白い魔物


 一月中旬のとある夜。雨が雪に変わった。
 翌日。強烈な寒波の影響で、今日は一日、断続的な雪に見舞われ、記録的な積雪になるとの予報である。大変なことである。何しろここは「東京」であるから。


 厚手のコートとともにマフラーと手袋を着用した鳴神は、重くなる気分を無理やり引き上げ、いつもよりかなり早い時間に部屋を出た。バス・電車は運休に遅延に間引き運転、飛行機は欠航と、公共交通機関は始発から大混乱。道路はあちこちで渋滞や通行止めになり、慣れない積雪に交通事故も相次いでいる。人々の移動はもちろん、物流にも甚大な影響が及んでいることは間違いなく、あらゆる予定が狂うこと必至。徒歩で会社に行ける貴重な人材である彼は、本日は各方面と連絡を取り合い、怒涛のようなスケジュール調整に追われる覚悟なのである。

――すごいな」
 エントランスを出ると、けっこうな雪景色が展開されていた。道路はすっかり白く染まり、建物や植え込みにも雪が積もって、ちょっとした北国の風情である。東京にここまで雪が降ったのは、彼が就職して以降は初めてのことではないだろうか。
 気を取り直して歩き出したが、かなり困難な道程であるとすぐに気づいた。湿った雪はシャーベット状になり、朝の冷え込みでところどころ凍りついて歩きにくい上、気を抜いたらすぐに滑って転びそうなのだ。これでは、下手をするといつもの倍は時間がかかってしまうだろう。
 会社までずっとこの調子なのか……。
 滅入っていく心をため息でごまかしつつ、苦労して進んでいると、
「ルカさーん!」
 後方から、明るい声が聞こえた。はっと立ち止まる。
 声の主・由井は一直線に走ってきて、「よかった追いついた」と白い息を弾ませた。
「窓から見えて、俺もちょうど出るとこだったから急いで出てきたんだ。今日は早いんだね」
「ああ、この雪だから――え?」
 なぜ、この男はこの道を走ってこれるのか。
 由井は鳴神の疑問符には気づかなかったようで、
「そっかー。あーでもすっげえうれしい、久しぶりに会えた」
 と、はじけるような笑顔を見せた。
 クリスマス前からバレンタインデーの間は、ショコラティエである由井が一年でいちばん忙しい時期である。年末にかけては鳴神も多忙で、十二月に入ってからはすれ違いの日々が続いていたが、由井は去年と同じく大晦日と正月二日を休みにし、同じく年末年始休暇の鳴神と二人で一緒に過ごす算段だった。
 しかし、休みになった直後、鳴神がインフルエンザを発症してしまった。由井は心配し、看病したがったが、繁忙期な上食品を扱っている彼にインフルエンザなど絶対にうつすわけにいかないと、鳴神は見舞いすら断固拒否したのだった。頼ってもらえないことが歯がゆくもあったが、実際うつってしまったらシャレにならないし、病気で弱っていながらも自分のことを慮ってくれた鳴神の気持ちをむげにはできないと、由井は理性を総動員して耐えたものである。ちなみに、由井が差し入れをドアノブに引っ掛けに行ったところ、様子を見に来た鳴神の義母と鉢合わせしてしまい、心の準備などできていなかったため多少挙動が不審になった。
 その後、鳴神が回復した頃には由井は再び多忙な生活に戻っており、また鳴神の方も出張などが重なって、結局、同じ建物に住んでいるというのに、こうして顔を合わせるのは実に約一ヶ月半ぶりのことなのであった。
 少しばかり謎に気を取られはしたが、もちろん鳴神とて由井と同じ想いである。
「俺も、うれしい。すごく」
 それを口に乗せると、
――ごめん、ちょっとだけ」
 あたたかい腕に、ぎゅっと抱きしめられた。

