断章〜追憶〜



 千早が言うように、冬馬はけして悪意があって付き合っているわけではけしてない。
 国許からの追手や刺客から身を守りつつ、都に密書を届けるなんて芸当は、腕に相当自信のある者でさえ命懸けだ。
 そもそも千早の身に余るのだ。千早が剣客でも忍びでもないことは、冬馬のようにある程度そういう習練を積んだ人間ならばすぐにわかる。
 一国の命運を託す役目に、おそらくは真剣による立合すら経験のない人間を選ぶ莫迦はいない。にもかかわらず千早が来たのは、国許にいることで確実に命を落としかねない危険に曝されるからだろう。密書を届けることも重要であろう。だが、それよりもまず千早を国許から逃がさなけばならなかったのだ。それは千早本人が、今回のお家騒動の渦中の人物だからに他ならない。
 その程度の推測は、全くの部外者である冬馬にすら手に取るようにわかる。
 千早が生きていられると困る人間がいる。その一方で千早を傀儡にすべく画策している人間もいるはずだ。
 いずれにせよ、千早の身は危険に曝されている。冬馬がここで手を引いて千早が五体満足に都の土を踏めるかどうかを考えると、甚だ心もとない。
 ましてや、千早が一人旅はもちろん、おしむらくは自分で飯を炊いたことさえないのだと、冬馬は気づいてしまった。
「とは言え、むやみやたらに手を出しても、逆にこいつのためにならないだろうし」
 つい独り言が口から零れてしまう冬馬は、確かに優しすぎる性格なのだろう。
 千早の寝顔を見つめながら、冬馬は何故か、遠い昔のことを思い起こしていた。まだ、頑是ない子供だった頃の……。

 ――冬馬、私は今この本が読みたい。だから、あとで遊ぼう――
 そう言ったはずの恭之介が、外から帰るといなかったことがあった。母に問うと、双子を誘いに来た幼馴染みの右京と遊びに行ったと言う。
 親戚一同の反対を押し切って、双子の弟である恭之介も一緒に育てた両親だが、別け隔てなく育てても、やはり公の立場では冬馬が榊家の嫡男で恭之介は冷や飯食いの次男である。
 名を聞いただけではまず双子と思わぬように名付ける等、両親がいくら努力してもやはり限度はあった。周囲が嫡男である冬馬と次男の恭之介を区別するからか、生来の性格の所以なのか。冬馬は明朗活発だが、恭之介にはどこか線の細い所があった。早い話、見知らぬ子でもすぐに仲良くなる冬馬と、いつも兄の影に隠れる恭之介といった状態だったのだ。
 その頃、伊摩南寺に母親の奈津と参詣に行った双子が出逢ったのが、その寺の住職の一粒種である右京だった。
 梅の花が真っ盛りの、春の暖かな日だった。奈津は寺の住職と縁側で茶飲み話をしていた。
 住職といってもまだ若く、ちょうど双子の両親と同年代。考えてみれば、今の冬馬より少し上なだけの年齢だ。その水澤右近に、死別した妻との間に右京という名の息子がいた。
 榊家では双子に兄弟以外の友人を与えてやりたいと願っていたし、右近も息子に小坊主以外の遊び相手を欲していた。つまりは互いの思惑が一致したため、花見を兼ねて双子を連れて遊びに来ないかと右近が誘ったのだ。
 数えでみっつになったばかりの双子にとって、屋敷の近所ならともかく、遠くにお出かけするだけで、親同士の思惑等とは全く関係なく嬉しいものだ。
 そんな訳で、満開の梅の木々の間を追いかけっこなどをして遊んでいた双子の前に、もう一人の子供が現れた。その子供は何の屈託もない表情で恭之介の手を取ると、冬馬を置いて走り出した。双子とは全くの初対面のまして子供であった右京が、冬馬に対して何かを感じたわけではないだろう。単に鬼ごっこを仕掛けただけのことだ。
 いつもならその手を振りほどいて冬馬の方に逃げてくるはずの恭之介は、多少驚きはしたものの、たちまち子供と一緒に走り始める。
 一瞬唖然とした冬馬だが、すぐさま正気づくと、負けじと二人を追いかける。
 そうして始まった鬼ごっこに、一番驚いたのは、裏工作の首謀者である奈津と右近だろう。しかし三人が喧嘩もせず、ましてや泣き出しもしないで、ただ夢中で遊びに興じているので、安堵し微笑みあった。
 榊の双子と遊び始めた子供が水澤右京である。右京と出逢ったことにより、恭之介は明らかに性格が変わった。元々冬馬と双子なのだ。快活な部分がより表に出てきたとしても不思議はない。まあ優しげでおっとりとした面がなくなったわけではないのだが。
 右京は元々物怖じするところがなかったのが、大きくなるにつれ悪ガキの素質が表に出てきて、今ではそんじょそこらの優男に太刀打ちできないほどの、どこをとっても立派な色男に成長している。冬馬は明朗活発で面倒見のいい若者となっている。ところが恭之介は甘えん坊の末っ子だった。
 もっとも現在の榊恭之介は優しげで一見脆弱にも思える外見とは裏腹に、かなり頼り甲斐のある男となっているのだが。けれどそれをいうなら、瓜二つの顔を持つ冬馬とて、千早が不安を覚えるほどの優男である。それでも恭之介の方がまだ甘えん坊の印象を受けるのだ。
 それは、冬馬にも責任の一端はある。双子とはいえ兄である冬馬が何かにつけ、恭之介の面倒を見るという理由を付けては構っていたためだ。
