MY INFORMATION & DIARY

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悲しい出来事1
2002.8.15(木)
去年のハワイ島でバケレン宿泊した際にお世話になったエドワードさんの悲しいお知らせを、掲示板でちょっと報告しました。
その時の経緯を少しお話します。

行く前からフレグラントツリーファームと連絡が取れなくて、今年のハワイ島はあそこに宿泊するのを断念しました。メールもリターンで帰ってきて、FAXも「応答ありません」となっていて、少し心配になりました。
例のテロ以後、ハワイの観光客は激減しており、アメリカの景気もよくありません。大きな農園ですが、バケーションレンタル自体をお止めになったのかも?それとも売却されたのかも?いや・・ご年配だったのでもしかしたらご病気かも??
などなど、なんだかちょっと心配でもありました。
特に「寄る」事は決めていなかったのですが、ダンナ様がコーヒー園を廻った後「せっかくキャプテンクックまで来たから、寄ってみよう!様子をうかがってみよう」という事で、フレグラントツリーファームへ寄ることにしました。

細い道を入り、ファームの敷地内ゲートを入ると納屋のような建物と、平屋の住居が並んでいます。納屋のような建物のドアに「オフィス」と書かれていてあの時と同じように「welcome!」の張り紙がありました。オフィスのドアをノックしても返答はありません。そっとドアを開けると、デスク周りは長い間使われていない様子でした。諦めてあたりを見回すと、生活はされている様子で、ダストボックスにはゴミ袋がきちんとセットされていて、マットも干してある、可愛い黒ネコちゃんが「だれ?」ってふうに日向ぼっこをしている・・。でも人が居ない・・
去年の今ごろは農機に乗った作業の人や子供や近所の人らしき人がここに居た。
まるで時が止まったように、しんとしている・・。

去年、日が暮れてハウスへ戻って来たときに、住居の方でエドワードさんがPCに向かっていた姿があった。その住居の方に行ってみた。
LAX とプリントされたバッゲージクレームタグがついたトランクが1つ、ベランダに置かれていた。外から見える室内にもトランクが閉じたまま2個。失礼ながらもタグを見ると「シャロン/ハート」というお名前が読み取れた。エドワードさんの物ではないのは確かだ。

どこを見ても、人が居ないので諦めて帰ることにした。
ダンナ様も「きっとオーナーさんが変わったんだよ、仕方ないから帰ろう」と言い、二人で車に戻って来た道を戻ろう車を動かした時・・・

「May I help you?」と、大きく叫ぶ声がした・・・
 

悲しい出来事2
2002.8.15(木)
その声に私1人だけ「ちょっと聞いてくる」と車を降りた。
声の主は、洗濯物のタオルを抱え不思議そうに私を見てさっきと同じ言葉を今度は普通の声でもう一度私に言った。「May I help you?」
私は「エドワードさんに会いにきました」と笑顔で答えた。
・・・・
ちょっと間を置いて彼女の口から出た言葉は「He’s died・・・」

英語でこんな言葉をじかに聞く事なんて、想像も出来なかった。
ショックだった、鳥肌が立って、この後どう言って良いのか言葉が出て来ない・・
頭の中では去年の思い出が走馬灯のように廻っていた・・
「I ’m sorry」・・私の口から出た精一杯の言葉がその一言だった。
そんな私を彼女は、優しく抱きしめてくれた。温かかった・・

そのまま、御礼を言っておいとましようと思っていたが、私がなぜここに着たのか少し説明したら、ウェブサイトとメールアドレスを教えてあげるといってきた。
その時初めて彼女は「私はシャロンっていうのよ」と握手を求めてきた。

<私は恥ずかしかった・・人に物を聞く前にまずは自分から名乗る!そんな事も出来なかった自分が恥ずかしかった。>

しっかりと両手で握手をしシャロンさんの目をみつめ名前を名乗った。
シャロンさんは住居の方に私を招き、メモにアドレスを書いてくれた。以前と同じアドレスだったが、今対応してくれている人の名前もメモに書いておいてくれた。
住居の中に初めて入って、エドワードさんの死がとても急だったのではないかと推測された。多分シャロンさんも何かしらの用事で本土から戻ったばかりなのではないだろうか?トランクは3個ともまだ開かれていないままだった。

