猫の手 (2)


『フロマージュ亭』
 チーズ料理専門店。名物料理はチーズフォンデュとラクレット。ランチタイムはお好みのピザにサラダとドリンクの付いた「チーズたっぷりピザセット」、ディナータイムは前菜からデザートまですべてにチーズを使用した「チーズ尽くしコース」が人気。フォンデュ、コースのご注文は二名様より。営業時間はランチ11時〜15時(平日のみ)、ディナー18時〜22時(金・土〜23時)。ゴールデンウィーク、お盆、年末年始休業。

 11月の末に割引券をもらってから三週間弱。くだんの店のホームページを読み尽くすには十分すぎる長さで、おかげで「ラクレット」とやらが溶けたチーズをじゃがいもにつけて食べるスイスの伝統料理だと学んだばかりか、店長およびスタッフの顔と名前とプロフィールまで覚えてしまった。会ったこともないのに。
「はあ」
 レストランの情報は増えても、誘いたい相手の情報は増えない。槇さんはもともと訪れる頻度にむらのある人で、一週間に二度三度訪れることもあれば、一ヶ月以上音沙汰がないこともあるのだ。今も、最後の訪問からそろそろ一ヶ月が経とうとしている。
「今日あたり、槇くんが来そうな気がするなあ」
 氷割りの作業を終えた俺の前で、同伴出勤のマスターが、看板娘を猫用キャリーから出しながら独り言のようにつぶやいた。この人には他人の心を読む能力があるのではないかと、時々本気で思う。
「看板出してきます」
「はい、よろしく。でもその前に、蝶タイが曲がってるから直してから行きなさい」
「あ、はい、すみません」
 先ほど磨き上げた壁掛けのアンティーク鏡の前でタイを直し、身だしなみをチェックする。マスターはとてもお洒落な人で、ベストやタイを何種類も持ち、その日の気分でコーディネートしているが、俺はどちらも黒一辺倒だ。でも、毎日色柄の変わる人が横にいるのだから、俺は地味にしていた方がコントラストがあっていいんじゃないかと思っている。
 振り返ると、腕組みをしたマスターがうなずいた。
「うん、男前。じゃ、よろしく」
 どこか飄々としたマスターの声を背に、地下から伸びる狭い階段を上る。午後八時、仕事を終え食事を済ませた人々が、どこかで一杯やってくつろぎたいと思い始める頃、バー『麦の番人』は開店する。
「きよしこの夜、か」
 商店街はすっかりクリスマスの装いで、中央通りから横道にそれたこの場所まで、クリスマスソングのBGMが流れてくる。うちの店内にも、今月に入ってすぐに大きなツリーがお目見えした。

「いらっしゃいませ…やあ、小川さん。お帰りなさい」
 マスターが名前を呼んだのは、常連の一人である小川氏だった。部長という肩書きがそのまま絵になったような恰幅のいい中年男性で、話好きで気さくな、親しみやすい人物だ。
「どうもどうも。いやー、今日は冷えるね」
「北海道ほどじゃないでしょ。どうでした、札幌は」
「そりゃもう寒かった! でも何を食べてもうまくて最高だったよ。ところでここ、グリューヴァインってある?」
「お出しできますよ。赤と白どちらで?」
「あ、白もあるんだ? ああでも赤がいいな、赤で頼みます」
「かしこまりました」
 マスターはそう言って、ワインを温める準備を始めた。
「ちょうどドイツのクリスマス市というイベントをやっていてね、そこで飲んだのがおいしくてさ。ああ、そうだこれ、おみやげ」
「どうも、ありがとうございます」
 マスターに代わり紙袋を受け取ると、薄紙に包まれた塊がいくつか入っていた。仕事柄しばしば出張するという彼は、時々こうしてみやげ物を持ってきてくれることがある。
「クリスマスツリーの飾りがいろいろあったんで、見つくろってきたんだ。あれに飾ってよ」
 ツリーを指す小川氏。マスターがうなずいたのを確認して、薄紙を開く。中から雪だるまやサンタクロース、天使などのカラフルなオーナメントが次々と現れた。
「木製なんですね」
「うん、手作りだって」
「これは可愛らしい」
 いつの間にか横に来ていたマスターも、ホットカクテル用の取っ手付きグラスを手に、よくできた細工を眺めている。俺は最後の包みに手をつけた。
「あれ、これは」
「おや、ユリだ」
 マスターの言葉に小川氏は、
「そう。やっぱりこの店へのおみやげなら、これは外せないね」
 と続けた。白い猫が香箱座りをしている姿をかたどった、あたたかみを感じさせるオーナメント。皆でユリに視線をやると、まさにそれと同じ格好でいつもの席に座っていたユリが顔を上げ、にっこり笑った。いや、笑ったと言えるのかどうかわからないが、そのような表情をした。
「おお、喜んでくれるかいユリちゃん」
 小川氏もその顔を真似てにっこり笑う。この店の常連はたいてい猫好きだ。
「いつもすみませんね。宮野、さっそく飾って」
「はい」
 オーナメントを戻した紙袋を手に、入口の脇に据えられたツリーへと向かう。その後をなぜかユリがついて来た。いつもすましているお姫様が野次馬とは珍しい、と思ったらつい、とドアが開き――
「……いらっしゃいませ」
「わ、びっくりした。こんばんは」
 マスターはテレパシーだけでなく、予知能力もあるらしい。

