時間外指導 (1)


 昼食時、スーツや制服のごった返す社員食堂。生姜焼き定食を抱え、席を探してうろついていた、その時。後ろから声をかけられた。
「おい、ナンガ」
「あ、白石」
俺の名前はミナミマサシ。漢字で書くと南雅。よって、友人のほとんどが俺のことを「ナンガ」もしくは「ナンガちゃん」と呼ぶ。
「ここ空いてるぞ、座れよ」
「ラッキー、サンキュ」
俺は大喜びで白石の前に腰掛けた。安くてうまいこの社食は、席の確保も一苦労なのだ。
 俺と白石は今年この会社に入った新人、いわゆる社会人一年生である。マーケットリサーチを専門に行うこの会社は業界でも大手で、各地区各部署を合わせると100人以上の新人がいた。先週から仮配属でバラバラになったが、それまでは都内の施設で皆一緒に研修を受けていて、こいつとは班が同じだったのでよくつるんでいた。
「やっぱさ、班の連中とか、あんまり顔見ないよなー」
大盛りカレーをかきこみながら白石が言う。
「そうだな、みんなフロア違うし。どう? 営業」
「同行とかしてんだけど、けっこうキツいよ。でも性格的には合ってると思う」
「おまえ詐欺師だし」
「失礼な」
研修中、くじを引いて当たったお題について即興でスピーチをするという時間があった。俺も含め、大概の連中が規定時間三分を満たすのに四苦八苦する中、「e−ビジネス」を引いた白石は、自分の経験や雑誌の話題を織り交ぜながら堂々と三分間話しきったのである。席に戻ってきた白石に感心したと言ったら、実はほとんど口からでまかせで、本当はパソコンも持っていないのだと告白され、今度は別の意味で感心してしまった。
「そういうナンガはどうよ?」
「んー…」
うなってしまった。


 俺が仮配属になったのは、企画調査部の情報管理課。リサーチした情報の収集管理を行っている。この課に来た新人は俺一人、課員は課長を含め男性ばかり四人だ。
「うちは少数精鋭でね」
初日、期待と不安で胸をいっぱいにしていた俺に、課長がメンバーを一人一人紹介してくれた。大森さんは管理システム担当というだけあって技術者風、波多野さんは少し太めで人懐こそうな感じの人。二人とも30代前半くらいだ。そして。
「彼は羽鳥(はとり)」
最後に紹介されたのは、いかにも切れ者っぽい雰囲気の、眼鏡をかけた人だった。歳は20代後半ってところだろう。身長はたぶん同じくらいだけど、少し痩せ型な体型のせいか高く感じられて、スーツ姿がさまになっている。女の子がちょっと憧れるタイプじゃないだろうか。
「これから二ヶ月、彼が君の世話役だから」
内心、うわっと思った。紹介された面子の中で、いちばんとっつきにくそうな人だったからだ。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
わ、笑いもしない…。

 実は、この配属には不満があった。もともと現場でのフィールドワークをやりたかった俺は、同じ企画調査部でも調査課の方を希望していたのだ。ここは情報管理というだけあって、一人一人にパソコンが割り当てられ、一日それに向かっていることも珍しくない。当然俺もその状態。自分の足を動かすのが好きなのに、日がな一日ディスプレイとご対面なんて気が滅入ってくる。操作を覚えるのだって一苦労だ。
 おまけに、世話役の人がこれだ。
「これが指示書、これが参考資料。データはサーバのここに入ってる。わからなかったら質問に来い。じゃ」
お世辞にも要領がいいとはいえない俺は、見た目どおりクールで口数の少ない羽鳥さんに対し、どう接していいのか、正直途方にくれていた。
 確かに、指示書は正確で必要なことがきっちり書いてある。参考資料も充分だ。でも、ソフトの操作がわからないといった、指示以前の問題の場合。ただでさえ近寄りがたい人にレベルの低いことを尋ねるのは、相当な気力を必要とする。その上、いつ見ても忙しそうにしているので、結局聞きそびれ、ついつい一人悩んでしまう。
「南」
「は、はいっ」
後ろから声をかけられた。名前を呼ばれるたびにビクビクする自分が情けない。
「ここ、違ってる。わからなかったら聞けと言ったろう」
「すみません……」
 なら、聞きやすい雰囲気をつくってくれてもいいじゃないか。
ディスプレイを指差す相手に不満が募る。
「一人で考え込んでても先には進まないぞ」
 行ってしまったのを確認して、こっそりため息をつく。この上は、まだ「仮」配属だということに希望を見出すしかなかった。


「おい、南」
肩をたたかれた。
「あ、課長」
「こことここ空いてるか?」
課長は俺と白石の隣を指した。ついさっき誰かが席を立ったばかりだ。
「ええ、空いてますよ」
「取っといてくれるか? 後から羽鳥も来るから」
噂をすれば何とやら、だ。嫌とも言えず、俺たちは脱いでいた上着をかけて席を確保した。
「羽鳥って、例の先輩だろ?」
「うん…」
ほどなくして、後ろにクールな眼鏡を従えた課長が戻ってきた。
「悪い悪い、サンキュー」
羽鳥さんを一目見て、白石が小声で言った。
「わかった」
「だろ」
 二人は食事しながら、何やら仕事の話をしている。俺なんて、食べてる時くらい仕事のことなんか忘れたいけどな。
 そうこうしているうちに、白石が席を立った。
「じゃナンガ、俺午後からミーティングあるから」
「ああ、じゃあな」
「どうも、失礼します」
白石は隣の二人にも一礼して去って行った。
「同期?」
課長がその後ろ姿を指さし、話しかけてきた。
「はい、そうです」
「なんか、あんまり新人に見えない奴だな」
苦笑してしまった。白石は何しろ詐欺師なので、妙に肝がすわっていて、それが外見にもあらわれているのだ。聞いた話では、同行先で先輩よりも先に名刺を渡されそうになったという笑えない事件もあったらしい。
「お前は新人以外の何者にも見えないけどな」
「課長、それって喜んでいいんですか?」
「当たり前じゃないか! 初々しいってのはいいことだ。俺なんか心はいつまでも新人だぞ?」
課長は気さくな人なので、こういう軽い会話もできるけど、羽鳥さんとは……ああ、やっぱ笑ってない。永遠に無理なんだろうなあ。
「そういえば南、なんで『ナンガ』なんだ?」
課長の質問に、俺は今までの人生の中で百回ほど言った回答を繰り返した。
「名前がマサシだからです。みやびって書いてマサシ」
「ああ、南雅でナンガか。ははは、なるほどね」
その時、お茶を飲んでいた羽鳥さんが不意にこちらを向いた。
「南、マサシって名前なのか?」
会社での人づきあいで下の名前まで使うことなんてほとんどない。だから知らなくても別におかしくはないんだけど、羽鳥さんがちょっと驚いたようだったので、
「ええ、そうですけど。何か?」
と聞いた。
「いや…。何でも」
羽鳥さんはそれ以上何も言わなかった。まあよくある名前だし、誰か同じ名前の知り合いでもいるのかな、と思って、特に気にはしなかった。