思いがけぬ一日


「らっしゃっせー!」
オフィス街の駅前、居酒屋「鳥之助」は今日も営業中である。威勢がよすぎてもはや原型をとどめていない「いらっしゃいませ」に迎えられる客は主に、一杯やって仕事の疲れを癒そうというサラリーマンの方々だ。給料日前だからか、金曜日ながら客の入りは少なめ。今日は楽にこなせそうだと思いつつ器を引き上げていた俺は、
「らっしゃ…げっ」
前田の変な声に入口を振り返って、笑った。
「よう、佐倉」
「ヒロくーん、元気ー?」
手を振る佐倉の後ろには女子がぞろぞろ並んでいて、何かの集まりの帰りに寄ってみました、という雰囲気だった。内緒にされていたらしい前田が、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「何人だ?」
「んーとね、九人。入れる?」
「ああ、テーブルつけるからちょっと待って」
しかし、席作りの手伝いに向かった俺は、八人の女性に囲まれた一人の男性を見て、のんきに笑っていられなくなった。
「侑さん?!」
「こんばんは」
侑さんはにこ、と人あたりのいい笑みを浮かべた。いや、「にこ」じゃないでしょあなた。
「試験の時のお礼にって、皆さんに誘われてしまって」
「そうでーす」
女性陣がウフフと笑っている。さてはこいつら、あのノートの恩恵にあずかった連中か。
「ヒロくんの働いてるところも見てみたかったし」
ついでのように言われたが、これがいちばんの理由だろうと察しがついた。う、なんか恥ずかしい。
「はいはい、座って座って」
「芳野さんはこっちね!」
前田に促されて皆ぞろぞろと席につく。侑さんはあれよという間にいちばん奥に押し込められ、話すこともできなくなってしまった。
「すんません店長、うるさいのが来て」
「ま、たまにゃいいだろ」
前田の詫びを軽く受け流した店長だったが、内心喜んでいるに違いなかった。いつも地味なスーツ客ばかりで、女性の団体なんて滅多に来ないのだから。

 突如現れた珍客の影響で、店内が妙に活気づいてきた。にぎやかな店は人を呼ぶのだろうか、その後どんどん客が増えていつにない大賑わいとなり、俺は最初の思惑とは逆に、忙しく立ち働く羽目になってしまった。
「ご注文は?」
「らっしゃっせー!」
「ありがとぁっしたー!」
時おり侑さんの方に目を遣ると、騒がしい女子大生に囲まれて穏やかに笑っていた。やにさがっている風に見えないのは、俺が侑さんの性癖を知っているからだろうか。
「なあヒロ、あの男の人お前の知り合いだろ?」
忙しさの合間に前田が話しかけてきた。
「そうだけど」
「なんつーかさ、ハーレム感がないよな」
「なんだそりゃ」
変な造語に首を傾げると、
「だってさー女八人に男一人だろ? 普通ウハウハじゃん。でも全然そんな感じに見えなくね?」
 う、こいつ鋭いかも。
「お前、男が全員自分みたいな人間だと思うなよ」
「失礼な。まーでもあの集団の中じゃ俺でもウハウハは無理だな」
「同感」
と、入口の自動ドアがまた開いた。
「らっしゃっせー!」

 一段落ついた頃を見計らって、前田と二人でご一行様に大量のシャーベットを持っていった。
「これ、店長からサービス」
「わ、やったあ」
「ありがとうございまあす!」
女性陣が厨房の方へ口々にお礼を言うと、店長は顔を上げずに、片手だけ上げて応えていた。自分でやっといて照れんなよオヤジ。
 かしましい集団はそれからまたひとしきり喋りたおした後、やっと帰っていった。時計を見ると、もう十一時前だ。あいつら四時間以上いたのか。
「女の尻には根が生えてるってほんとだな」
「ああ、ほら椅子にこんな大穴が」
馬鹿話をしつつテーブルを元に戻し、残りの仕事をこなした。
 えらく気疲れした一日が終わり、スタッフルームに戻って携帯を見たら、メールが二通着信していた。一つは佐倉から、この近くのカラオケでオールナイトのお誘い。そして、もう一つは。
「お前も行くだろ?」
同じメールが入っていただろう前田の問いに、
「や、今日はパス」
と即答。
「ええ〜、ヒロミちゃん最近つきあい悪ぅい」
「その呼び方やめろっつの」
「哀れな子羊を一人で狼の群れの中に放り込む気かよ」
「子羊ってツラか。他の連れてけほら後藤とか」
「うわったった」
返信を打ちながら、隣にいたもう一人の同僚を引っ張る。着替え中だったので転びそうになっていたが。
「うんにゃ、やっぱお前が来ないと始まんねっつーか」
「ダメなもんはダメ。先約あるから」
「あん、新しいオンナかあ?」
メールを送信し終わり、わざとらしくにっ、と笑ってやると、前田もわざとらしくため息をついた。
「ったく俺というものがありながらこの野郎、よし後藤! 一緒にハーレムに行こう!」
「…さっき、狼の群れとか言ってなかった?」
「空耳だ」

