第三章 遺愛



 初夏の陽射しに目を細めながら、竹本偲はまた一つ、溜め息をついた。目指す喫茶店は目の前だ。
 西野匠、いや……砂田薫には、ああ啖呵を切ったものの、親戚同然の間柄とはいえ、北原敬一は一介の中学生がおいそれと連絡が取れる相手ではない。敬一は娘の友人に時間を裂くのを面倒に思うタイプではないが、いかんせん、ものすごく忙しい人なのだ。
 世間では、莉奈が母親である天野優と神沢俊広の不倫の果てに出来た子供だと、まことしやかに語られている。だが、世間がどう言おうと、敬一が莉奈を溺愛しているのを、幼馴染みの偲は良く知っている。
 だからこそ多少汚い手でも、西野の上の立場である敬一に頼ろうと思ったのだ。
 しかしながら、偲も敬一の携帯番号までは知らないし、妙に聡い莉奈には訊けない。かといって、莉奈の母親である作家の天野優を巻き込むわけにもいかない。
 大体、最初に偲が抗議した時だって、暢気な母親は平然と、匠が莉奈の側にいることを認めたのだ。そもそも、当てにならない可能性の方が多い。
 そこで偲が思いついたのは、天野優のマネージメントをしていて、莉奈の主治医である河口真一医師の夫人でもある、水原玲だった。
 河口と結婚した今でも仕事上は旧姓で通している彼女は、女にしておくのが惜しいくらいのハンサムだ。
 少々くたびれた感のある白木の扉を開けると、ドアに取付けつけられているベルが鳴った。
「やあ」
 カウンターでアイスコーヒーを片手に玲は、爽やかな笑顔を見せた。
「珍しいね、偲が僕に話があるなんて」
 低めのアルトで玲は穏やかに話しかける。
 今でも天野優と並ぶと、非の打ち所のないカップルにしか見えない。莉奈の母親も実年齢がわかりにくいが、玲に至っては年齢不詳に性別不明の四文字が加わる。
 偲は生まれて間もなく叔父に引き取られたのだが、莉奈と彬の姉弟と一緒に北原の家で育ったようなものだ。天野優の親友でありエージェントである玲は、偲の親のような存在なのだが、そういえば二人きりで示し合わせて外で逢うのは初めてかもしれない。
 偲は軽く頷いて玲の隣に陣取った。カウンターの中には初老のマスターがいて、馴れた手つきで水の入ったグラスを偲の前に置いた。
「偲ちゃん、また少し背が伸びたかな」
 保護者である竹本由之の知人でもあるこのマスターとは、偲も幼い頃からの付き合いだ。
「玲君の中学生の頃って知らないけど、こんな感じだったのかな」
 そんなことを言いながら、マスターはメニューをカウンターに滑らす。
「クリームソーダ、お願いします」
 偲は曖昧に笑い、注文を口にした。
「了解」
「玲さんは、西野匠って男を知っていますか?」
 適当な話題を選べずに偲はそう切り出した。
「会ったことはないよ。莉奈の付き人だっけ。えらくあの子が気に入ってるとかいう?」
「ええ」
「学校の友達の美夜が、砂田薫って男と付き合っていて、どうやら同一人物らしいんです」
 玲は微かに目を見張った。
「美夜って、あのやたら大人っぽい子だね。付き合うって、どの程度?」
 マスターは口を挟まずに、偲の前にクリームソーダのグラスを置いた。さり気ない手つきで、ストローとスプーンを添える。
「偲が、わざわざ僕に相談を持ちかけるんだから、そんな軽い付き合いじゃないよね。そう……、その男、中学生とわかってて手を出すようなヒトデナシなわけだ。まあ、美夜ちゃんも悪いだろうけど」
 玲は偲の言葉を先回りして言った。
「それで、敬一パパに、西野を馘首にしてもらえないかと思って」
「西野が莉奈に悪さすると思うんだ」
 そう聞かれて、偲は戸惑った。一目見てそうとわかるタイプだったら、偲は莉奈が何と言っても反対しただろう。実際、美夜から話を聞いて、初めてわかったくらいだ。
「それはわかりません。でも美夜をお金で買ったのは事実です」
「美夜ちゃんは乱暴された?」
「いいえ。むしろ、美夜も夢中になってるみたい」
