第三章 天使
「偲までそんなこと言うんだ」
掃除当番でやってきた音楽室で、莉奈がむくれた。
竹本偲は業務用の掃除機のコードを本体に巻きつけながら、親友を顧みた。
「だって、自分の人生でしょう。なんで他人に左右されなきゃならないのよ」
「莉奈が歌いたいんだよ? それなのに?」
「死んだ神沢俊広のためにね。それじゃ主体性ってものがない」
偲は容赦なく言った。
「主体性って、何?」
「自分の意志ってこと」
「だから自分の意志だってば」
むきになる友人に偲は深いため息をついた。
神沢俊広の亡霊に取りつかれていることに、莉奈は全く気づいていない。
それはある意味仕方がないとは偲も思う。
生まれた時から莉奈を見てきたのだ。莉奈にとって、[俊ちゃん]は王子様であり、絶対の存在だった。神沢俊広の死により、それはほとんど呪縛になっている。周りの大人たちが躍起になる気持ちが、偲には手に取るようにわかった。
「莉奈はそもそもなんで歌手になりたいの?」
「なんでって決まってるじゃないの」
「[俊ちゃん]に言われたからって言うのはナシね」
ぴしゃりと言い切る偲に莉奈は押し黙った。
「ほら、言い返せない」
「偲の莫迦」
「なんとでも。だいたい、あんたなんて今更歌手にならなくたって、そこら中で好き勝手に歌ってるじゃない。どうしてそれじゃいけないの? 好きなことを仕事にしたら碌なことにならないって、優子ママや由之君を見てればわかるじゃない」
いつも締切りに追われている小説家の母親を思い浮かべてか、莉奈はなんとも言えない表情をした。
「でも由之君は楽しそうじゃない」
「あれでも煮詰まるとヒドイの莉奈だって知ってるじゃない」
「莉奈、歌を歌ってつまらない思いしたことないもん」
「……そりゃそうでしょうとも」
偲だってつまらなさそうに歌う莉奈など、生まれてこの方お目にかかったことはない。
こんな議論自体、意味がないと思うくらい、歌っている時の莉奈ほど楽しげなものはない。それを見た人間は誰もが、莉奈にとって幸せな瞬間は歌っている時だと思うはずだ。だからこそ、あの歌声が金銭でやり取りされることが、偲には釈然としないのだ。
「私だって、由之君の歌を子守歌に育ってきたけど、一度も歌手になりたいと思ったことはないよ。歌うのは嫌いじゃないけどね」
たまにノークレジットで由之のレコーディングに参加している偲である。まあ、それは莉奈も同じだ。遊びに行ったレコーディングスタジオで、ミュージシャンの気まぐれでレコーディングに参加したなんてことは、結構ある。
だから、自分の曲をレコーディングするようになるのは、莉奈にとって全く自然の成り行きだった。だからこそ今更難しいことを言われても答えようがなかった。
「時間、大丈夫?」
ぼーっとした顔で考え込んだ親友の顔を覗き込んで、偲は訊いた。
「何とかって子のために歌うんでしょう? ……私もついてこうかな」
「えっ?」
「別に構わないよね。久しぶりに河口先生にも逢いたいし。そうしようっと」
勝手に決めて、偲は掃除機を掃除用具入れに片付けた。
それに気づいた莉奈が慌てて雑巾バケツを持ち上げ、意外な重さに足もとをふらつかせた。
「零さないようにね」
偲の言葉に反射的に「いーっ」って顔をして、莉奈は廊下へと足を向ける。雑巾を洗って空のバケツと一緒に掃除用具入れに終えば掃除は完了する。壁の時計の針は四時に差しかかっていた。
時計を睨んで難しい顔をしている莉奈に、偲はとどめを刺した。
「時計見たって時間は戻らない。ほら、急ぐ」
ふて腐れた顔で莉奈は水洗い場に向かった。
☆
病室の前で足を竦ませた少女を、真一は痛々しげに見つめた。
「……ここ?」
縋るような目を向ける莉奈に、真一は頷き返す。
「だってここ」
56の部屋番号を見つめ直し、莉奈は下唇を噛んだ。
「仕方がないよ、莉奈。ここは病院なんだから、患者が死んだからっていちいち開かずの間にはしてられないでしょう?」
