、お土産」
袋の中にはコーラのペットボトルが一本と、チョコレート菓子の箱とポテトチップスが入っていた。
「こんなところまで来て、もし誰もいなかったらどうするつもりだったの?」
「だって偲、電話待ってたんでしょう?」
腐れ縁とはいえ、三年の付き合いになる。そのくらいには呼吸は合っていた。もっとも休日に一緒に過ごすことはあっても、互いの家を行き来したことはない。
というより、莉奈の家に二人が押しかければそれで済んだのだ。
けれど、今夜は二人とも、莉奈に知られる前に、互いの情報を整理しようと思っていた。
それ自体、時間の問題だろうけれど。
二人がリビングに入ると、ソファーに座っていた由之が、タバコを灰皿に押しつけて立ち上がった。
「こんな時間にお邪魔して申しわけありません。どうしても、偲さんに相談したいことがあって……」
こんなしおらしい台詞を吐くと、美夜は真面目な女子中学生に見えなくもない。
だが、由之は一瞬言葉をなくした。美少女と呼ぶには、艶やかすぎる。
綺麗な少女なら、莉奈で見馴れている。
けれど、莉奈の美しさを水に例えるなら、目の前の娘は火のように美しい。
「初めまして、竹本由之です」
「TVでよく拝見しています」
と、美夜ははにかんだ。
「じゃあ、私の部屋に行くね」
と、偲は茫然としている保護者を睨つけた。
美夜を自室に案内して(というよりも閉じ込めて)偲が、一旦キッチンに二客のグラスを取りに戻ると、それを追いかけてやってきた由之に声をかけられた。
「あの娘、何者だ?」
「友達だよ」
「本当に同じ歳か? ダブってないのか」
「四月六日生まれだから、もう十五歳だけど。ダブってはいないはずよ」
「それにしちゃ、やけに色っぽくないか」
「……由之君、ロリコンじゃなかったよね。姪と同じ歳の女の子に、何マジになってるの」
偲の皮肉な声色に由之は肩をすくめた。
「そんなんじゃない」
「いい子だよ。どんな風に見えても」
偲の声のきつさに、由之はたじろんだように一歩下がった。
「ところで、由之君もコーラ飲むでしょう?」
「ああ」
姪の迫力に、我知らず圧倒される由之だった。
☆
「で、話って言うのは」
キッチンで思いかけずに時間を取ってしまったせいで、慌てて戻った自室では、美夜がベッドに寝転がって、本棚から勝手に取り出したコミックを斜め読みしていた。
私服のせいか、スカートから伸びた素足が艶かしい。同性の偲でさえドキッとするのだ。まだ三十二の由之が惑わされても不思議はないのかもしれない。
偲は、ベッドの脇に持ってきた椅子をテーブル代わりに、コーラを満たした二つのグラスと漆器の菓子皿を載せたお盆を置いた。
美夜は、コミックをベッドに置くと、いきなり核心に触れる問いを口にした。
「匠って、莉奈の付き人だっけ?」
途端に、偲の顔色が変わるのを、美夜は悲しく見つめた。
とはいえ昨夜、砂田薫の携帯から莉奈の声を聞いた時に、答えは出ていたのかもしれない。
偲は叔父がミュージシャンの関係で、莉奈の仕事にも多少関わっている。再結成した[リリック]のコーラスも莉奈と共に参加していた。
「一体、何者なの?」
「詳しい事情は知らないけど、KCSの葬祭部員で、素姓は確か。何でも莉奈の歌声に幽霊を浄化させる力があるとかで、この間から仕事で付き人みたいなことやってる。そういえば、名刺貰ったんだ」
と、偲は学生鞄の中からシステム手帳を取り出し、中に挟んであった名刺を取り出した。
KCS――北原セレモニーサービス。
八年前に親友の葬式を出すために、北原敬一が設立した葬儀社だ。
美夜が受け取った名刺にはその会社の名と、見覚えのない名前と一緒に、白黒の薫の顔写真が印刷されている。
「素姓は、ブラックアイズに調べてもらったんでしょう?」
「うん」
ブラックアイズとは、北原家私設のボディガードの名称である。素姓のはっきりしない人間を、彼らが、大事な莉奈お嬢さまの側に近づけるはずはない。
「素行調査もするべきだったわね」
「西野匠を、どうして美夜が知ってるの?」
偲の声は、どうしても鋭さを帯びてしまう。
