猫の手 (3)


 二人の都合と希望を調整した結果、食事会はクリスマス前の平日の夜になった。
 待ち合わせは目当ての店の前。
「こんばんは」
 現れた槇さんはキャメル色のコートに、あの白いマフラーをしていた。触れた指を思い出し、条件反射的に胸が高鳴る。
「待った?」
「いえ、今来たところです」
 そう答えたが、実は家にいても気が落ち着かず、さっきまで近くのコーヒーショップに長居していたことは秘密だ。
「……」
「どうかしましたか」
 ダウンジャケットにジーンズという俺の姿を上から下まで眺めていた槇さんは、
「私服だと新鮮だなって」
 と言った。たしかに、彼とはバーテンダーの格好でしか会ったことがない。ペットショップに行く時は一度店に出勤してからだし、店では言わずもがなだ。しかも今日は、いつものように髪を固めたりもしていない。
「ひょっとして、思ったより若い?」
 ……言われると思った。
「25歳です」
「えっ」
 俺の返答に、彼はあからさまに驚いた。
「ええー、同じか、ちょっと上くらいかと思ってた」
「槇さんはおいくつですか」
「27」
 二年越しの謎がついに解けた。

「いらっしゃいませ」
 奥にある暖炉が存在感を放つ店内に入ると、顔も名前も知っている初対面の店員、武川のぞみさん(学生バイト)が席まで案内してくれた。
 時節柄、暖炉の上にはディスプレイ用の大きな靴下がぶら下がり、その横にはクリスマスツリーとプレゼントの箱、随所にモミの枝と赤いリボンのシンプルなガーランドが飾られ、各テーブルにもヒイラギと赤い実でデコレーションしたキャンドルが配されている。ペンダント型の照明といい、ロマンティックなアレンジのピアノBGMといい、ここは紛うかたなき「デートにはぴったりの店」であり、それを証明するかのごとく、俺たち以外の客はすべて男女のカップルだった。
「フォンデュセット頼んでいいかな」
 緊張しまくる俺とは対照的に、槇さんは慣れた様子でメニューを眺めている。
「お任せします」
 自分が誘ったというのに不甲斐ないが、もういいや俺、年下だし。わかったのさっきだけど。
「飲み物は白ワインがいいな。今日は宮野くん、仕事休みなんでしょ」
「はい」
「じゃあ、ボトルで頼もうか。何かおすすめはある?」
 おお、お任せください。酒なら専門分野です。
「そうですね……、あ、この『カッツェンコップ』とか」
「カッツェって、ドイツワインだよね? 僕、食事と一緒なら辛口の方が好きなんだけど」
「いや、シュヴァルツカッツェなんかは甘口が多いですけど、これは辛口ですよ」
「そうなんだ。僕、ドイツワインって甘いもんだと思ってた」
 注文をすませ、やってきたボトルを見て槇さんは驚きの声を上げた。
「え、これワイン?」
 その感想の通り、丸くてずんぐり、前後に扁平な形をした変わった瓶は、ワインというよりブランデーか何かを思わせる。
「『ボックスボイテル』っていう、フランケン地方独特の瓶です」
「へえ、おもしろいね。あ、猫だ」
 猫のイラストが描かれたラベルもこのワインの特徴。俺が彼にこれを薦めた理由の一つだ。
「『カッツェンコップ』は『猫の頭』という意味で、ブドウ畑の名前から来てるんです。遠目に見ると猫の頭のような形の畑なのでそんな名前がついたそうですよ」
「すごい、よくご存知ですね、お客様」
 バイト歴一年、日々勉強中!の武川のぞみさんに感心された。
「バーテンダーなので」
 槇さんと武川さんの手前、「ボックスボイテル」が「山羊の陰嚢」という意味だとは言わずにおいた。マスターあたりならこういうきわどいネタも楽しく語れるのだろうけど、俺はまだ修業が足りない。

