狭間 (2)


 昔、ある武家に、二人の兄弟がいた。兄は武芸に秀でた剛の者で、どこに出しても恥ずかしくない立派な武士であったが、弟は病弱でやせっぽち、弓も満足に引けない情けない男だった。周囲は優れた兄を誉めたたえ、弟はなかば公然とないがしろにされていた。彼に心から親切に接してくれるのは、他ならぬ兄その人だけであった。


 小さい頃からずっと、兄は彼の憧れだった。見るからに弱々しい彼はよくいじめられたが、兄はいつも助けてくれた。
「ほら、もう泣くな。お前は侍だろう。いつまでもめそめそしているんじゃない」
慰められ、励まされながら、彼はいつかこの兄のようになりたいと思っていた。
 彼が十二の時のこと。兄が冗談でこんなことを言った。
「お前は色も白いし、女だったらさぞ美しい姫御前になっていただろうな」
彼は怒ったふりをしたが、内心どきりとしていた。兄への思いが、単なる憧れ以上になってきていることに気づいていたからだ。
 これでは、ほんとうに女子のようではないか。
 彼は悩んだ。女みたく男に恋い焦がれるなど、しかもその相手が実の兄だなど、自分で考えてもおぞましかった。彼は兄を避けるようになった。しばらく兄から離れていれば、そんなふざけた感情など消えてしまうだろうと思ったのだ。
 だが、逆効果であった。兄に何かに誘われて断ったり、かばってもらっても何も言わなかったり、手を振ってくれているのをわざと無視したりしていると、それはかえって心に残り、忘れられなくなっていった。
 ある晩、彼のもとに兄が訪ねてきた。今までになく緊張している彼に、兄は
「この間は、軽はずみなことを言ってしまって悪かった。許してくれ」
と言って謝った。彼は驚き、あわてて、そういうわけではないと否定した。
「そうなのか? 俺はてっきり、お前を傷つけてしまったと思っていたのだが」
安心した笑顔に胸がうずいた。なんて、なんて優しい人だろう。
 でも、
「では」
と、兄が想像した理由は、実情とはかなり違っていた。
「やはり、お前もいつまでも小さいままではないということか。ちょっと寂しいな」
 彼は泣きたかった。そんなささやかな意地で避けているのならどれほど楽であろうか。
 もう手遅れだった。彼の想いはこの時、決定的なものになってしまったのだ。


 誰にも言えぬ悩みを抱えたまま、数年が過ぎた。想いは薄まるどころかますます募るばかりで、あまり丈夫でない彼の体はいっそう細くなった。
「こんな腕では刀も持てぬぞ。もっと鍛えなければ」
手首をつかまれた彼が赤くなって黙り込むのを、兄は「武士として恥じいっているから」だと思っていた。
 そしてある時、とうとう兄に縁談が持ちあがった。相手は良家の姫君で、双方の両親、それに当人たちもおおいに乗り気だという。彼は身を切られるような思いでそれを聞いた。兄が、他の人のものになってしまう。それは彼の心に、かつてない衝撃と動揺をもたらした。
 相手はどんな女性だろう。兄は、その人を愛するのだろうか。どんなふうに愛するのだろう。優しく名を呼んだりするのだろうか。あの大きな腕で抱きしめるのだろうか。
 睦まじい夫婦の情景が否応なく浮かんできては、彼の胸を締めつけた。妄想に熱くなり、激しく自己嫌悪することもあった。毎日、声を立てずに泣いた。でも、想わずにはいられなかった。
 眠れぬ夜が続いた。さんざんに悩み、苦しんだあげく、彼は決心した。
 打ち明けよう。受け入れてもらえなくても、知ってもらうだけでいい。そうすれば、この救いのない暗闇からきっと、抜け出せるにちがいない。

 ある、闇夜の晩。皆が寝静まった頃、彼は兄の部屋を訪ねた。
「おう、お前か」
兄は書物に目を通している最中だったが、弟が祝いでも言いにきたのかと思い、こころよく迎えた。
「何か用か?」
 彼は決死の覚悟で、胸の内を告白した。舌が思うように回らず、頭に血がのぼり、心臓は今にも止まりそうだった。だが彼は懸命に、どのようにしてこの想いを抱くようになったか、自分がどれほど恋い焦がれ、悩んでいるかということを語った。
 しかし、兄の表情はしだいに険しくなっていった。兄から見れば、弟のこの感情は誇り高き武士の家の男にあるまじき軟弱なものであった。しかも、弟が兄を恋い慕うなど、人道に外れた行為に他ならなかった。
「汚らわしい!」
兄は彼をひどくののしった。あらんかぎりの蔑みの言葉を投げかけ、金輪際縁を切るとまで言った。
 彼は呆然とした。受け入れてもらえぬであろうとは思っていたが、こうまでも拒絶され、否定されるとは、まったくの予想外だった。いつも、優しかった兄。愛する人の罵倒は、彼の心を無惨に引き裂いた。