「私には砂田薫と名乗ったわ。昨夜、一緒だったの」
「……あいつ、援助交際するような男だったのか。でも、どうしてわかった?」
握りつぶしそうな勢いでグラスを取ると、偲はコーラを一気に飲んだ。さすがにむせて、咳き込む。それを気づかように、美夜は言った。
「その前に、偲のことだから、西野匠の携帯番号知ってるでしょう」
「一度しか、かけたことはないけど……。一応、私のPHSにメモリーしてある」
「PHS貸して」
いささか強引な美夜に、偲は問い返した。
「美夜は? 番号知らないの?」
「向こうは知ってる。一方的に連絡して来るわ」
「奴とはどこで?」
「テレクラ」
「……あんたね」
思い切り顔をしかめる偲に、美夜は平然と言い返した。
「いくら私でも、街角で男を引っかける真似はしないわ」
ごく普通の女子中学生である偲には、同じことにしか思えない。けれど、それをここで告げても、仕方がない。
溜め息一つ落として、偲はPHSのメモリーから西野匠の番号を捜し出し、発信ボタンを押した後で電話機を美夜に渡した。
「これ、発信番号通知してる?」
「私は別に番号知られても困らないし、知らない相手にかけることはまずないもの」
そんなことを話しているうちに、留守電にもならずに、PHS回線は繋がった。
「美夜です」
相手が何か言う前に、美夜は自分から名乗った。
軽く舌打ちした後、電話の向こうから問い質された。
『黙って番号を見たのか?』
怒った男の声は、間違いなく昨日美夜を抱いた男のものだった。
美夜は何も言えず、偲にPHSを返した。
「……お久しぶりです。西野さん」
『誰だ?』
「美夜に電話をかけてもらったのは、私です。竹本偲、覚えてませんか? 何度か北原莉奈と一緒にお目にかかってるはずです。昨日、共通の友人の美夜があなたと、ホテルで一緒だったと聞いて、まさかと思って電話してみたんです」
数拍の沈黙の後で偲の耳に届いたのは、次の言葉だった。
『……莉奈には』
「言えるわけないでしょう。莉奈はあなたを気に入ってる。美夜が悪くないとは言わない。でも、あなたは、莉奈と同じ歳の娘を金で買う男なわけだ。しかも偽名を使って」
正当な偲の批判に、男はこう訊いた。
『俺にどうしろと』
「この二人の前から姿を消して欲しい。それだけです」
偲は何も警察沙汰にまでする気はなかった。なのに、意外に男はしぶとかった。
『あいにく、俺は仕事なんだ。決定権はない』
「それでもです。あなただって、知らなかったとはいえ、仕事相手の友人、しかも未成年に手を出して、ただで済むとは思ってないでしょう?」
『警察沙汰にすると?』
「北原の叔父様に言います」
『わかった』
開き直ったように短い返事が返ってくると、男の方から電話は切れた。
固唾を呑んで、偲と男のやりとりを聴いていた美夜は、重い溜息をついた。
「やっぱりね。薫は……いえ、西野匠は莉奈を気に入ってるわ。あの無口な男がこんなに喋るなんて」
「美夜……、あの男が好きなんだね」
偲がぽつりと言った。
「そうよ、大好きよ。でもあいつは莉奈の方が好きなのよ」
そう言って美夜は泣き崩れた。
偲は深いため息をついて、リビングに戻った。
美夜を一人で自宅へ帰す気にはどうしてもなれなかった。彼女は自宅に待っている家族がいないのだ。
「由之君、美夜、今日泊めていい? 明日、一緒に登校する」
「だって、あの子、制服は」
由之の慌て顔に、偲はあっさりと言った。
「彼女、理事長の姪なんだ。学校行けば何とかなる。……ところで、由之君、コーラス入れの時にいた葬儀屋さん覚えてる?」
「ああ。それがどうした?」
一瞬ためらったが、偲はこう訊いた。
「……由之君、あの人どう思った?」
「葬儀屋らしく、陰気な男だなって。まあ根は真面目そうに思うけど。それがどうしたんだ」
「莉奈が気に入ってね。だけど、私はどうしてもあの男好きになれない」
「そう」
由之は、そういったまま黙り込んだ。
「じゃあ、美夜、私の部屋に泊めるから」
それだけ言うと、偲は部屋に向かった。
その背に由之の溜め息が追いかけてきた。
