時間外指導 (2)


 仮配属から二週間が経ち、職場の雰囲気にも慣れた。羽鳥さんの指導は相変わらずだったけど、あまり気にならなくなった。というより、別のことに気を取られていたというのが正しい。学生時代からつきあっている彼女と、このところうまくいっていないのだ。
 俺と佳奈子は大学の同期で、サークル仲間だった。彼女もこの春就職したので、それまで毎日のように顔を合わせていたのに、急に会う回数が減ってしまった。最近は誘っても「ごめんね、疲れてるから」と断られることもある。一人暮しを許可してもらえず、実家から毎日ニ時間かけて通勤しているという状況を知っているだけに、強いことも言えなかった。
 そんな状態が続く中、俺の中でも思いが錯綜していた。このままじゃまずいという思いと、このまま、惰性のようにつきあうことが本当にいいのかという思いと。
 ちょっと迷って、受話器を取った。
「はい、江上です」
「佳奈子? 俺」
「あ、ナンガちゃん」
軽く話をしてから、今度の金曜、会いたいということを告げた。
「いろいろ、話したいこともあるし」
「うん、わかった。いつものところでいい?」
「うん」

 そんな金曜日。俺はいつものようにパソコンに向かってうなっていた。いつもとちょっと違うのは、羽鳥さんが急な出張で昨日からいないことだ。
「こいつをまとめておいてくれ。土曜日のプレゼンで使うから」
そう言って作りかけの資料を渡し、慌しく出かけて行った。出張に休日出勤か、ご苦労様です。できる人は大変ですな。
 羽が伸ばせるかと思ったけど、甘かった。構成なんかは参考があるからいいんだけど、作成に使う各種ソフトの使い方が慣れない。特に表計算。大学でレポート作成に使った時に散々てこずったこいつが、いちばん長く時を共にする相手になるなんて夢にも思わなかった。どーやったらこんな表ができるんだ。なんだこの数式、俺にケンカ売ってんのか?
 人に聞こうにも、大森さんも技術研修とやらで留守だし、波多野さんと課長は人が少ないせいかバタバタしてて、とても俺の相手をしている暇はなさそうだ。こうなると、間違いの指摘とはいえ時々声をかけてくれていた羽鳥さんの存在がありがたく思えてきた。けっこう気を遣ってもらってたんだなあ。
 昼頃、連絡が入った。一時に戻る予定だったが、遅れるという。実はまだ終わっていなかったのでほっとした。
「進んでるか?」
「はい、あと少しです」
「チェックする時間が少なくなるから、よく見直しておけよ」
そう言われて、急に不安になった。課長をつかまえて見てもらい、自分でもよく見直して、羽鳥さんの帰りを待った。
 しかし、不安は的中した。

 完成した資料に目を通していた羽鳥さんが、急に難しい顔をして、ページをめくる手を速めた。
「あの……何か?」
答えず、次々とページを繰る手に、俺の不安はどんどん募っていく。
 やがて、羽鳥さんはいつもの冷静な声でとんでもないことを告げた。
「南」
「はい」
「半分くらい『東亜物流』のデータが混じってる」
「えっ!?」
思わず声が出てしまった。だって、頼まれたのは『東亜物産』の資料作成だったのだ。
「データを持ってくる時取り違えたんだな」
「でも、課長がこれでいいって…」
「構成は正しくできてる。そこまで気がつかなかったんだろう」
「でも」
「でもも何もない。現実に混じってるものは仕方ないだろう」
未練がましい俺に、羽鳥さんはぴしゃりと言った。
「やり直し」

 また?
 また、あれをやるの?

ショックから立ち直れないでいると、二つに分けた資料の片方が渡された。
「お前の分はこれだけだ。残りは俺がやる」
「え、でも」
「全部お前に任せていたら間に合わない」
 プレゼンは明日の朝十時から。
 佳奈子との約束は今日の七時。
 現在の時刻、午後五時二十分。


 週末ということもあって、終業時間の過ぎたフロアはいつもより人影が少ない。そこに、それぞれ自分のマシンと向かい合う俺と羽鳥さんの姿があった。
 思いきって口を開いた。
「あの、」
「何だ」
返事が返ってきたが、画面から目を離していない。
「すみません。俺のせいで」
気まずいムードの中、無表情の羽鳥さんに向かってこの台詞を言うのに、俺はかなりの勇気を振り絞った。それなのに。
「お前の力量を測るのも俺の仕事のうちだ」
一言。羽鳥さんは俺の勇気をその一言で一蹴した。
 …………。
 確かに、俺にはその仕事を間違いなく仕上げるだけの力がなかったんだろう。そんな半人前のヒヨッコに仕事を頼んだ貴方が悪いのかもしれない。
 でも。
 そんな言い方ってないんじゃない?
 そんなこと、もう嫌ってほど自覚してるのに。
不測の事態に自失していた俺に、さらに追打ちをかけるような台詞が聞こえた。
「余計なこと考えてる暇があったら手を動かせ」
 チクショウ。
 奥歯を、音が出るほど噛みしめた。持って行き場のない怒りを、目の前の作業に叩きつけるしかなかった。


「すみません、トイレ行ってきます」
時計は七時を少し回っていた。
 佳奈子の携帯を鳴らし、重い気持ちで、残業で会えなくなったことを告げた。佳奈子は「わかったけど、でも」と、非難めいた口調で言った。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
───ごめん」
「ナンガちゃん、最近冷たいよね」
カチンときた。
「なんだよ、自分のこと棚に上げて。お前だってそうだろ」
「何よそれ」
「他に好きな奴がいるんだろ。俺なんかほっといてそっち行けよ」
 言ってから、しまったと思った。
 電話は無言のまま、切れた。