 人に酒を注いでもらうのはなんとなく落ち着かないが、お客なのだから仕方ない。武川さんの注ぎ方に心の中で点数をつけたりしつつ、気を紛らせる。
「じゃ、乾杯しようか」
「はい」
「あれ、お疲れさまってのも変だな。えーっと、今日は誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
 グラスを合わせる。一口飲んだ槇さんが、口元をゆるめた。
「おいしい。濃厚だけど、酸味がさわやかだね。これなら食事に合いそう」
 気に入ってもらえた様子に、心から喜びを感じた。相手の好みの酒を推測し、提供したいと思う気持ちはもう俺の習性のようなものだ。ましてやそれが気になる相手なら――
「よかったです」
「ところで宮野くんは、僕のこと好きなの?」

 ……むせた。
 でも飲んだ後でよかった、飲む前だったら絶対噴いてた。

 水を飲みつつ、激しい咳をなんとか押さえ込む。槇さんは申し訳なさそうな顔で
「ごめん、タイミングが悪かった」
 と言い、しかし、きっぱりとした態度で続けた。
「でも、この際だからはっきり知りたいなと思って」
 顔が赤くなっているのはむせたせいばかりではない。俺はしばらくうなっていたが、開き直り、覚悟を決めた。
「はい、好きです」
――そっか」
 彼は、驚いた風もなくそう言った。質問というより、確認だったのだろう。
「僕がゲイだってのは気づいてる?」
「……はい」
「僕のこと、どのくらい知ってるのかな」
 淡々と続けた。
「僕が、自分の親ほど年の離れた人と不倫ばっかりしてる、最低の愛人体質だっていうのは?」
「、それは」
 自虐的な表現ではあったが、まあそのようなことは、バーで語る内容からちょっと、予想されてはいた。
「そうだな、こないだ話してた、小川さんみたいな。あれくらいの年の人が多い。ちょっと年齢層上がって、マスターぐらいの人も。ああ、誤解しないでね。『麦番』は僕の聖域だから、あそこで会った人とそんな関係になったことはないし、なりたいとも思わない」
 常連客が使う略称で、うちの店を呼ぶ彼。痛みが走る。
「それは、俺ともそんな関係になる気はないってことでしょうか」
「うーん、ていうか、まず、全然好みじゃないんだ。こんな若くて真面目でまっすぐで誠実そうな人なんて」
 ……喜んでいいのか悲しんでいいのか。
「ただね、」
 槇さんは一旦ワインで喉を湿らせて、また口を開いた。
「宮野くんに関しては、何か、ひっかかってるんだ。なんだかわからないんだけど。それが何かわかるまで、イエスともノーとも言えない気がする」
「……望みはあるってことですか?」
「早くはっきりさせた方がいいのはわかってるんだけど」
 揺れる液面をじっと見つめていた目が、伏せられる。
「ごめん、優柔不断で」
 彼が謝罪の言葉を口にしたとき、ちょうど、料理が運ばれてきた。

 アルコールランプの上で、くつくつと温まっているチーズの鍋。
 そう、フォンデュは「二名様より」。つまり槇さんは、この店でこれを食べるとき、常に他の誰かと一緒にいたということだ。
「あの」
「なに?」
「今、その、誰か、おつきあいしている人はいるんですか」
 柄の長いフォークでパンの欠片を刺す槇さんに、思いあまって聞いた。彼はあっさり、
「いないよ」
 と答えた。
「僕は、モラルに反してる駄目人間だけど、それでも、二股はかけられない性格だから。もしいたら、今ここにも来てない」
 そして、自嘲気味に笑った。
「たいてい、この時期は独りなんだ」
 俺はそれから言葉が継げないまま、パンにチーズが絡まるのを見ていた。
 ……話を変えよう。
「槇さんって、すごくお酒強いですよね」
「そうかな」
「そうですよ。俺より飲んでるのに、全然顔に出てないし。店でも、かなり度数が高いカクテル出しても平然としてるし」
 バーテンダーという仕事柄、酔っ払いの相手をする機会は多いが、俺は今まで、彼の酔っ払った様子を見たことがない。
「まあ、そうだね。すごく、とまでは言わないけど、強い方かな」
 そう言いながらまた、グラスに口をつける。
「昔は、羽目を外したこともあったけど……そうだな、最近はもう、酔いつぶれたりとかないな」
 そして、ボトルに目をやり、
「猫も飼ってるし。帰らないわけにいかないからね」
 うっすら、笑みを浮かべた。
「トムが来てから、減ったんだ」
「トム?」
「猫の名前」
「減ったって、お酒が?」
「お酒も、不倫も」
 置かれたグラスから、まだ手は離れない。
「僕は……、昔、ちょっと、いや、だいぶ歪んじゃって」
 遠い目。
「乾きを満たすために、そういう関係に走って。でもそれは本当に欲しいものじゃないから、満たされない。理屈ではわかってるのに気持ちはついていかなくて、何度も同じことを繰り返してる」
 再び、グラスのステムに指をかける。
「でも、トムが、その歪みを少しずつ、直してくれてる気がするんだ」
 持ち上げ、
「……今、なにか、思い出しかけたような」
 口に運んだ。

