第三章 雷鳴



 幼い頃の夢に微睡んでいた冬馬を揺り起こしたのは、焚き火が爆ぜる音だった。軽く伸びをした後、それだけではないと気づく。強い殺気が、山小屋に向けられている。傍らの刀を引き寄せ、柄に巻かれた皮の緩みを直した冬馬は、ゆっくりと立ち上がった。
 千早を狙っている追手がようやく追いついたのだろう。北都に目前として、敵も焦っているようだ。賞金目当てのならず者でも雇ったのか、先日やりあった浪人達とは違う気が感じられる。
 山小屋の外ではまだ嵐が続いている。
一瞬の稲光の後、雷鳴が轟いた。
 その音で千早が目を覚ました。或いは、一人山小屋を出ていこうとする冬馬の気配に気がついたのかもしれない。
「榊様、どちらに行かれるのです」
「招かねざる客人の相手をしてくるだけだ」
 軽く笑う男に、千早も刀を手にして続こうと立ち上がろうとした。それを視線だけで、押し留めて冬馬は告げた。
「いいか。俺が戻って来るまで、けして小屋から出るな」
 なおも訴えかけるように見上げる千早に、冬馬はいつもの優しい微笑みを返した。
「こう見えても、多少腕には覚えがある。そんなことよりも、火の番を頼む。雨で濡れたままで、風邪を引いては困るからな」
 わざとおどける冬馬に釣られ、千早は笑みを零す。
 なのに、冬馬が背を向けた瞬間に、引き止める言葉が口をついて出そうになり、千早は下唇を噛み締めた。


 カッコつけて山小屋から出て来た榊冬馬だが、口にしたほど楽観はしてしていなかった。
 土砂降りで地面はここぞとばかりにぬかるんでいるし、風雨は相変わらず強く、その上雷様は景気よく騒いで下さっている。見たところ、敵は賞金稼ぎの浪人共が五名。この嵐でも怯まないところを見るに、それなりに腕に覚えある輩ばかりなのだろう。
 対するこちらは実年齢よりも二、三歳は若く思われがちな若造だ。
 浪人共が冬馬の外見に惑わされて、容易にあしらえる相手だと侮ってくれたとしても、人数が少々多すぎる。普通であれば、はなっから勝ち目はない。冬馬としても、千早がいなければさっさと逃げ出すのだが。
 理屈ではなく、冬馬は千早を放っておけなくなっていた。
「困ったな。刀傷沙汰は趣味じゃないのだが」
 などと思わず愚痴が零れるが、表面は不敵なほど静かだった。
「こうなれば、先手必勝しかあるまい。鞍馬山の御曹子を見習うとするか」
 凛とした声で言い放つなり、冬馬は忍者の如く木陰へと飛びんだ。
 背後から斬りつけてまず一人、それから仲間が倒れたと気がついてやってきた男を突き刺す。異変に気がついた一人の浪人が冬馬の殺気に反応し、凶刃を振う。それを交わし切れずに冬馬は大木に追い詰められた。首筋に突き付けられた刃を間一髪で避けたものの、刀を振うだけの余裕はない。ここで死ぬわけにはいかない。
 その強い思念が冬馬の瞳の色を変えた。
 焦げ茶の色の虹彩が深い碧を染まりかけた、その瞬間。
 稲光が黒雲を裂き、男の目を眩ませた。その隙をついて、冬馬は相手を肩からざっくりと斬り倒した。
 そもそもこのような雷雨の中で紛うことなき金属である刀を手にし、斬り合いに及ぶこと自体、自殺行為なのだ。こんな風に死にそうな目にあっていても、冬馬は生きている人間を恐れはしない。例え相手がどんな剣の使い手であっても、怯む男ではない。
 けれど流石の榊冬馬とて雷様には敵わない。いくら、柄に皮を巻きつけ避雷処置を施していても、宙を舞う刀身に落雷したら一溜りもない。
 荒い息をついて、冬馬は残った刺客を睨つけた。
 稲光にその姿が浮かび上がる。浪人共には、冬馬の身体から青白い炎が立ち上がっているように思えただろう。
 抜き身の刃の如き光。手を触れるものを皆傷つけずにはおかぬ危険な輝き。
 事実、冬馬は全身に殺気を纏っていたし、浪人共も、これが威嚇などではないと、腕に少しでも覚えがあれば、本能的に悟っていた。
 無傷でしかも手練のはずの刺客達は、一様に脅えた顔で自分達の半分も生きてはいないはずの若造を見つめた。皆その剣の腕ひとつで、血と闇の世界を生き抜いて来た者ばかりだ。ただの一度も刀を交えずに、こんな若造に負けを認めるなんてならない、はずだった。
「これ以上、やる気がないなら、こいつらを連れてとっとと立ち去れ。運が良ければ命だけは助かるはずだ」
 冷厳たる声色で淡々と冬馬は告げた。
 母方の叔父が腕のいい医者である。素人判断で言ってるわけではない。けれど、浪人共にとっては、それは紛れもない恫喝だ。
 その証拠に、冬馬はこう続けた。
「あいつの抱えた秘密を知ったこの俺を、おまえら、どうせ生かしておくつもりもないのだろう。俺も、この先、いちいち刺客につけ狙われるのも面倒だ。だから、明日、未の刻、円山の関の雑木林で今日の決着をつけてやる。逃げも隠れもしないから、用のある奴は水杯を交してから来るんだな」
 刺客達を思い切り挑発すると、冬馬はあっさりと踵を返した。一瞬無防備に見えるその細い背に斬り付けても、返り討ちに合うだけと悟った浪人共は、案外感心なことに、傷ついて動けずにいる仲間を背負ってその場から去った。


