第二章 策謀
病室に近づくに連れて、河口真一の足取りは重くなった。
部屋番号が悪かったのかもしれない。本当に偶然なのだが、五六号室は神沢俊広が死んだ部屋だ。気まぐれすぎる神の采配に舌打ちした真一はいっそ病室を変えてしまおうと思ったが、それはそれで意味のない符号を信じているようで嫌だ。
そんな程度の[治療]で病が癒されるなら、真一はいくらでも病室の変更を指示する。
真一の足取りが重いのは、そんな神の与えた[符号]のせいなどではない。
56という部屋番号の下に患者のネームプレートがある。そしてカルテに記された名前の横には5という数字。つまりまだ学童前の幼児がこの部屋に入院しているのだ。
ドアの前に立ち、深呼吸一つで、持ち前の笑顔を浮かべる。
軽いノックの後で河口医師はドアを開けた。
☆
優しいはずのお医者さまの顔を見た途端、布団にもぐり込む男の子に、真一は苦い顔になる。
「聖」
久村聖は真一の声でますます布団の中で体を強張らせた。
いわゆる小児喘息だが悪性で、ここに運ばれてきた時には既に手の施しようがないほど悪化していた。今度悪性の発作を起こせば助からない。
その上肺にバイパス手術をするにも、年が幼すぎた。手術自体も難しいし、成功率は五割を切ると告げると、真一よりも二十は若い両親は青ざめた顔で崩れ落ちた。
「今日はどこへ行ってたんだ」
ベッド際に置かれた丸椅子に腰を下ろすと、真一は布団蒸ししている子供に、穏やかに話しかけた。
病気とはいえ、発作さえ起こさなければやんちゃ盛りの年頃だ。聖には勝手にベッドを抜け出し、病室の外を、挙句の果ては、敷地内の中庭にまで遊びに行く悪癖があった。しかもあろうことか、自分で点滴の針を外して。
一応、お仕着せのパジャマに異常脈拍になると警告を発する発信機を縫いつけてはいるが、いざと言う時には役に立たない。発信機には、発作を押さえることなどできないのだから。
体調がいいから散歩に出かけるのだろうが、子供であるゆえに無茶をして、発作を起こせばそれでアウトだ。
自分の手を尽くしてもどうにもならない病状だが、だからといって、この病院の患者を自分の目の届かない場所で死なせるのは、一人で十分だ。
六年前、音楽学校の生徒が病を苦に一八歳の若さで、この河口医院の屋上から身を投げた。白血病で余命幾漠もなかったが、投身自殺をさせてしまったのは、今でも河口真一にとって一生の不覚だ。
神沢俊広がこの病室でその若すぎる生涯を終えたのは、それからまもなくだった。同い年の幼馴染みの死は覚悟の上だったが、だからといって、真一の傷が浅く済むはずもない。いまだにその痛みは、胸の奥に疼いている。
「怒らないから、言ってごらん」
布団の中にもぐり込んだままの男の子に、真一は辛抱強く声をかけた。
「お姉ちゃんに逢えると思ったんだ」
布団の中からくぐもった声が聞こえた。
真一は誰のことかわからず眉を寄せた。
聖は今のところ一人っ子で兄弟はいない。まだ二十代前半の両親だから、弟か妹が産まれる可能性はあるが、今の彼らにはそんな心の余裕はなさそうだ。
「お姉ちゃんって?」
「今日はピンクのコートを着てた」
「ああ」
真一が思わず声をあげると聖は弾かれたように布団から顔を出した。
「先生、知ってるの?」
真一はカメの子のように飛び出した聖の頭を、コンと拳骨で叩いた。
「うそつき」
途端にべそをかく幼な子の頭に、今度は優しく手を置きながら真一は笑った。
「これは当然の仕打ちだよ。聖は男の子なんだから、看護士さんに余計な心配をかけたらいけない。それに拳固はられたくらいで泣かない」
五つの子にとっては厳しすぎる意見に聖はますますむくれた。
「なんで男の子だと泣いちゃいけないの?」
今日はこんな質問ばっかりだと心中閉口しながらも、真一は根気よく言った。
「カッコいい男になるんだろう。……北原敬一のように」
その名前に聖は途端に泣きやんだ。
真一は聖に気づかれないように、そっとため息を落とした。
高校教師を辞めた後、親の後を継ぐべく単身ニューヨークに渡った北原敬一だったが、それが今では世界のKITAHARAの若社長である。
ステージ以外でも自分の魅せ方を知り尽くしていた神沢俊広の真似をしたわけではないだろうが、その快活な外見を自社コマーシャルに出演することで大いに利用した彼は、いまや女子供に人気の一大ヒーローだ。そして目の前のワルガキもその例外ではなかった。
もっとも、親の反対を押し切って教職課程をとった敬一は、モデルをやって学費を捻出していたから、そういう素質は持ち合わせていたのだろう。
「本当にあのお姉ちゃんのこと知ってるの?」
泣きやんだのはいいが、自分が叩かれたのは納得できないのだろう。不信感を顔にありありと表し、聖は訊いた。
「よく知ってるよ。さっきまで僕の部屋にいたからね」
聖の表情が途端に曇る。
「どうした?」
「あのお姉ちゃんも、どっか悪いの?」
真一はくすくす笑った。
「どこも悪くないよ。そうだね、悪いのは頭かな」
莉奈がここにいたなら即座に殴られるような台詞を、真一は吐いた。
「あんなにお歌が上手なのに、頭が悪いの?」
「あのお姉ちゃんは、先生に宿題の答えを訊きに来たんだ」
