狭間 (1)


 十八夜の月は未だ出ず。
 提灯のたよりない明かりだけが、頼りだった。
 とっくに、ふもとに着いているはずであった。だが、昨夜からの嵐で崖崩れが起きており、大きく迂回する羽目になったのだ。予定より一刻は遅れたであろう。雨は朝のうちにやんでいたが、秋の日は釣瓶落とし。太陽は名残りの風が雲を吹きはらうのを待たず、すげなく沈んでみるみる暗くなってしまった。
 野分が吹き荒れた後の山は、恐ろしいほど無音だった。すべてが頭を垂れ、風と雨に持ち去られたもののために祈っている。敬虔な門徒たちの中で、俺だけが秩序を乱していた。
 聞こえるのは、濡れた土を踏みつけるじゃくじゃくという足音のみ。水を含んだ空気がまといつき、熱を奪ってゆく。笠、蓑、荷。何もかもが冷たく湿り、わらじも泥水に浸され、一足ごとに重くなっていった。
 俺はふと、足を止めた。
 明かりだ。
「……狐…かな」
こんな山の中で出会う明かりといえば、狐狸妖怪の類いと相場は決まっている。でも、俺は疲れていた。たとえ狐であろうと、一晩泊めてもらえるなら構わないとさえ思った。さすがに走って飛び込んだりはしなかったが、こころもち足早に近づいた。
 それは、まったくいかにもな荒れ寺だった。明かりをかざしてうかがうと、屋根は瓦がはげ落ち、縁の輪郭が崩れきっている。ある柱は途中で折れ、傾いているし、ある柱は妙にでこぼこしていると思ったら茸が生えている始末。地面には落ちた瓦のかけらが散らばり、それを覆い隠すがごとくに丈の高い草が生い茂っている。まさに化物の住処、といった雰囲気に、先程の安易な考えは吹き飛んでしまい、俺は提灯を差し上げたまま、次にとるべき行動を思いあぐねていた。
 動きがあった。
「…………どなた?」
 銀糸のような声であった。
 名乗るべきかどうか逡巡しているうちに、あちらが出てきた。たてつけの悪そうな戸から現れたのは、およそこのような場所には似つかわしくない───あるいはこのうえなく似つかわしい───男の姿だった。年の頃は十六七、少年と呼ぶには大人びているが、青年と呼ぶのもためらわれる若さだ。物憂げな瞳、薄い唇。折れてしまいそうなほど細い体。白無地の寝巻がすずやかな気配をひきたてている。薄明かりの中でこれだけ見てとれたのは、着物と同じくらいに白い肌のせいもあるだろう。
 きわめて浮世離れした意外な登場人物に、俺はぽかんとした間抜け面をさらすばかりだった。
「夢を、ご覧になったのですか」
「は?」
俺はますますぽかんとし、彼はすこし、いぶかしげな顔をした。
「お迷いに、なったのですか」
俺はやっと、我に返った。
「あ、いやその、迷ったというのではないが」
すると彼は、首をかしげ、言った。
「では、お客様ではないのですか」
 俺は再びわけがわからなくなった。これは、どういう意味なのだろう。招いた客ではない、ということなのであろうか。それとも、迷子でないなら泊める必要はないということか。
 彼はじっと立っていた。瞳にぼんやりと、提灯の明かりを映して。
 俺は腹を決めた。妙な人物ではあるが、すくなくとも取って喰おうという輩ではなさそうだ。
「あの、確かに、俺は道に迷ったわけではない。だが、今日はずっと歩き詰めでひどく疲れているのだ。よろしければ一晩、宿をお借りしたいのだが」
「…………」
彼は目を凝らし、俺を見た。
「旅の方、ですか?」
「うむ、ここから二十里ほど離れた所の者だ」
「これは……、失礼をいたしました。どうぞ、ご覧のとおり破れ住まいですがお上がりくださいませ」
 ためらわなかったと言えば嘘になるが、もう疲労困憊のきわみだった。細い後ろ姿をたどり、俺は彼の陣地へと足を踏み入れた。