 名残惜しげに体を離した二人。由井は未練を断ち切るように、努めて明るい声で話しながら歩き出した。
「でも、すごいね東京。話には聞いてたけど、想像以上だった」
「何が……うわ」
「おっと」
 会話に気を取られ、うっかり足を滑らせた鳴神を由井が支えた。
「はは、ルカさんでもこけたりするんだ」
 なんだか嬉しそうである。
「えっと、東京は雪が降るとすぐ交通が麻痺するって話」
 そう言いながら、また歩き出した由井。このひどい道路状況にもまったく戸惑う様子がない。
「これくらいの雪で何もかも止まっちゃうんだもんね」
「これくらいって……う」
 また滑った。思わず腕にすがってしまうが、由井は揺るがない。
「あ、ごめん。大丈夫? そっか、そうだった」
 なにやら一人納得している由井に、
「新、なんで普通に歩けるんだ?」
 鳴神が問うと、彼はにっと笑って答えた。
「俺、道産子だから」
「……ああ」
 そうだった。由井は札幌生まれの札幌育ち。首都圏が機能不全に陥るこの雪を「これくらい」と言い放ってしまう、紛うことなき雪国の人間だ。
「そうだよね、ルカさんこんな道慣れてないんだよね」
 対する鳴神は横浜生まれ。その後も、フランス・コルマールに住んでいた三年間以外は横浜もしくは都内住まいだ。コルマールも冬は寒くそれなりに雪も降るが、雪国というほどの積雪はなく、このような状態の道にはまったく不慣れである。
 しかし、それにしたって、ここまで違うものだとは。
「すごいな」
 感嘆のまなざしで見つめる鳴神の左手を、厚みのある右手が取った。
「じゃ、行こうか」
「おい」
「いいでしょ。転んだら危ないし。誰も歩いてないし」
 確かに、いつもなら早い時間にも多少は見られる人通りが、この天候のせいだろう、気配すらない。
「久しぶりに会えたんだし。ゆっくり、行こう」
 手に、力がこもる。手袋越しに伝わる体温があたたかかった。

「来週から、ガラ・デュ・ショコラが始まるんだよ」
――一年、か」
「一年、だね」
 二人の口元に笑みが浮かぶ。
 昨年のこの時節、彼らは紆余曲折を経て、恋人同士になった。今となっては笑い話だが、あの頃は真剣に悩み、苦しんだものだ。
「去年はこんなに降らなかったよね、雪」
「今年は特にすごい。俺もこんなのは初めてだ」
「来週降らないといいけど……あ、また降ってきた」
 由井が顔を上げる。鈍い色の空から、はらはらと落ちてくる白いかけら。
「一日続くらしいな。今日は終業時間を早めることになるかもしれない」
 仕事が進まないのでは、会社にいたところで意味がないし、出勤した従業員たちが家に帰れなくなっても困る。香月はそういう決断は早いから、おそらくそのような通達を出すことになるだろう。鳴神も、スケジュールの調整さえ終われば、いつもより早い帰宅になる可能性は高い。
「うちも考えとこうかな。いくら店開けてても、お客様が来れないんじゃね」
 のろのろと進む足がふと、止まる。
「ねえ、ルカさん」
 由井はいいこと思いついた、と子供のような顔で言った。
「今日もし早く帰れたら、うちで一緒に晩ご飯食べよう」
――いいな、それ」
 ガラの準備は大丈夫なのかとか、バレンタインの仕込みが忙しいんじゃないかとか。
 そういった言葉を押しのけて、思わず漏れた本音だった。
「そんな顔しないでよ」
 由井が、困ったように笑う。それが可愛くて。
「!」
 つい、唇を奪ってしまった。
「……俺、我慢したのに」
「我慢がきかなくて悪い。相変わらず」
 デジャヴを感じるやり取りに、また笑みがこぼれる。
 雪の降り積もる、驚くほど静かな朝の道を、歩く。
 手を繋いで、ゆっくり。


「じゃあ、また」
「ああ。連絡するから」
「うん」
 人気がないのをいいことに、研美本社の通用口近くまで手を繋いだままやってきた二人は、短い言葉を交わして別れた。
 これから対応しなければならない事態を考えると憂鬱だが、それが終われば、幸せなひとときを迎えられそうだ。
 危なげない足取りで去っていく背中を見送り、まだぬくもりの残る左手をさすりながら天を見上げた鳴神は、降り止む気配のない白い魔物に、感謝を捧げた。


−終−