 玲は軽く笑った。
「わかった。僕から敬一さんには言っておくよ。未成年をお金でどうこうしようって言うのは、全うな社会人のすることじゃないからね。でも、君はしばらく静観してなさい」
「どうして?」
 信じられないと顔にありありと書いて偲は訴えた。
「美夜ちゃんがその男を本気で好きなら、その想いを中途半端に止めるのはかえって危険だよ。それにあの子は、好きで遊んでるわけじゃないから、ちゃんとした相手が出来れば莫迦なことはやめるだろうし。偲は美夜ちゃんの心の拠り所になってあげればいい。それに、万が一、莉奈が本気でその男に惚れたら、莉奈と美夜ちゃんを信じて任せなさい」
「そんな無責任な」
 玲は軽く溜め息をついた。
「昔なら十五で大人だ。まして莉奈は芸能界で生きていかなきゃならない。綺麗なままでいようと思うなら、それなりの覚悟と努力をしなきゃね」
「でも」
 玲はふっと笑った。
「莉奈は大丈夫だよ。君みたいないい友達が付いてるからね」
 それから、声を潜める。
「これ、内緒だけどね。昔、優が僕に言ったことがあるんだ。敬一さんやシュン、その他頼りになる男の人はいっぱいいるけど、玲が死んだら、それでも生きていけるかどうか自信はないってね」
 言葉の真偽を確かめるように偲は玲を見つめた。けれど、口に出したのは別なことだった。
「私は玲さんみたいな大人じゃない」
「それは仕方がないよ。僕だって初めから大人だったわけじゃない。それに大人だからって、うまく事を運べるわけじゃない。クリームソーダ、とけないうちに飲みなさい」
 理解のある大人の言葉に、偲は泣きそうな顔で頷いた。
「君がね、そうやって一所懸命、莉奈のこと考えてるうちは、大丈夫。みんな幸せになれるさ」
 偲は半信半疑でクリームソーダを口に運んだ。
 玲はそんな少女を見ながら、心の中で重い溜め息をついた。


「珍しいな。玲が俺に直接電話するなんて」
 液晶画面から、男が気障に微笑みかけてくる。
「そうだっけ?」
 水原玲は機嫌が悪いことを隠しもしないで、そんな言葉をぶつけた。
「西野匠って相当の悪じゃないか。その辺、わかっていて莉奈に近づけたんだろうね」
「ついに、玲の耳にも入ったのか?」
 平然と聞き返す男に、玲は声を荒げた。
 偲の前では大人の振りをしたが、実際のところ、かなり腹を立てていたのだ。
「偲が、あなたに連絡取れないって、僕に相談を持ちかけてきたんだ」
「子供たちのことに首を突っ込むほど、玲は莫迦な大人じゃないだろう」
 からかうような口調で北原敬一は言った。
「事と次第による。西野匠が中学生の女の子をわかっていて援助交際するような男だと言われても、心配ないって、心ならずも答えておいたよ。敬一さん、あなた一体何を企んでる?」
 敬一は初めて表情を変えた。真顔で玲に向き直る。
「その前に、どうしてこの件に俺が絡んでるって思ったんだ」
 玲も負けずに鋭い言葉を投げつけた。
「莫迦にしないでもらいたいな。西野はあなたの葬儀社の正社員だ。そして彼は北原莉奈が特殊能力を持ってるから目を放すなと言われたと、初めて会った時、そう告げたそうだ。西野って男はあなたの葬儀社の裏の仕事をしてるんだね。だから、偶然莉奈の歌の力に気がついた。でも、敬一さん、優の少女小説じゃあるまいし、だからどうだって言うんだ? 西野を近づけたのは別の理由だろう。何だかわからないけど。でも、それが出来るのは社長であり莉奈の父親であるあなただけだ」
 敬一はじっと玲の話を聞いていた。
「莉奈も、きっとパパが用意してくれたボディガードだと思ったから、安心してるだろうさ」
「俺は莉奈にそんな話は一切してない」
 敬一はきっぱりと言い切った。
「でも、そう思うのは勝手。どうせそこまで読んでるんだろう?」
 辛辣な玲の物言いに、敬一は苦笑した。
「それで一体、何が問題なんだ。西野が何をしたんだ。ただ、女子中学生を買っただけじゃそんなに騒ぐことはないはずだ」