 俺が笠やら何やらをはぎ取るようにはずしている間に、彼は慣れた手つきで囲炉裏に火をおこした。狭い畳敷きの部屋はふだんの生活の場、奥にあるふすまの向こうは本堂だろう。敷いてあった蒲団をたたんでいる彼に、突如来訪した詫びを言った。
「かまいませぬよ。外は寒うございましたでしょう」
震えながら火のそばに座る。すると、肩にふわりと綿入れがかけられた。
「粥を炊きますね」
 はかなげでたよりなさそうな外見と裏腹に、彼はてきぱきと動いた。無造作に垂らしてあった黒髪を束ねる。たすきをかけると、やはり透けるように白い腕がのぞいた。鍋をかまどにかけている間に香の物をきざみ、椀と箸を用意し、盆に乗せて運ぶ。手際のよい作業だった。
「まだすこしかかります。白湯ですが、どうぞ」
出された湯飲みを両手で握る。中身を喉に流し込むと、体の奥がいかに冷えきっていたかが伝わってきた。
 囲炉裏の火、綿入れ、白湯。しだいに、人心地がついてきた。
「あー、ご主人」
「はい」
声をかけたものの、さて、何から聞けばよいのか。
「その…、ご主人は、なぜ、このような所に?」
「御仏のご意志でございます」
「ほう」
よどみなく答えたところをみると、よく尋ねられるのだろうか。
「しかし、坊主というふうでもないが」
「そうですね。まあ、隠遁の者、といったところでしょうか」
ずいぶんと若い隠者だが、この容貌では、世をはかなむようになる出来事のひとつやふたつ、あってもおかしくはない。あまり詮索してはいけないような気がして、俺は自分の身の上や旅の目的、嵐のことなど、たわいない話に切り替えた。
 しばらくして、鍋が囲炉裏の上に移されてきた頃、俺はある思いに捕われた。彼の様子に、何か見覚えがある気がするのだ。顔が、というわけではない。このような顔に出会ったことがあるなら、忘れるはずがない。何だろう。鍋をかきまぜたり、塩を振ったりしている彼を眺めながら、俺は何とか思い出そうとしていた。
 やがて彼はすこし味をみて、
「できました」
と、椀に湯気の立つ粥をそそいだ。盆の上に椀が置かれた、その直後。俺は空腹も忘れ、愕然と目の前の美しい男を凝視していた。わかったのだ。
 彼の着物。寝巻だと思っていた、白い、真っ白い一重。きちんと「左前」に閉じられた胸元。
 既視感の正体は、祖父だ。俺が十の時に死んだ。棺桶の中の、あの世のものの衣装。

 これは、経帷子───死装束ではないか!

「ささやかですが、どうぞ。熱いうちにおめしあがりくださいませ」
動けるはずがない。どうして、死人のもてなしを平然と受けられるだろうか。
「どうかなさいましたか」
俺は色の失せた顔でひたすら彼を指さし、うわごとのように形のない言葉を漏らしていた。
 彼はちょっと柳眉を寄せた。寸刻の後、わかったという表情をし、
「ああ……、これは、少々わけありなのです。ご心配には及びませぬ」
と言った。そして、男の俺ですら鼓動が早まるようなうるわしい笑みを浮かべ、
「死人は煮炊きをしませぬよ」
と、付け加えた。
 俺は真赤になって恥じ入った。確かにそうだ。使い込まれた鍋や箸、器もの。囲炉裏も粥も、死人には縁遠いものに相違ない。
「これは…、とんだ失礼を……」
「こちらこそ、先に申しあげておくべきでした。さあ、どうぞ熱いうちに」
「かたじけない」
 安堵と同時に猛烈な空腹が襲ってきた。雑穀の粥の、なんと美味であったことか。


 満腹になると、彼は床を用意してくれた。その奇妙な衣装のわけとやらが気にならぬでもなかったが、何となく聞きそびれてしまった。
 横になると、幾つも数えぬうちに眠りにおちた。
 妙な夢を見た。
 籠の中に、鳥が閉じ込められている。鳥は必死で出てゆこうと試みるのだが、どうしても出られない。籠の戸が、誰かの指でしっかりと押さえつけられているのだ。やがて鳥はあきらめ、疲れたように籠の隅にちぢこまる。
 俺はあまりのやるせなさに目を覚ました。暗闇の中に、ふすまの破れや隙間から何条かの光が漏れ込んでいる。そっと開けた。
 雲は拭われたようにきれいになくなっていた。上方の欠けたいびつな円となった月の照らす縁側に、彼がいた。片膝を立てて柱にもたれている。膝にかけた両の腕、割れた裾からのぞく脛が、いっそう青白く光る。消え入りそうな細い影に、心の臓が大きくひとつ、鳴った。
「おや」
けだるげな瞳がこちらを向く。
「明るすぎましたでしょうか。すみません」
「いや、そういうわけでは。ちょっと目が覚めてしまって」
彼の頬はいささか上気していた。かたわらには徳利と杯。
「おみぐるしい格好で失礼いたします。居待ちの月見酒という風情でして。眠れないのでしたら、いかがですか、おひとつ」
「これはありがたい」
差し出された杯を受け取る。徳利が傾けられると、ぷん、と麹の香りがした。
「ほう。良い酒ですな。こんなうまい酒は初めてだ」
世辞ではない。それは、こんな山の中で味わえるとは思えぬような美酒だったのだ。
「これは、さぞ値も張るのでしょうな」
「いえ、いただきものですから。ご遠慮なくどうぞ」
笑みを浮かべ、杯に口をつけた彼の髪を風がゆらした。
 さやかな月影に、露をまとった草木が光る。こうしてみると、伸び放題の雑草も風流と言えなくもない。
「虫も鳴きはじめましたね」
美しく澄んだ秋の夜。謎めいた主人の横顔は、それに負けぬくらいに美しかった。思わず見惚れていると、
「なにか?」
「い、いや、その……」
俺はあわててごまかそうとし、ふと、ここにたどり着いた時のやりとりを思い出した。
「そういえば、誰ぞ客が来るのでは?」
 すると、彼の顔が不意に真顔になった。
「客…………」
彼はぼんやりと外のほうを見やった。
 しばらく、沈黙が続いた。
「ちょっと、話をさせてください。聞き流してくださってけっこうですから」
彼はやおらそう言うと、淡々と語りはじめた。