 彼の中で、何かが壊れた。

「出ていけ! お前の顔などもう見たくない!」
兄は背を向けた。
 彼はゆらりと立ち上がった。焦点の合わぬ目が向いた先には、兄の愛刀が刀掛けにおさまっていた。彼は無意識に、ゆっくりと、近づいた。
 柄を握り、するすると抜く。刃こぼれひとつない、美しい刀身。
 様子がおかしいと気づいた兄。その振り向きざま。

「!」

 兄は、声も立てなかった。
 研ぎ澄まされた刃は、吸い込まれるように主の胸に突き立ったのだ。まるで、もとからそこに生えていたかのように。
 彼は放心し、柄を放した。くずおれる体。書見台が倒れ、本が滑り落ちる。そばにあった燭台が傾いた。
「………あに……う…え……?」
 顔を撫でる。まだ、あたたかかった。でも、もう、息吹はない。
「あ…………」



 唇を重ねた。



 彼はしばらく、動かずにいた。
 しかし突如、目の前のものに言い知れぬ恐怖を感じた。彼ははじけるようにそれから離れ、後じさった。声も出せず、あえぎながら、じりじりと逃げた。障子に背があたると、後ろ手で開けながら体を出してゆき、全身が出た瞬間に激しく閉じた。隙間から見えるものを遠ざけてしまいたいという心の顕れであった。
 だが、その時生じた衝撃が後に新たな悲劇を生む。

 彼は庭に出た。首をくくる枝を探すために。
 ふらふらと歩いていると、不意に屋敷の一角が騒がしくなった。それとともに、焦げくさい匂いが漂ってきた。

「火事だ!」

 火元は兄の部屋の倒れた燭台であった。折りからの風にあおられ、火はまたたく間に燃えひろがり、屋敷を包み込んだ。
 深夜の出火は住人たちを恐慌の淵に陥れた。走る人、動けぬ人、叫ぶ人、泣く人、転ぶ人、踏む人。逃げ惑う人々の奔流の中で、彼は、ゆらめく炎を見つめていた。
 炎は彼を責めていた。

「私が、悪い?」

 彼の目から涙が筋を引いた。
 愛していた。
 愛していたのに。
 傷ついたのは、私。
 でも、傷つけたのも、私。

 恐ろしかった。ただひたすらに恐ろしかった。炎の届かぬところへ、炎の見えぬところへ。彼はめくらめっぽうに走った。

 やがて、傷だらけの足がたどり着いたのは、山奥の打ち捨てられた寺だった。
 もうこのまま、死ぬのだろうと思った。


 しかし、彼は死ななかった。目を覚ますと、かたわらに一人の年若い僧がいた。
「夢で御仏に、ここへ来てあなたを助けるようにとのお告げを給わりました」
 僧は彼を自分の寺に運ぼうとしたが、どうしてもできなかったと言う。自分一人の時は何ともないのに、彼を抱えてゆくとなぜか道に迷い、ここに戻ってしまうと。
 彼は御仏は他に何か告げなかったかと尋ねた。僧はおもむろに経帷子を取り出し、これを身につけさせるように言われた、と言った。そして、にわかに頬を染めた。
「私には迷いがあるので、あなたの客人となるように、と」

 彼は悟った。女に触れることを禁じられた僧たちのために、その鬱鬱とした煩悩を取り除くために、自分が女の代わりになること。俗世を離れた者となり、御仏に仕える者に奉仕すること。これが、あるまじき情念に身を焦がし、兄と、多くの罪無き人々を殺めたおのれに課せられた罰なのだと。


 彼はそこに住むようになった。といっても、若い僧の言うとおり、どこかへ行こうとしてもかならず道を失い、元に戻ってしまうので、離れようにも離れられないのだ。
 時折、夢を見た僧がやって来ては、なにがしかの物品をくれる。そして一夜を共にし、去ってゆく。彼はそのようにして、今も暮らしているという。