 前田たちと別れた俺は、もう一通のメールに書かれていた場所、駅に向かった。
「お待たせ」
柱にもたれて携帯の液晶を眺めていた侑さんは、俺の声に顔を上げ、ふわりと笑った。
 終電近い電車で帰途につく。経緯はだいたい俺の想像通りだった。
「英文科の合宿帰りだったんだって。断ろうかと思ったんだけど、ヒロのバイト先に行くっていうから、つい」
「いじめられなかった?」
「まさか。でも、みんな元気な子だったから、圧倒されて、なんだか相槌打ってばかりだったけどね」
侑さんはそう言って笑い、
「いつもと違うヒロが見られたのがうれしかったな。制服、似合ってたよ」
と、付け加えた。照れて決まりの悪い表情になった俺を見て、侑さんはさらに楽しそうに笑った。
 駅を出て、マンションまで並んで歩く。ふいに隣から、
「よかった」
と、つぶやく声が聞こえた。
「何が?」
尋ねると、ちょっとうつむき加減の横顔が、
「ヒロ、佐倉さんたちの方に行っちゃうかもしれないと思ったんだ」
などと言い出した。
「んなわきゃないでしょう」
「うん。うれしい」
若干の抗議も混ぜた台詞を口にするやいなや、腕に侑さんがくるりと巻きついてきて、驚いた。……これって、ひょっとして。
「侑さん、けっこう酔ってない?」
「ん、そうかも」
満面の笑みが返ってくる。よく見れば、頬がかすかに赤い。そうか、この人酔っても顔に出ないタイプなんだ。色白なのに珍しい。
 歩きにくいと思いつつも、ちょっと幸せなんか噛みしめながら進んでいると、また、隣からつぶやきが聞こえた。
「ヒロくんいいよね、って言ってる子がいて」
巻きつかれた腕にぎゅっ、と力が加わる。
「僕、何も言えなくて。飲む方に走っちゃったんだ」
 どう返事をしていいかわからなかった。
 話してもよかったのに、と言えるほどの度量は正直、俺にはない。情けないが、侑さんを今までの彼女と同じように皆に紹介するのはやはり、ためらわれる。
 だが、もし必要にかられれば、俺はそれをやれると思う。だけど、侑さんの方はそれを良しとするだろうか。
 ―――ともあれ、侑さんにつらい思いをさせたのは申し訳なかった。
「ごめん」
謝りながらふと、気づいた。そうか、前田が俺を連れて行きたがったのはその女がいたからか。きっと佐倉から俺の拉致命令が出てたんだろう。
「……いやだ」
隣を歩んでいた足が、急に立ち止まった。
「ヒロ、僕のこと捨てないでね」
ベタなドラマみたいな台詞にびっくりして顔を向けると、うるうるした瞳が俺を見つめていた。
 うっ、かわいい……
「そんなことしない。絶対」
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ、キスして」
酔っ払いのうるうる攻撃に負けた俺は、こっぱずかしい会話を交わした上、ずっと毛嫌いしていた路チューというやつをかなりディープにかましてしまった。バカップルですみません。

 その晩の侑さんはいつもと違ってえらく大胆で、俺をとても楽しませてくれた。次の日真っ赤になって逃げ回ってたけど。
 そしてその後の情報によると、侑さんは「優しくて聞き上手なお兄さん」としてますます株を上げ、俺を狙っていたという女はなぜか後藤とくっついたらしい。
 まあ、世の中そんなもんだ。


−終−