結局、莉奈と一緒にここまでついてきた偲の台詞に真一は苦く笑った。
「なんか身も蓋もない言い方だね」
「でもほんとでしょう?」
偲もこの医院が掛かり付けだ。生まれた頃からの付き合いからか、それともそういう性格なのか、率直な意見に真一は苦笑しつつ頷いた。
「さあ、入りましょう? 子供を待たせちゃ可哀相よ」
偲は思い切りよく病室のドアを開けると、莉奈の手を引いて中に放り込んだ。
呆気に取られてそれを見ていた真一がぽつりと言った。
「お見事」
「どういたしまして」
二人の会話が子供の歓声にかき消された。
☆
久村聖はいきなり部屋に押し込まれた[お姉ちゃん]をびっくりした顔で見つめた。
昨日見かけたピンクのコート。母親が大事にしているガラスケースに入ったお人形さんのように、肩で切り揃えられたまっすぐな黒い髪。同じ色した大きな瞳。長いまつ毛がゆっくりとまばたきするのを、聖は茫然と見ていた。
その表情が徐々に明るさを増す。
「本物だ……。本当に来てくれたんだ!」
手放しで驚く男の子に、莉奈は思わず笑みを零した。
それを見て、聖はまた嬉しそうにはしゃぐ。
「ほら、先生ちゃんと約束守ったろう?」
真一が声をかけると、聖はきまり悪そうに目をそらした。
「先生は嘘つかないでしょう?」
不思議そうに見上げる莉奈に、真一は意地の悪い笑みを浮かべた。
「莉奈がなかなか現れないから、こいつ僕が嘘ついたって拗ねたんだ」
「だって」
ベッドの上でふくれ顔をする男の子に、莉奈はピンクのコートを脱ぎながら言った。
「ごめんね。今日、掃除当番だったの」
コートの下に現れた真新しいセーラー服に聖は目を丸くした。
長袖の上着に、大きな白いセーラーの襟。ブルーのラインが二本。その下は今時珍しい膝下十センチの正当な長さの箱襞の巻スカートだ。学年によって色の違うスカーフで、一年生の莉奈は鮮やかな赤を結んでいた。提灯のように長袖をタックして止めた袖口に襟と同じラインが入っている。
「お姉ちゃん、中学生だったの?」
「うん、春から中学生だよ」
「って、いくつ?」
「今は十二歳、今度十三」
軽く胸を張る莉奈に、聖は少し困り顔になった。胸を張っても胸元は全く目立たないので、セーラー服に悩殺されたとも思えないが。
「そんなに上だと思わなかった」
「そうだよね。莉奈、制服着てなきゃ、中学生に見えないもんね」
同じように脱いだコートを同じセーラー服の長袖に包まれた左手に掛けた偲が言った。
ベリーショートの偲は、セーラー服姿でも、男装の美少女に見え、プリーツのスカートを袴のように着こなしていて、凛々しい。見事に好対象な二人だ。
「そんなことないもん。ねえ、先生」
「そうして睨むうちは無理だね」
笑顔で意地悪な台詞を吐く真一に、莉奈はますますむくれた。
そんな莉奈を放って偲はベッドに近づいた。
「どうして、莉奈が上だとボクは困るのかな」
知らない[お姉さん]に子供扱いされて聖はむっと偲を睨みつけた。
「ボクじゃないよ。聖だよ。お姉さん、誰?」
「竹本偲。莉奈お姉ちゃんの友達」
「先生、なんでこの人までいるの?」
完全にふて腐れた聖が真一に噛みつく。
「私が邪魔なような言い方だね」
「うん」
素直に頷いた聖に、偲が本気でむっとするのを真一は面白そうに見つめた。
「色ガキが、莉奈と二人きりになろうったって、そうはいかないよ」
「偲、子供相手に何言ってるの?」
さっきの話題をすっかり忘れて莉奈が口を挟んだ。
「だって、先生が早めにツバ付けとけって」
「河口先生、こんな子供に何吹き込んでるの?」
「ツバってなあに?」
真一は二人に同時に詰め寄られたものの、見事なまでに違う反応に爆笑した。
「なんで笑うんだよ」
ベッドの上からの抗議に莉奈も大きく頷く。
まだ笑っている真一とベッドの上の色ガキ、そして話題の中心にいながら何も気づかない天然ボケの親友を順に見て、偲は一人深いため息をついた。