「具合でも悪いのか?」
「…いいえ」
席に戻るなりそう聞かれた。相当ひどい顔をしていたのだろう。
 行けないことをもっと早くに伝えられなかったのは、この場を離れるタイミングがつかめなかったから。でも、それを口に出して言うのは言い訳みたいで嫌だったし、何より、厳しい先輩にビクビクしている自分を認めるのがつらかった。
 佳奈子に他に好きな男がいるというのは、サークルの他の友達から噂で聞いた話だ。でも本人に確かめたわけではない。今日、それを聞いて、もし本当にいるのなら、これからのことを冷静に話し合おうと思っていた。決してあんなふうに傷つけるつもりはなかった。
 だけど、口から出ていった言葉は、いくら悔やんでももう消せない。
 最低だ。

 それから、俺は開き直った。余計なことを考えたくなかったのかもしれない。作業に没頭して、黙々と働きつづけた。


 羽鳥さんが席を立った。
 時計を見ると、十一時近くなっていた。フロアにはもう他に誰もいない。
 さすがに肩が痛くて伸びをしていたら、横でコト、と音がした。何かと思ったら、缶コーヒーが置かれている。
「あ、すみません」
席についた羽鳥さんは軽くうなずいただけで、目はプリントアウトした書類を眺めていた。その時、羽鳥さんが眼鏡を外していることに気がついた。伏し目がちになったまつげは、平均的日本人のそれよりかなり長い。頬杖をつき足を組み、もの憂げに視線を落としている様は、なんというか……、男の人にこんなことを言うのは変だけど、色っぽい感じがした。
─── 俺の顔に何かついてるか?」
思いのほか長く見つめていたことに気づき、あわてる。
「いえあの、め、眼鏡なくて見えるんですか?」
ちょっと上ずった声で尋ねた俺に、羽鳥さんはぽつりと言った。
「伊達だよ」
「え?」
「伊達眼鏡。視力は1.2と1.5」
…って、左右0.8の俺よりよっぽどいいじゃないか。
「外に出たりするようになると、こういうポーズも必要なんだ。素だとどうも貫禄ないからな」
「はあ」
確かに、眼鏡を外した羽鳥さんは、いつもの切れ者っぽい雰囲気が薄らいで感じられる。俺としてはそっちの方がありがたいのだが、さすがにそうは言えず、気の抜けた返答になった。
 でも、そうか。そうなんだ。
 そういうとこ、ちゃんと計算してるんだ。すごいな。
「羽鳥さん」
「何だ」
「あの、彼女いますか?」
「……いない」
突然の俺の問いにとまどったのか、回答までに少し間があった。
「何だ急に」
「いえ、ちょっと聞いてみたかっただけです」
怪訝な顔をされ、ごまかした。無駄口をたたくなと言われるかと思ったが、それはなかった。
 羽鳥さんみたいな人なら、仕事も恋愛もそつなくこなしていそうな気がしたんだけどな。
 もらったコーヒーを飲みながら、ちらりと窺う。いつものクールな横顔に、心なしか翳りが感じられる。
 出張から帰ってきて、疲れているのに。明日だって土曜日なのに仕事で、本当なら今夜はゆっくりしたかったはずだ。あの台詞はきつかったけど、言ってることは正しいし、何だかんだいって結局、こうして俺のミスにつきあってくれている。そう考えると、さっきとは比べものにならないくらい申し訳ない気持ちになってきた。でも、謝るのは後回しにしようと思った。口だけならなんとでも言える。一分でも早く済ませて、休んでもらおう。

 ……と、思ったのに。
 俺、寝てるって!
 あわてて飛び起きた。ぎゃー、ニ時間も経ってる!!
「すみません、俺っ」
「…あとそっちだけだから」
羽鳥さんはできあがった書類の束をまとめると、
「頼むぞ」
そう言って、少しふらつきながら出て行った。その後ろ姿を見ながら、俺は、脱いでいたはずの上着が自分の肩にかかっていることに気がついた。

 ちょっと眠ったせいか頭がすっきりして、その後は順調にはかどった。
「終わった……」
ふと気がつくと、窓の外がすっかり明るくなっていた。時計を見る。六時前。間に合った!
 羽鳥さんを探してみると、休憩所の長椅子の上に横になっていた。右腕を枕に、左手で顔を隠すようにして眠っている。
 起こそうかどうか迷っていたら、気配で目が覚めたらしい。
「……終わったか?」
目をこすり、起き上がりながら聞いてきた。
「はい!」
喜色満面で告げる俺を見て、羽鳥さんはうっすらと微笑んだ。
「お疲れさん。よくやった」
この言葉に、俺はなにか必要以上にじーんと来てしまった。徹夜明けでハイになっていたからかもしれない。
「羽鳥さん」
「ん?」
こちらを見上げた顔に、俺は威勢よく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
羽鳥さんは髪をかきあげていた腕を途中で止めた。驚いたように俺を見ていたと思ったら、今度は視線を漂わせはじめた。落ちつかなさげに何度も髪をかきあげている。
 あれ?
 ひょっとして、照れてる?
「まあその…なんだ、これからは気をつけるようにな」
「はい!」
 お礼を言われて照れるなんて、羽鳥さんも可愛いとこあるじゃないか、などと偉そうなことを思っていたのだけど。どうも、作業が終わって気がゆるんだらしい。
 グウウウウウゥ〜〜〜
それはそれは盛大に腹の虫が鳴ってしまった。
「……南」
「はい」
「コンビニ行って何か買って来い。おごりだ」
赤面している俺に、羽鳥さんは笑いをかみ殺しながら財布を渡してくれた。