 開けたドアの真ん前にいた俺に驚いた様子の槇さんだったが、足元にすり寄るユリに気づくと、笑みを浮かべた。
「はは、大歓迎だ」
 久しぶりの来訪だからだろう、のどを鳴らし、甘えた声を出して盛大に愛想を振りまいている。何にも縛られず、素直に喜びを表現しているユリがちょっとうらやましかった。
「どうぞ」
 ドアを支え、中へと促す。濃いグレーのジャケットに白のロングマフラーが印象的な細身の姿は、相変わらず性別不詳だ。
「ありがとう。ちょっと、歩きにくいよ、ユリさん」
 槇さんは足元に猫をまとわりつかせながら、カウンターへと向かった。マスターが声をかける。
「槇くん、しばらくぶりですね」
「ええ、ちょっと締切りが続いて。でも今日全部上がったので」
「じゃあ、年越しはゆっくり?」
「そうだなあ――
 オーナメントを飾りながら耳をそばだてる。待ちに待ったこの日、話を切り出すタイミングを見つけることができるだろうか。
「なにか、いい香りがしますね」
 漂う赤ワインとスパイスの香りに気づいた槇さんの問いに、なぜか小川氏がマスターよりも早く反応した。
「グリューヴァイン、スパイスの効いたホットワインです。いま僕が作ってもらってるんですが、いかがですか? 温まりますよ」
「じゃあ、それと、チーズのトーストをください」
「かしこまりました」
 マスターの視線に応え、作業を終えた俺はトーストを準備しに戻った。

 小川氏はそれをきっかけに、槇さんと話し始めた。初対面の人でも気軽に話しかける小川氏には珍しいことではないが、槇さんにはとても珍しいことで、少なくとも俺はこの店で、マスターや俺以外の誰かと長々会話している槇さんを見るのは初めてだった。といっても話しているのはほとんど小川氏なのだが、槇さんは別段嫌そうでもなく、グラスを傾けながら時おり相槌を打ち、小川氏に気分よく話させているといった様子だ。聞き上手なのだろう。
「もう十分きれいになったと思うよ」
 休憩に入るマスターが俺の背後を通り抜けながらつぶやくまで、同じボトルを延々と磨いていたことに気づいていなかった。

「ごちそうさまでした。それじゃ、また」
 槇さんは結局、終始小川氏のトークにつきあい、いつものようにカウンターで会計を済ませて帰っていった。他の客の対応との絡みもあり、食事に誘うどころか、会話すらままならずに終わってしまった。
「それで、そのソーセージがまた絶品でねえ……」
 小川氏は標的をマスターに変え、まだまだ話し続けている。閉じたドアに目をやり、こっそりため息をついた。
 皿を引いていると、ユリが伸びをした。定位置ではない。槇さんの座っていた場所の隣だ。
「あれっ、ユリ、それ」
 にゃおん、と返事。その下に、白い毛糸の塊。
 彼のマフラーだ。下敷きにしていたのか。
 マスターを見た。うなずく。
 カウンターを回ると、ユリは自ら床に降りた。普段はこんなことをする猫ではないのに、やっても許してくれる相手をわかっているのだろう。
 マフラーを片手にドアを開け、階段を駆け上った。かなり冷え込んでいる。あのジャケットだけでは寒いに違いない。
 商店街とは反対方向に進む後ろ姿を見つけ、声を上げた。
「槇さん!」
 振り返り、立ち止まる細い影。その前に走りこむ。
「これ、お忘れ物です。ユリが上で寝ていまして。大変失礼しました」
――知ってた」
 彼はそう言って、穏やかな、優しい微笑みを浮かべた。俺が惹かれた、あの。
「ユリさん、気持ちよさそうだったから、次に来たときでいいかなと思ったんだ。でも、ありがとう」
 受け取る指がふと、触れた。
 冷たい。
 触れたのは、初めてだった。
「実は、ちょっと寒かった」
 伏せたまつげ。真っ白なマフラーを首に巻きつけると、華奢なシルエットはそのボリュームに埋もれてしまうようだった。

 ――どうしよう。
 俺、この人のことが好きだ。

「あの、」
 ぱちり、とまばたきをした瞳が俺を仰ぐ。
「よろしかったら、今度一緒に食事に行きませんか」
「……食事?」
「あの、ペットショップの店長にレストランの割引券をいただいて。それで、あの、いつもうちにご来店いただいているお礼を、というか……」
 ベストのポケットから、まるでお守りか何かのようにずっと持ち歩いていた紙切れを取り出す。彼は一瞥しただけで、
「フロマージュ亭?」
 と言った。
「ご存知ですか」
「うん、たまに行くから。ああでもしばらく行ってないな。チーズフォンデュ、おいしいよね」
「あ……、いえ、実は私は行ったことがなくて」
 頭をかく。だが槇さんはさほど気にした風もなく、続けた。
「そうなの? おいしいよ。……いつ、行こうか」