The Only Exception (1)


 気が重い。

 マウスを操り、ディスプレイに現れた情報を確認しながら、鳴神なるかみはため息をついた。
「鳴神さん、暗いですよ」
 後ろを通りがかった受付の伊藤が声をかけ、画面を見て足を止めた。
「あ、ビジューのチョコ!」
 声がキラキラしている。女という生き物は本当にチョコレートが好きだなと思う。
「うわあ、おいしそう。どうしてこんなの見てるんですか?」
「今晩、急遽社長が会長と会食することになったから。手土産に用意しておけって」
「ああ、会長、甘いものに目がないですもんね。……あれ、でも鳴神さん、大丈夫なんですか?」
 伊藤の気遣いに、鳴神は何気なさを装って答えた。
「買ってくるだけなら大丈夫だよ」
「よかったら私が行きますけど」
 親切心抜きで行きたそうな様子ではあったが、断ることにする。
「いや、自分が行けないわけでもないのに他人に行かせたって守口が知ったら、何言われるやらわからないし」
 印刷ボタンを押しながらそう言うと、伊藤も苦笑した。
「そうですねえ、守口さんそういうの厳しそう」
 あいつはそういうの以外でも厳しいけどな、俺限定で。と心の中でつぶやき、鳴神は席を立った。忠実に職務を遂行しているプリンターへと近づく。排出された用紙を取って赤ペンでチェックを入れ、クリアファイルに挟んだ。
「室長。昼食に行って、贈答品の買い物を済ませてから戻ります」
「はい、行ってらっしゃい」
 秘書室長である村田の返事に軽く一礼した彼は、その長身を翻して部屋を辞した。


「ご注文はお決まりでしょうか」
「スープとサラダのランチセットを、キッシュ・ロレーヌで。食後にコーヒーを付けてください」
 鳴神と目が合った女子店員ははっと息を詰め、うっすら頬を染めると、
「か、かしこまりました」
 と去った。
 鳴神は日本人の父と、独仏ハーフの母の間に生まれた子供だ。日本人にしては彫りの深い色白な顔の上には、長いまつげに縁取られた大きな目とすっと筋の通った鼻、ばら色の唇が絶妙な配置で載っている。淡い茶色の髪もちょっと緑がかったブラウンの瞳も天然ものだ。モデルや芸能人だと言っても違和感がないほどのその美形ぶりが、目が合った女性(時に男性)の動作をぎこちなくさせることはさほど珍しいことではなかった。
 多少危なっかしい手つきで運ばれてきたキッシュを口に運ぶ。さっくりとしたタルト生地にベーコンの塩気が効いたやわらかい中身。鳴神の母方の祖父母はフランスのアルザス地方で小さな宿屋を営んでいて、キッシュ・ロレーヌは祖母の得意料理だった。カフェの前に設置された黒板にその名を見つけ、懐かしくなって注文したのだ。
 うまいけど、やっぱり「あの味」とは違うな。
 下降ぎみの気分を上昇させられるかと思ったが、別の方向で切なくなってしまった彼は、再びため息をついた。

 同僚である守口からの指令が、鳴神の鬱の原因だ。
「ショコラトリー『ビジュー・トウキョウ』にて贈答用チョコレートを調達せよ」
 鳴神と守口は二人一組で、日本最大、世界でも十指に入る化粧品メーカーである株式会社「研美けんび」の社長秘書を仰せつかっている。二人は同等の地位であり上下関係はないのだが、そういう相手に「お前ちょっとチョコ買って来い」とパシらされているから腹を立てている……というわけでもない。パシリを嫌がっていて秘書が務まるものか。
 問題は別の部分にある。
 ビジュー・トウキョウはこの秋、鳴神の職場である研美の本社ビル近くに登場したショコラトリー(チョコレート専門店)だ。パリの人気店ビジューが、研美本社だけでなく数々のファッションブランドや洒落たインテリア雑貨の店などが軒を連ねるモードの中心地にオープンしたその店は、同店初の二号店かつ海外店舗ということで前評判から非常に高く、開店当初は長蛇の列が歩道にまではみ出す勢いだった。一ヶ月ほどが経ち、ようやくその熱狂も落ち着いてきたようだが、いつ見ても常に客でにぎわっている。
 列ができていたって、並ぶこと自体が嫌だというわけでもない。ただ、おそらくチョコレートの芳醇な香りが漂うであろう店内に入ってからは、最短で用事をすませたい。時間がかかればかかるほど困難は増すと予測されるので、他の客は極力少なくあってほしい。
「……はあ」
 ため息ばかりつくのも道理。実はこの鳴神という男、チョコレートをまったく受けつけないという珍しい体質なのだった。食べれば気分が悪くなり頭痛や吐き気に襲われ、悪くすると本当に吐いたり、寝込んだりする。多くの人々がうっとりするその芳香すら、食べてしまった場合ほどではないが彼を苦しめ、脂汗を生じさせる。
 「鳴神はチョコレートアレルギー」という話は、彼の入社初年度のバレンタインデーに多くの女性を残念がらせて以来、研美本社に勤める女性社員の間では有名である。殺到するチョコレートを断る口実だろうとやっかんだある男性社員が、それと知らせずにチョコクリーム入りのパンを鳴神に差し入れ、一口かじった彼が青くなってトイレに駆け込むという事件があってから、ますます有名になった。ちなみに鳴神自身はその男性社員を責めなかったが、周囲の白い目に耐えきれなくなった彼はしばらくして辞職した。罪な体である。
「アレルギーって、あなたチョコレート食べたら死ぬの?」
 守口にそう聞かれた時、そこまでひどくはないと答えたが、いっそ死ぬと言っておけばよかった。いや、死ぬと言っていたところで買いに行かされたかもしれない。あれは鳴神が嫌がることをやりたくてしょうがない女だ。入社から五年半が過ぎた今、バレンタインデーに彼にチョコレートを贈るような女性社員は事情を知らない新人か、知っていてあえて無視する守口くらいのものだ。
 なんの慰めにもならない不毛な回想を切り上げ、食後のコーヒーに手をつけた鳴神は、向かいに見えるビジューの店内を再度チェックした。このカフェを選んだ本来の目的はキッシュ・ロレーヌではなく、この立地だった。食事中ずっと眺めていたけれども、まったく客足の途切れることがない。商売繁盛でめでたいことだが、彼にはちっともめでたくない。
 そしてさらにめでたくないことに、ビジュー・トウキョウはパリ本店からの空輸品を扱うばかりでなく、店舗併設の厨房で商品の製造も行っているのだった。なんでも、本店のお墨付きを得たフランス帰りの日本人ショコラティエが腕を奮っているという。なんでそんな余計なことをするのか。ますます匂いが強くなるじゃないか。
「まあ、案ずるより生むが安し、と言うし」
 その体質ゆえに彼は今まで、ショコラトリーなどという場所には足を踏み入れたことがなかった。どのような状態なのかがわからないから余計に不安が増しているのだとも思う。行ってみれば案外、恐れているほど強烈な匂いではないかもしれないし、試食品を勧められたからといって断れないような性格でもない。チョコレートを口にさえ入れなければ、耐えられなくなるほど具合が悪くなることはないだろう。
 仮定と否定と推定を駆使して自分を説得しているうちに、客が一人だけという状態になったのが見えた。いくら嫌がってみたところで、社長が帰社する夕方までには品物を調達しなければならないのだ。肚を決め、鳴神は席を立った。