  

悲しい出来事3
2002.8.15(木)
シャロンさんは、「来年はこちらに来てね!」と私に笑顔で言ってくれた。
「予約はメールでできるし、ちゃんと泊まれるから・・」とも付け足してくれた。

シャロンさんに御礼を言い外に出ると、いつのまにかさっきの黒ネコちゃんが傍に来ていた。「可愛いネコ」・・・笑顔でそんな事をシャロンさんに言って、もう一度御礼を言い、車に戻った。シャロンさんは最後まで手を振ってくれていた。

状況がわからないまま車に残っていたダンナ様は戻って来た私に「どうだった?」と聞いてきた。
「あのね、エドワードさん亡くなったそうよ・・今ねシャロンさんって人に今後の予約とか色々教えてもらったの。」言葉がなんだか上手く出て来ない、溜息ばかりだ・・
私の言葉にダンナ様も「そう・・」と驚きを隠せない様子。そして二人で溜息・・
娘には「エドワードさん亡くなったんだって」というと、彼女も言葉を無くしていた。

初めて、家族にレイを掛けてくれた人。
ハワイに家を持ったらどうだ?と冗談なのか本気なのか言ってくれた人。
日本から持参した藍染めのお土産をとても喜んでくれた人。
彼の採ってくれたマンゴーとライムは美味しかった。
メインハウスに入って家族で歓声を上げたとき嬉しそうな笑顔をみせてくれた。
帰国日前日に「最後の夕陽を楽しんで」と笑顔で声を掛けてくれた。
出発の朝、笑顔で手を振って見送ってくれた。
帰国後、御礼のメールを出すと、「またおいで!直ぐにでも!」と返事をくれた。

悲しい知らせを聞いた後、コナのハウスへ戻ってダンナ様と色々話をした。
人との出会いは一瞬一瞬もっと大切にしないといけないと思った。このハワイ島が大好きな理由を色々話しした。

楽しいことや嬉しかった事を思い出すとき、必ず周囲の人達の笑顔も思い出す。
私は人に「笑顔」を思い起こさせる人であるだろうか?
エドワードさんの笑顔を思い出しながら、夫婦で久しぶりに沢山の夢を語り合いコナの夜はふけていった。

エドワードさんのおかげで、又新しい出会いがあったことを感謝して。
 

ハワイから帰って
2002.8.14(木)
ハワイから先週の金曜日に帰国しました。
今回の2週間滞在は今までで最長です。大袈裟ですが「暮らす」という感覚を少しだけ感じたような気がしました。

毎年、ハワイから帰ると「又、すぐにでもハワイに行きたい」と思うのが常です。
日本は自分の育ったところであり、北海道は大好きなんですが・・

成田に着いて、われ先にと席を立ち先を急ぐ人達。
預りの荷物が出てくるターンテーブルのまん前でカートを持ち荷物待ちの壁を作る人達。

スーパーの身障者用スペースに、何の疑問も無く車を止める健常者の人達。
ドアを開けると、待っていたかのように入り込んでくる人達。
ロボットのようにマニュアルどおりの事しか言わないスーパーのレジ係りの人。

日本人だけが悪いって事じゃなくて、欧米人でもどこの国でも悪い人はいるし、マナーを守らない人、非常識な人、勝手な人は一杯いる。みんながみんなフレンドリーな人ってわけでもないけれど・・・
でもね、なんでこんな風に感じるんだろう?なんかとてもすさんだ気持ちになるのはどうしてだろう?

毎年、何故か、夫婦揃ってそんな風に感じます。
車を運転していてダンナ様が言いいました「H1の車のスピードは確かに凄いけど、札幌の道路はスピード違反以前の問題。なんだかとても危ない、人も車もみんなあまりにも自分中心な動きしかしていない」。
いつかはよくなるんだろうか???
なんだかとても心配な子供たちの未来・・・。


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