 恭之介がずっと幼いままなら、それもよかろう。けれども、手を掛けすぎる親を子供が疎ましく思うのと同じに、自分の世界を持ち始めた恭之介にとって、冬馬は厄介な存在と変わっていった。恭之介が冬馬を嫌いになれたらなら、まだ救われたろう。けれど恭之介は世話好きな双子の兄が大好きだった。
 水澤右京はそんな恭之介にとって初めてできた対等の友人となり、自然、右京と過ごす方が多くなっていった。
 かといって右京と冬馬の仲が悪かった訳ではない。むしろ、右京と冬馬がつるんで悪さをして叱られ、二人に付いていっただけで、ただ見ていただけと言い張った恭之介が、それが事実だったのも手伝い、小言を言われる程度ですむなどということもしばしばだった。傍目から見たら、悪ガキ仲間の右京と冬馬の方が仲の良いように思えただろう。
 あの日、明確な理由は知らずとも、双子の弟が兄である自分よりも右京を選んだのだと、冬馬は正確に理解したのだ。
 普段ならすぐに二人を捜しに行く冬馬が、途方に暮れた顔で縁側に座り込んだので、不審に思った奈津が、具合でも悪いのとかと問うた。
 場合によっては、医者である実兄の元に連れていく気でいた母親から顔を背けるように、冬馬は俯いている。
 ――恭之介は右京といる方が楽しいんだ――
 そう呟き泣き出す息子に、奈津はそんなことはないと首を振った。
 ――恭之介と右京は冬馬を仲間外れにするような、悪い子達じゃないでしょう? 何ともないから、遊んでらっしゃいな――
 ――母上、それはわかってます。ただ――
 なおも言いかけた冬馬を静かな目で奈津は見つめた。
 ――冬馬、いいこと。冬馬は、冬馬。恭之介は、恭之介。あなたが榊家の嫡男とは別なところで、二人は同じじゃないのよ。今はきちんと理解が出来ずとも、それだけは覚えておきなさい――
 いつもとはどこか違う母親の真剣な眼差しに、冬馬は泣くのも忘れ、ただ頷いた。
 それからまもなく、恭之介と右京は、かって奈津が奉公していた大名の若君付きの小姓として、屋敷にあがることになった。冬馬が選ばれなかったのは、行儀見習いを兼ねているとはいえ、嫡男を他家に奉公に出すことが慣例としてなかっただけだ。だが、何はともあれ、冬馬にも理解できる明確な理由で一人取り残され、結果的に双子が引き離されたために、三人の関係が内側から崩壊を見ることにはならずに済んだ。
 そうにもかかわらず。
 ――冬馬。そなたは私を恨んでいるだろうな。あの二人をそなたから奪ったのは、この私なのだから、恨まれて当然だ。けれど、そなたの優しさは、いつか恭之介を駄目にする。可愛い弟のためと思って手を差し出し、恭之介はそれに甘える。そしてそのうち、そなたの手がなければ、生きられなくなる。恭之介が先にそれに気づいた。その利発さを私は買ったのだよ――
 あれは三月。桃の節句を過ぎた頃。
 何の気まぐれか、榊家の私邸にいた冬馬の元に《あの方》が忍んで来たのは。
 それが本当は気まぐれでも何でもなかったことは、後で嫌というほど思い知らされるのだ。そもそも訪ねてきた刻限が、夜盗くらいしか他人の屋敷に忍び込もうとは思わぬ時刻、夜明け前である。
 双子の弟が世話になっているとはいえ、普段遭うことのない大名の若君の、突然過ぎる来訪に、いらぬ心配をした冬馬は寝所から飛び起きた。すなわち、恭之介ないしは右京の身に不測の事態が起こったのではないかと、考えたのだ。
 《あの方》はそうではないと、神々しいまでの微笑みで請け合った。そして、遠い過去となった出来事を深く詫びたのだ。
 ――しかし、こうなってみると、恭之介ではなく、そなたを選べば良かったのかも知れぬな――
 普段の若君に似合わぬ自嘲を帯びた笑みに、冬馬は言葉をなくしてその秀麗な横顔を見つめた。
 美神に愛された青年を、月光が照らしている。
 だが、この方は青ざめた月影より、暖かな陽射しが似合っていたはずだ。辻占ならば、影が薄いとでもいいそうなほど、生気が感じられない。
 ――今のそなたならば、恭之介の良い兄になれるだろう。右京のよい友となれるだろう。私が引き裂いておいて、勝手な言い草だが、二人とも今なら、自分の生き方を見つけられるだろう。冬馬、そなたがそうであるように――
 小姓でいられるのは、元服までと一応の決まりがあった。だが冬馬の叔父で施療所の医師の河口真之介も、北海神宮の宮司で双子が通う道場の師範代の神沢俊尋も、未だに大名家の仕事を優先している。二人もかっては、同じ大名家に小姓として奉公していたのだ。今も尚、この若君の妹姫の守役を拝命したままと聞く。だから、あの二人が正業に就いても、この方との繋がりが切れることはない。
 だが、まるで。
 ――所詮、人は、自らの足でしか歩けぬものだ。そして他人と同じ軌跡を辿ることさえ出来ない。二人にいつか、そう伝えてくれぬか。そして、冬馬。そなたも、この言葉を胸に刻んで欲しい。それが、私に出来る唯一の贖罪なのだから――
 その言葉が、どんな意味を持つのか問いただす前に。
 美しすぎる賓客は冬馬に背を向け、闇の中へ歩き出そうとしていた。
 ――恭之介と右京が私を許さぬ限り、二人を解放したいという私の願いは叶えられぬ――
 独白とも思える呟きは、夜明けを告げる風にかき消され、冬馬は月影の射す桃の花の下に取り残されていた。
 それからひと月がすぎた桜が舞い散る夜、若君は大名屋敷を出奔した。
 その行方はそれから五年以上経た今もなお、杳として知れない。