莉奈にはまた別な意見があるだろうが、真一にとっては同じことだ。莉奈は父親が自分にとって理不尽な宿題を出したと、頼りになる優しいおじさまに泣きつきに来たのだから。
風邪を治してくれる穏やかな河口医師は、北原の子供たちにとって物心ついた時からそういう存在だった。敬一の高校の先輩である真一は、留守中がちというよりもほとんど家に寄りつかない本人の代わりに、父親の役割を押しつけられている。それで、子供たちの目から見たら、父親が頭の上がらない人物と写るのだろう。
真一はそんなこと考えもしないが、まあ、紛れもない事実ではある。
「教えたの?」
あっさりと首を横に振る真一に、聖はがっかりした顔をした。
「でも、ちゃんとヒントは教えたよ。あとは自分で考えればわかるはずだ」
難しいだろうけど、と口には出さずに、真一は聖に訊いた。
「聖はなんで、あのお姉ちゃんを知ってるんだ」
とはいえ実は答えは訊かずとも見当はついていた。莉奈には所構わず歌う癖がある。学校帰りに気まぐれにここに来て、中庭で大声で勝手に歌っている。入院患者のいい慰めになっているので、医院長として放っておいているのだが……。
真一にしても自分の娘のように幼い頃から可愛がってきた少女の歌声だ。咎める気など全くない。むしろ、楽しみにしている。
――歌手になることも。
「ここに来た日、中庭で歌っていた。知らない歌だったけど、すごく上手で、それで」
「聖、最近よく抜け出すのは、そのせいか。お姉ちゃんの歌を聴くために?」
この子の脱走の理由がもしそうなら、莉奈の行動を黙認していた真一にも、当然責任の一端はある。
思わず苦い表情になった真一に、むくれ顔の聖は言った。
「だって、あのお姉ちゃん、いつ来るかわかんないんだもの」
それはそうだ。莉奈がいつ病院でゲリラライブをするかなんて、真一だってわからない。
深いため息を零した真一の脳裏にあるアイデアが閃いた。
うまく行けば、一石二鳥である。
「聖、もう勝手に抜け出さない、と先生と約束できるか?」
顔を覗き込む真一を聖は不審気に見上げた。
「なんで」
「いいから、約束しろ」
「やだ」
聖は頑固に首を振った。
「だってお姉ちゃんの歌、聴きに行けないじゃん」
「……聖、先生がお姉ちゃんと知り合いだって忘れたか?」
人の悪い顔でそう告げる真一を、はっとしたように聖は見つめた。
「約束したら、お姉ちゃんに逢える?」
「ちゃんとお姉ちゃんを、ここに連れてきてやる」
「約束する」
聖は勢い込んで頷いた。
「じゃあ、指切りだ。男と男の約束だ。破ったら今度はゲンコツじゃ済まないぞ」
何が来るのだろうと思わず首をすくめる聖に、優しいはずのお医者さまは人の悪い笑みを浮かべて、楽しげに言った。
「約束を破ったらとびきり痛い注射が待ってるからな。針がこのくらいの」
と、点滴の管をつまんだ真一に、聖は青い顔でこっくりと頷いた。
「わかったら、もう、自分でこんなもん外すんじゃないぞ。間違って変なとこに刺さったら、死んじゃうんだから」
小さな子供の腕を取り、馴れた手つきで消毒済みの点滴針を静脈に刺しながら河口医師は言った。
「そんなドジしないもん」
あくまで口の減らないワルガキを真一は軽く睨んだ。
「そういえば、あのお姉ちゃんの名前なんて言うの?」
「何だ、聖。好きな女の子の名前も知らないのか?」
途端に顔を真っ赤にしてまた布団にもぐり込もうとする聖に、真一は言った。
「莉奈だよ。あのお姉ちゃん北原莉奈って言うんだ」
「北原? 北原敬一と同じ北原?」
布団から顔を出し、目を輝かせる聖に真一は苦く笑った。
北原という名前だけで、こんなに興奮するのだ。莉奈があの北原敬一の娘だ知ったらどうなるか……。それを思うにつけ、到底、口に出せない真一だった。
バレルのはどうせ時間の問題だとわかっている。
北原家の主治医である河口真一の経営するこの医院に、健康診断のため当人が顔を出すこともあるのだ。
けれど空しい抵抗をしてみたい真一だった。
「で、いつ逢わせてくれるの?」
興奮をひとまず収めた聖がきらきらと目を輝かせて問いかけた。
「そうだね。電話をかけてみるよ。約束さえ守ってくれたら、歌を歌ってもらおうが、結婚を申し込もうが好きにしていい」
「ケッコン?」
聖の声が上ずった。
「お姉ちゃん、彼氏いないの」
神沢俊広存命中は、常日頃から将来『俊ちゃんのお嫁さん』になると宣言していた莉奈だが、今は意中の彼氏はいないようだ。
「ああ、だから唾をつけておくのは早い方がいい」
真一には神沢優子亡き後、高校の後輩だった莉奈の母親に恋したが、何も言えないままでいるうちに、彼女と同じクラスだった北原敬一に持っていかれたという苦い経験がある。
妙に説得力のある台詞に聖はこっくりと頷いた。
「そのためにはいい子にしてなきゃ駄目だぞ」
布団を掛け直し、聖の頭を軽く撫でて、真一は病室を後にした。
廊下を歩きながら、大事な姉についている悪い虫を片っ端から退治する弟が、莉奈にいたと思い出した真一だが、彬もまさか、幼稚園児に本気にならないだろうと思い直す。それでも用心に越したことはないだろう。
なにしろ策謀は密にしてなるものだから。
渡り廊下から見える空は黄金色に染まっていた。
それを見つめる河口真一の表情はいつか真剣になっていた。