 満腹になって店を出る頃には、ワインのおかげで、ちょっと気が大きくなっていた。マフラーを調えている槇さんに向かい、思いきって尋ねる。
「槇さん、お住まいはどちらですか」
「この近くだよ」
「あの、送らせてもらってもいいですか」
「……うん」
 男を相手に送るも何もと言われてしまえばそれまでだったが、彼は了承してくれた。でも、ほんとに送るだけだ。少しでも長く一緒にいたいだけ。
 見事に恋愛モードだな、俺。

「ここ」
 この近くという言葉通り、さほど長くもかからずに建物の前に着いた。まだ名残惜しいけど、仕方がない。
「今日は、どうもありがとう」
「こちらこそ。じゃ、おやすみなさ……」
「あれ、トム」
 建物の脇からするりと、一匹の猫が現れた。ユリより一回りは大きいだろうか。体の大半が黒だが、顔の下半分と首元、足の先が白い。金の瞳に桃色の鼻、艶のいい毛皮にぴんと伸びた尻尾。赤い首輪がよく似合っている。
 これは、なんというか。きれいな……うん、男前な猫だな。
 その猫が、俺をじっと見た。
「トム? どうしたの」

 この感覚には、覚えがある。なんだ?
 そうだ。
 敷居の高い店の入口で、黒服に品定めされる気分。あれだ。

 どれくらいそうしていたか。トムとやらはおもむろに俺に近寄ってくると、足元でくるりと槇さんの方に向き直り、すとんと腰を下ろした。俺の両靴の上に、微妙に尻を乗っけている。……なんだ、これは。
「ずいぶん人懐こい猫ですね」
「そんなことないよ。僕以外には懐いたことないもの」
「え?」
 視線を移すと、槇さんも意外そうな顔をしていた。
「宮野くん、猫に好かれる人?」
「いえ、別にそんな、普通です」
「どうしたんだろう。あ、ユリさんの匂いがするのかも」
「今日は私服ですけど」
「あ、そうか」
 猫は微動だにせず、じっと飼い主を見上げている。トムと俺を交互に見ていた槇さんは、不意に「わかった」とつぶやいた。
「なんでですか?」
「いや、そっちじゃなくて、僕のひっかかってたことが。あ、そっちもかも」
 ……わけがわからない。そして、さらにわけのわからない質問をされた。
「赤いネクタイはもうしないの?」
「は?」
 ネクタイ?
「ネクタイって、制服のですか?」
「うん」
「今の店に来てからは黒蝶ばっかりですが……ああ、一度赤いのをしたことがありますね。一昨年」
 記憶をたぐると、槇さんは少し驚いた様子だった。
「一度だけ?」
「はい、クリスマス・イブに。マスターが『この日くらいちょっとお洒落しなさい』って、貸してくれたので。去年は金色のでした」
「そうだったんだ……。だから、忘れてたんだ。そうか」
 俺のネクタイの色に何の意味があるのかまったくわからないが、槇さんはなにやら一人で納得している。トムはまだ俺の足の間に鎮座していて、靴を通してそのぬくもりが伝わってきていた。
「あの、足を動かすのが心苦しいんですが」
「じゃあ、うちに上がってく?」
 それがなんで「じゃあ」になるのかもわからない。もう、わからないことだらけだが。
「……いいんですか?」
「たぶん、それが正解。トム、そうでしょ?」
 槇さんが尋ねるように言うと、トムは彼と目を合わせた後、すっと俺の足からどいた。まるで、人の言葉がわかるかのように。
「説明は、中でするよ」
 男前な猫を胸に抱き上げた彼は、とてもきれいに微笑んだ。
「明日、赤い蝶ネクタイ、プレゼントするね」


−終−