 夜半、悪い夢を見て、榊恭之介は飛び起きた。まるで冷たい雨にでも打たれたように、全身汗ばんでいる。
 そういえば雨はいつやんだのだろう。夢の続きを追うように耳を澄ました恭之介は、今夜は雨など一滴も降っていないと気がついた。  では、今のは?
 悪い予感から身を守るように、榊恭之介は自らを抱きしめた。
「……冬馬! あの莫迦、死ぬ気か?」
 恭之介は寝床から立ち上がると、身仕度を整えた。廊下に出て、叔父の居室へと足早に向かった。
 翌朝はどこまでも澄んだ晩秋の空が広がっていた。明けたばかりで、東の空には大きな朝日が浮かんでいる。
「では叔父上、後はよろしくお願いします」
 不満をありありと表情に出しながらも、渋々と頷く河口真之介に深々と礼をすると恭之介は北都施療所の表門を出た。未練がましく外まで甥を見送りに来た真之介は、門前で恭之介を待ち受けていた人影を目にして更に不機嫌になった。
「おはようございます。珍しいですね、神沢様。このように、夜も明けきらないうちのお出ましとは」
「大方、どこぞの娘と後朝の別れをした帰り道だろうさ」
 そう毒づく悪友に冷たい一瞥をくれると、神沢俊尋は恭之介に笑顔を向けた。
「おはよう。そちらこそ珍しいな。刀など差して、恭之介、どうしたのだ」
 そういう神沢も、朝帰りという雰囲気ではない。粋な宮司が浪人姿に身をやつすのは珍しくもないが、今日は至って地味な色の着物を身に纏っている。その腰には太刀と脇差、小柄まで装備している。
「実は、夕べ冬馬の就任に先立ち、祝い事の下準備をしていたら、突然、神託が降りたのだ。……どうやら恭之介も感じたようだね」
 恭之介はこっくりと頷いた。
 母方である河口家は、溯れば巫覡が何人もでたという家系だ。昔は祈祷師は医者と同義だった訳で、河口真之介が医者なのは家代々の家業だからだ。そのため血筋のせいか、普通の人よりは第六感強い。ましてや自分の片割れに関わることだ。
「では、間違いないな。ならば、参るとするか」
「待て」
 颯爽と歩き出すべく、施療所の表門に背を向けようとした二人の背に、真之介が声をかけた。
「虫の知らせなら、奈津も感じているのかも知れないぞ」
 そう言い残すと真之介はさっさと門の中へと消えた。
 残された二人は顔を見合わせた。
 そう、我が子の危機を母親が察していても不思議はない。
「……ありえますね。ではこうしましょう。私は役宅に寄って、母上の様子を見てから追いかけます。申し訳ありませんが、神沢様は右京を連れて、裏道を急いで下さい」
「それがよい。奈津はお前に任せる。くれぐれも無茶をさせるな」
 恭之介は深い溜息をついた。
市井の普通の母親は、子供の身を案じても、自ら刀を腰に差して、力づくで我が子を救いに行こうとはしないだろう。だが、奈津は違う。
 ひよっとしなくても、双子の兄の助太刀をするよりは、我が子の窮地を感じ、自ら救いに行こうとする母を説得する方が数段難儀だと恭之介は悟っている。
 その気持ちは、神沢にもよくわかる。
「ええ、出来るだけのことはします」
 そう口にしつつも、自分と替わってくれなはしないかとその瞳で訴える恭之介に、神沢はあっさりと手を振った。
「じゃ、頼んだぞ」
 諦念した顔で深い吐息をつくと、恭之介は奉行所の方へと歩き出した。その背中を笑顔で見送った神沢は、恭之介の姿が視線から消えるなり厳しい顔で呟いた。
「……冬馬の奴、随分と物騒な手土産を用意してくれたじゃないか」
 天空にはそんな心中を返って逆撫でしかねないほど、爽やかな晩秋の空が広がっていた。