The Only Exception (2)


 ケーキの上に飾るチョコレート細工を作る作業を終え、由井ゆいは一息ついて、店内の様子をガラス越しに確認した。
 客は二人。奥様風の女性と、スーツ姿の男性。男性の一人客というのは珍しいが、連れではなく個別の客らしい。おそらく彼は自分で食べるのではなく、進物の購入にでも来たのだろう。販売を担当するスタッフが昼休憩や包装資材の補充のために一人しか残っておらず、男性の方は待たされている。女性客はどうやら選びかねているらしく、時間がかかっているようだ。製造でいま動けそうなのは自分だけ。
 仕方ない、出るか。
「いらっしゃいませ」
 厨房から続くドアを開け、男性客の前まで移動する。
「お待たせして申し訳ございません。ご注文はお決まり、で、しょうか」
 ……詰まった。
 驚くほど綺麗な男だった。180cmある由井とあまり変わらないくらいの長身だが痩せ型で威圧感はなく、ヨーロピアンテイストな細身のスーツを美しく着こなしている。異国の血の入った端正な顔立ち、触れたらさらりと音を立てて流れそうな明るい色の髪に、茶と緑の混じる不思議な色合いの瞳。
 ――そしてその瞳はどういうわけか潤み、目元は赤く色づいているのだった。
「あ、」
 ぼんやりしていたらしい男ははっとしたように由井を見た。目が合う。ぞくっとした。
「あの、これ……、ひとつずつ」
 差し出された紙は、この店のWebサイトの商品紹介ページをプリントアウトした物だった。詰め合わせ商品の上に二ヶ所、印が付けられている。
「あ、はい、かしこまりました」
 由井が紙を受け取ると、彼は目を伏せ、熱く息をついた。

 どうしたんだ、この人。なんでこんな状態なんだ。

 とまどいながらも指定の商品を取り出し、レジに置く。奥様はまだお悩みのようだから、先にこちらを会計してしまってかまわないだろう。
「ボンボン・ショコラ18個入りを一点と、トリュフ10個入りを一点、以上でよろしいですか?」
 内容を確認する。再度視線を合わせた彼は、頬を赤らめたままうなずき、由井は知らずごくりと喉を鳴らしていた。
「では、5775円と、2625円の二点で、合計8400円でございます」
 機械的に会計を進めたが、彼の顔が気になるあまり、トレイの上に支払われた札に手を伸ばすのがしばし遅れた。
「あ、では、1万円、お預かりいたします。……こちら、1600円のお返しとレシートでございます」
 もっと近くで見たい。
 強い思いにかられ、商品を詰めた手提げ袋を持ってレジから離れた。忙しくない時はカウンター越しではなく、客のそばまで行って商品を手渡すようにと販売スタッフには指導している。この行為は不自然ではないはずだ。
 由井が近づくと、彼はあからさまに動揺した。
「お客様?」
 ますます赤くなっていく顔、おびえたようにゆらぐ瞳。半開きになった唇がとてつもなく色っぽい。艶っぽい。

 ――ぶっちゃけエロい。

 由井はここが店であることも相手が客であることも忘れ、彼を抱きしめてキスしたい衝動にかられた。しかし、幾多の努力の末に認められ任されたこのポストばかりか、人としての信用すら失ってしまうその行為に、理性がかろうじて歯止めをかけた。
「あの、こちらを」
 由井が差し出した手提げ袋を、ついに耳まで赤くなってしまっていた件の客は。

「……どうも!」

 奪取してダッシュした。
 駄洒落のようだが本当にそうだった。
 ガラスの入った木製の扉に激突するようにして出て行った客に、まだ悩んでいた奥様もそれに根気強くつきあっていた販売スタッフも驚いて顔を上げた。
「シェフ?」
 由井はスタッフに声をかけられるまで、閉じた扉を見つめてぽかんと立ち尽くしていた。


 なんだあれは。
 どういうことだ。
 逃げるように店を飛び出した鳴神は、人目を避けて入り込んだビルの隙間で壁にもたれ、肩で息をしていた。

 店の扉を開けたとたん、危惧していたチョコレートの匂いが鼻に届いた。少々ひるんだが覚悟を決め、店内へと足を踏み入れた。
 前の客は一人だったが、優柔不断かつおしゃべり好きな空気の読めない奥様で選ぶのが遅く、しばらく待たされた。しかし、気分が悪くなることはなかった。それどころか、何かふわふわと心地よくすらある。
 おかしいと思っていたところに、厨房から職人が現れた。先ほどチェックしたWebサイトの情報により、彼がこのビジュー・トウキョウで腕を奮う気鋭のショコラティエ、由井あらたその人だということがわかった。と同時に、彼の出現で密度を増したチョコレートの匂いに、なぜか顔が熱くなり頭がぼんやりしてきて、まともな思考ができなくなってしまった。あやうく注文するのを忘れかけた上、その注文も口頭ではできず、覚え書き代わりに持ってきていた紙を渡して頼む有様である。
 会計も上の空ですませると、由井は手提げ袋を持ちカウンターを出て、こちらにやって来た。
 遮蔽物のない状態で間近に立たれ、その甘い匂いをいっそう深く感じた瞬間。

 ――ぞくり。

 覚えのある感触が背筋を駆け抜け、鳴神はパニックに陥った。
 一刻も早くここを離れなければ。その一心で自分が取った行動も信じられなかったが、あの感触はもっと信じられなかった。
 そう。自分はあの店のチョコレートの匂いで、気分が悪くなるどころか。

 欲情、して、しまった。

 鳴神は衝撃のあまり、立っていることすらできなくなり、ずるずると地べたに座り込んだ。