☆
「で、何を歌う? 私が知ってる曲なら何でもいいよ」
笑うだけ笑った河口医師が看護士に呼ばれて病室を出た後で、莉奈はそう訊いた。
「でも」
いまだに病室に居座っている偲を嫌そうに見つめる聖に、莉奈は笑いかけた。
「大丈夫よ。このお姉ちゃんがおっかないのはいつものことだけど、実際に噛みつかれたことはないから」
「……私はマルチーズか」
「違う。芝犬だよ」
真顔でそう断定する親友に、偲が不審気な顔をする。
それに向けて莉奈は続けた。
「だって偲、髪短いじゃない。マルチーズって感じじゃないよ」
何とも言えない表情で黙り込む偲に、聖は尊敬の眼差しを莉奈に向けた。
「莉奈お姉ちゃん、すごいや」
「ね? 大丈夫でしょう?」
「……莉奈、それなんか違う」
偲の呟きはあっさりと無視された。
「じゃあね、あの歌、うんとね。前に莉奈お姉ちゃんが歌ってたの」
「莉奈、何歌ったっけ?」
そう問われて偲はうなった。
「あんたが何歌ったか、いちいち覚えてる訳ないでしょうが」
「あのね。服の歌」
大きな瞳で聖が言った。
「服って、着るものの服?」
「うん、それ」
少し考えこんだ莉奈は、やがて、一つの歌を唇に乗せた。
★
電話では逃げられるからね
待ちぶせしたの 夏の午後
突然でごめんね
どうしても逢いたくて
辛い恋したくないのに
何故 あなたなのかな
春の雨の日に 別れた日は
冬服だったから
短くした髪に
白い夏服が 似合うでしょう
友達としか思えないなら
何故まぶしそうに目をそらすの
夏風が 切った髪を 腕にかけた上着を
スカートを揺らす
今でも あなたが好きですと
喉元まででた声 飲みこんだ
受話器越しなら笑ってたのに
煙草のけむり 目にしみる
強引でごめんね 顔が見たかったの
困った横顔でもいい
夢でさえ 逢えないのなら
舗道歩く彼 腕組む彼女
幸せそうに過ぎる
花も散ったのに
白い夏服に 想い隠している
気まぐれでもかまわないわ
嘘でも好きだと抱きしめて
夏風が 見つめる瞳に
言いかけた言葉に あなたに吹いた
今でも あなたが好きですと
言えずにうつむく私 困らせてる
白い雲 見上げて
あなたが あやまるから
余計辛くなる わがままでごめんね
半袖の腕に少し冷たい風
上着を着せかける手をとって
そっと頬よせた
夏風が 切った髪を 腕にかけた上着を
スカートを揺らす
今でも あなたを愛してる
瞳に込めた想い 抱きしめて
★
「これで良かった?」
[夏服の午後]を歌い終えてにっこり笑う莉奈の横で偲が呟いた。
「確かに服の歌だ……」
偲の呟きをまたしても聞き流して、莉奈はたった一人のオーディエンスを見つめた。
「聖君?」
ベッドの上で聖は夢見るような表情で黙り込んでる。
「もしかして……違った?」
不安そうな莉奈の声に大きく首を振る、幼な子の瞳から涙が零れた。
「え?」
さすがに偲も慌ててその顔を覗き込む。
「ねえ、どうしたの?」
心配そうに見つめて言う莉奈に、聖は涙でぐしゃぐしゃの顔を向けて告げた。
「お姉ちゃん……天使みたい。天使が歌ってるみたい」
その言葉を聞いた偲がほっと息をついた。
「この子、よほど莉奈の歌がお気に召したみたいだね。泣くほど感動したようだよ」
偲の言葉に莉奈はわけがわからないという表情をした。
「だって莉奈歌っただけだよ。いつもみたく」
「そうだろうね」
偲はそう言って笑った。
聖の想いを偲は理解できる。
聴く度に[天使の歌声]だと思うから。
けれど、それを傍らで首を傾げている親友にわからせる術を知らないし、またその気もなかった。
わからない莉奈でいて欲しいと思うから。
「もう一曲いい?」
涙に濡れた瞳で聖はねだった。
「何曲でもいいよ。好きなだけ歌ってあげる」と莉奈はにっこり笑った。
聖は嬉しそうに笑った。
その笑顔の主の方が莉奈には天使に思えた。