「十分、問題じゃないか? いくら社員のプライベートには関知しないとはいえ、法律に触れる真似を西野はしてるんだよ」
「俺は知らなかったことにすればいい。一応、素行調査はしてるんだ。あいつが真性のロリコンなら俺だって、可愛い愛娘に近づけはしないさ」
 敬一が莉奈を溺愛しているのは、玲だって百も承知だ。だが、素行調査は完璧ではなかったようだ。
「そういう問題でもないだろうが。まあいい。西野は佐橋美夜って子と関係があったんだ。それが、偲にばれた」
「美夜って、あのやたらイロっぽい子か。夜遊びしてるって噂の。まあ、問題がないとは思わないが、莉奈だって人を見る目はあるだろう?」
「莉奈は大変、西野匠を気に入ってるらしい」
 敬一は一瞬だけぎょっとした顔をしたので、玲は少しだけ安堵した。
「玲、言っておくが、可愛い娘を傷物にされたら、俺だって逆上するぞ」
「そんなことになる前に、何とかする気はあるのか」
 玲の言葉に敬一は黙り込んだ。
「敬一さん」
「莉奈のためだ。あの子が芸能界でやってくためには必要だ」
「敬一さん、人はけして神にはなれない。いい気になって人を操ってるととんでもないことになる」
「わかってるよ」
 敬一は真剣な顔で答えた。
「ならいい。僕もいらない手出しはしないよ」
「わかった」
 電話を終えようとして、玲はあることを思い出した。
「敬一さん。まさか、これ、あの男の遺言だなんて言わないだろうね」
 敬一の表情が驚くほど変わった。
 玲は思わず舌打ちをした。
 亡霊に遭ったようなものだ。
 ――神沢俊広の。
「八年も前に死んだ男が何故、そんなことをしたんだ?」
 敬一はそれに答えなかった。
「敬一さん、前言撤回だ。僕は僕の意志で動く。いいね?」
「玲の好きにしたらいい。だが、シュンだって、莉奈のためにならないことはしない」
 それだけ言うと、敬一の方から、携帯は切れた。
 光をなくした液晶を見つめ、玲は唇を噛み締めた。


「俊広が莉奈を溺愛してたのは、玲だって知ってるだろう?」
 柔らかな落ち着いた声がテーブルの向こうから聞こえてくる。結婚五年目の夫の顔を見つめて水原玲――いやこの場合河口玲というべきか――は頷いた。
「でも、西野匠のことはどうなる。彼はどうでもいいわけ?」
「莉奈だって莫迦じゃない。ただのすけこましを気に入る訳はないだろう。そんなに躍起になることはない。彼だって莫迦じゃない。自分が誰を相手しているのかわかっているさ」
 真一だって莉奈を我が子のように可愛がっている。その彼が、いつものように穏やかなのは。
 玲は一つの可能性に思い当たった。
「真一さん、これもあの男の遺言?」
 さりげなさを装った問いかけだった。
 夫が親友と呼ぶ男の死に隠れたもう一つの深い傷。だけど玲がその件を口にしたのは、あれ以来初めてだった。
 真一は表情一つ変えずあっさりと交わした。
「さあね。でも話題の当人なら夕張で見かけたよ。莉奈が夕張に行ったのは、西野の協力があったからだ」
「どしゃぶりの中、相澤さんの演奏に合わせていきなり莉奈が歌わされたって、あれ?」
「そう」
 河口真一は頷くと妻のカップにコーヒーのお代りを注いだ。
 いつもとまるで変わらない穏やかな夫の笑顔に、玲は何も訊けなかった。だから逃げた。諸悪の根源であるあの男に。
「真一さん、けして神沢さんと仲がいいわけじゃなかったのに、庇うんだ」
 玲の拗ねる顔など、めったに見られるものではない。
 真一は満足気に微笑んだ。
「一応は幼馴染みだからね。あの男の本性がそう悪くはないのは知ってるよ。それにしても、いまだに俊広と君は相性が悪いんだね」
「悪かったね」
 本気で拗ねる玲を見て、真一は楽しそうに笑う。
「別に、君が手を出すのを止めはしないよ。まあ、西野に釘を刺す人間がいてもいいだろうし」
 穏やかな口調でそう結ぶと、真一は自分のカップを口元に運んだ。